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こどもと本ジョイントネット21・山口


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大内氏館(1)枯山水庭園(3号庭園) @ 大内氏遺跡指定60周年記念バスツアー2019O [2020年04月05日(Sun)]
【前回の続き】

氷上山興隆寺を後にして、バスに乗り込み大内氏館に向かいます。
大内氏館は、山口市大殿大路に建てられた城館で、周防国・長門国を本拠とした大内氏の居館(守護館)です。大内氏が政務を司った所であり大内氏の栄華を示す遺跡ですぴかぴか(新しい)

大内氏館は、1959(昭和34)年11月27日、大内館跡・築山館跡高嶺城跡凌雲寺跡からなる
4E041098-ED84-4688-8036-210D8BFA25D4.jpeg築山館跡 8873FF23-89FC-4BE3-9F65-9E10D16A536F.jpeg 0170AED4-149E-4EF5-A3D1-0290ACAC5191.jpeg高嶺城跡 186B97C5-9BB5-46AD-AA25-A5A04A00811C.jpeg凌雲寺跡

大内氏遺跡 附(つけたり)凌雲寺跡」として国の史跡に指定されています。
2017(平成29)年4月6日、高嶺城とともに続日本100名城(174番)に選定されました。

館は、確証を欠く憾はあるそうですが、現龍福寺境内といわれ、その南辺を東西に通る道路の大殿小路(大路)の名は、この名残とされています。

龍福寺山門前にある案内板です。
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「史跡(大内氏遺跡附凌雲寺跡) 大内館跡」案内板。
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 ここは、大内氏二四代弘世が正平一五年(一三六〇)頃、それまでに館があった大内御堀から山口に移り、館を定めたところです。
 大内氏は弘世以後歴代がここで政務をとり、その領国は、中国・九州地方までおよんだため、山口は西日本の政治経済の中心地となりました。また、大内氏は海外との交易によって富の蓄積と異国文化の移入、京の戦乱を避けて公卿・僧侶などの文化人が、この館を訪れたことによって、当時の山口は京都をしのぐほどの富と文化を誇ったといわれています。天文二〇年(一五五一)大内氏三一代義隆は重臣陶晴賢の叛乱により滅亡しました。
 その後、陶氏を滅ぼした毛利氏は、弘治三年(一五五七)大内義隆の菩提を弔うため、この館跡に龍福寺を建立しました。
 館は、百間四方の堀と土塁に囲まれた中に造られていたと言われています。現在は、ほとんどその面影を見ることは出来ませんが、山門の東側竹藪の中に土塁の一部を見ることができます。


その上には空中写真が掲示されています。
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こちらの地図は参道脇の駐車場のところのものですが、北が上になっていないので、少し見にくいです。
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庭園が4つ発見されていますが、史跡北西部では枯山水庭園(3号庭園)が発見されました。
滝から流れ落ちた水が滝壺にたまり、礎石建物を取り巻くように流れていく様を石組や平玉石だけで表現しています。

1997(平成9)〜1998(平成10)年度の調査により発見され、2002(平成14)〜2003(平成15)年度に追加調査され、2006(平成18)年度に復元整備されました。
16世紀前半に構築され、その中頃に礎石建物の火災により焼失しました。火災後に庭石のいくつかは動かされ、その後の改変により破壊されています。義隆の頃の庭と思われ、陶隆房の謀反により焼失し、義長によって改変されたと推定されます。

「枯山水庭園」案内板。
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  枯山水庭園
 この庭は水を使わずに石や砂で水の流れを表現する枯山水庭園で、滝から滝壷に流れ落ちた水が建物の周囲を流れていく様子を表現したものです。
 この庭は1500年代前半頃つくられ、1500年代中頃に火災で庭園としての機能を失いました。火災の後に庭石のいくつかは動かされ、また西側の一部は西掘の掘削により壊されました。
 この庭がつくられた頃の当主は大内義隆と考えられ、大内氏の文化も最盛期を迎えました。そのため、この庭は華やかな大内文化を今に伝えるものと言えます。  
 この庭は破壊を受けているものの、当時の姿を比較的良く残していることから、発掘調査で見つかった庭園そのものを露出して整備することとし、石が抜けた部分には石を補充し、遺構が全く残っていない西部には土手状に盛土をして植物を植えました。


調査中の庭園(25次調査)。
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復元された庭園。
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4月6日に訪れると中に入れたので堪能しました。
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【次回に続く】
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