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こどもと本ジョイントネット21・山口


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大内氏館(25)龍福寺Ⅻ山門脇の土塁 @ 大内氏遺跡指定60周年記念バスツアー2019㊵ [2020年05月03日(Sun)]
【前回の続き】

「史跡(大内氏遺跡附凌雲寺跡) 大内館跡」案内板に、
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館は、百間四方の堀と土塁に囲まれた中に造られていたと言われています。現在は、ほとんどその面影を見ることは出来ませんが、山門の東側竹藪の中に土塁の一部を見ることができます。

と、土塁の名残を見ることができる、とあり、ずっと、どこだろうと探していましたが、今回、その場所が分かりましたぴかぴか(新しい)
山門脇に竹藪があり、少しだけこんもりしていました。

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大内氏館第24次調査の結果、土塁の名残とされた山門脇の高まりは、16世紀中頃から後半の遺構群をおおいかぶせたものであるとことが確認されたとのことです。
つまり、大内氏館の遺構ではなく、大内氏館廃絶後の遺構だということです。

考えられるものは、2つあるようです。

かわいい大内輝弘の乱の名残ひらめき

1569(永禄12)年、豊後大友氏の許に身を寄せていた大内輝弘(政弘の次男高弘の子ども、つまり、義隆のいとこ)が山口に乱入し、「築山竜福寺」に立て籠もりました。
岩国領の家老香川正矩によって編纂された『陰徳記』四六巻(山口県文書館蔵 藩政文書 三卿伝史料417)に、

築山ノ付近ニモ塀ヲ付、堀ヲホリ、矢倉ヲ上ゲテ用心堅固

とあり、山口への入り口のあちらこちらに逆茂木(さかもぎ)を備えさせたり、堀を作らせたりなどし、また、松木入道一佐の「どうして堀など構える必要があるのですか。」という進言を押し切って、築山の館の周りにも塀を取り付けて堀を掘り、矢倉を構えて堅固に用心したようです。
輝弘の乱は、毛利軍によってわずか10日あまりで鎮圧されました。
もしかしたら、そのときの跡ではないか、とも考えられるそうです。


少し話がそれるのですが、山口市中矢原の石州街道沿いに「調べの森」というのがあります。
もう、住宅が建ち並びその面影は全く残っていませんが、大内輝弘が豊後の国から押し寄せ秋穂白浜に着岸した際、毛利側は関所を設けて通行人を調べたことによるといいます。そして「矢原にて火を立て(のろしを上げ)候はば、鴻ノ峰(城)より火を合わせ申し候」とあります。
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高嶺城跡から望むと、ここからは山口盆地が一望できます。大内氏館跡、築山跡ももちろん調べの森のある矢原も。
当時は今のように樹木はなくもっとよく見えたはずです。矢原であげたのろしもきっと見えたことでしょう。
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市川経好(いちかわつなよし)を城番として置きました。永禄十二年(一五六九)に大内輝弘が山口に攻め入った際に、毛利勢はこの城の守りを固めて寄せ付けなかったといわれています。」と案内板にあります。
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大内輝弘は秋穂に上陸し「お上使道」を通り、梅の木峠を越え、陶に至り、陶峠を越えて山口に入ったといわれています。
陶峠の麓に正護寺という寺があります。
陶氏ゆかりの寺で「大内輝弘の乱で兵火にかかり、今の地「陶の館」の跡に移転建立された。」と案内板にあります。
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その他にも山口市内には、大内輝弘関係の史跡があるようです。田中穣 編著 『秋穂町の史跡と伝説』「輝弘の乱と秋穂付近の伝説」に詳しいのでそちらをご覧ください。



かわいい益田元祥が龍福寺を拝領し仮寓したときの名残ひらめき

毛利氏の重臣の益田元祥(1558〜1640)が関ヶ原の戦い(1600(慶長5))後、輝元から龍福寺を拝領しました。
『寺社由来』の「山口町 竜福寺」(山口県文書館蔵 寺社由来815)項に、

御打入之時(、)只今寺地益田殿御拝領(、)寺破却(、)又慶長十二年今寺被成御書御建立

とあります。
もしかしたら、そのときの跡ではないかとも考えられるそうです。



参考文献:
『大内氏館跡12』(山口市教育委員会 2011)「龍福寺の動向と時期区分」P253〜260
『大内氏館跡13』(山口市教育委員会 2012)P186〜7



【次回に続く】
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