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こどもと本ジョイントネット21・山口


〜すべての子どもに本との出会いを〜

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興隆寺(9)山王社 @ 大内氏遺跡指定60周年記念バスツアー2019N [2020年04月04日(Sat)]
【前回の続き】

山王社のことは聞いていたのですが、ツアーの時は上がることはできなかったので、今回(4月3日)上がってみましたぴかぴか(新しい)
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「氷上浪漫里山の会」さんが整備されていて、山王社のあったところまでは楽々と行くことができます。
B71C589A-D7BF-4E74-9126-2978E14AE9E7.jpeg(現地案内板) 12A3D3E3-50AF-488C-BA69-CA4A7D0E3B17.jpeg(現地案内板) 
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「行程記」(山陽道一)と現代の写真との比較をした「氷上今昔物語」という案内板があり、とても興味深かったです。
「行程記」は江戸中期の作で、萩から江戸までの長大な参勤交代路を描く、街道絵図の傑作です(実物を観たことあります!)。なかでも萩往還部分は、1746(明和元)年頃に、萩藩絵図方の有馬喜惣太が中心となって描いたものといわれています。
21E1D9F6-BE44-438F-B032-9EA024082BC8.jpeg(現地案内板) DCA86CD6-B906-455E-966C-9C48DC58F47C.jpeg B7524CD8-0436-4822-93A2-05FCE6E1A549.jpeg(現地案内板)

鳥居まで建っていました。
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「頂上まで240m」という標識。
「240m・・・大したことない、上がってみよう。」と。
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山頂まで160mというところまで上がってみましたが、その先は結構な急斜面のため断念しました。
でも、興隆寺・北辰妙見社がよく見えます。
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「氷上山の山王社跡」案内板。
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  氷上山の山王社跡
 山王社とは、日吉山王権現を祀る神社です。日吉神社は延暦寺の鎮守社で、興隆寺は延暦寺と同じ天台宗です。
 氷上山の山王神社は、大内氏の活躍する中世に作られました。応安二年(1396)に、氷上山別当の祐弁が、本坊内に勧請したのが始まりです。その後、別当宥信(十五世紀初頭)の時に、現在地に社殿が建立されました。
 近世の山口は毛利氏が治めるようになります。近世初頭の寛永十六年(一六三九)に、後に萩藩二代目藩主となる毛利綱広が誕生し、山王権現を氏神としました。綱広の長男が誕生した寛文八年(一六六八)には、山王社は再建されます。毛利氏にとって貴重な神社として取り扱われたのでしょう。明治三年(一八七〇)、神仏分離によって山王社は氷上山から独立し、氷上神社(村社)となります。その後、明治四十二年(一九〇九)には御堀神社と合併することになり、廃社となりました。なお、山王社の手水鉢二基は、御堀神社に移築され、現在も見ることができます。
 現在、この山王社跡には、岩盤を削って作られた基壇が良好に残されています。それに続く拝殿・幣殿などの建物跡は、近世の差図を参考にロープで表示しました。


50FC7582-08B5-49F8-AF12-3946D5E21005.jpeg(現地案内板)
▲「山王社図」(「宝乗坊差図」(山口県文書館蔵))

「氷上浪漫里山の会」では、切り開いた5〜600平方メートルの広場に残る山王社社殿の全体像が分かるよう、専門家に聞いて本殿と接続する拝殿や幣殿などの当時の位置をセメントラインでマーキングされています。ですが、机と椅子が置いてあり、分かりにくかったです。

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山口市教育委員会による2011年の調査で、表面を清掃すると、岩盤を削り出した一辺2.7m四方の方形の段が現れ、その四隅には2.1mの間隔で柱穴がありました。これは本殿の基壇跡で、上掲の「山王社図」(「宝乗坊差図」(山口県文書館蔵))の寸法と合致しましたが、土師器が出土したものの近世のもので、この山王社跡が中世まで遡る確証は得られなかったそうです。(『室町時代の覇者 大内氏の世界をさぐる』(大内氏歴史文化研究会/編 勉誠出版 2019)「コラム 大内氏関連寺院の調査」P172〜174)

興隆寺・妙見社HPの「氷上山興隆寺・北辰妙見社の由来 興隆寺の由来」に

山王社は御堀神社として移築され、

とありましたが、御堀神社を訪れ確認してみたいです。

石積があったのですが、「これは、山王社の遺構では?」と思ってしまうようになりました。
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安楽坊のあとに興隆寺の関係の建物が建っています。
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ここには、真木先生のお話では『氷上山秘奥記』下巻(1750(寛延3))に出てくる行海和尚の建立した「六即石」のうち二つがあるとのことです(「周防国氷上山興隆寺の旧境内とその堂舎配置」(『山口大学文学会志』第65号(山口大学文学会 2015)) P49〜50)。見てみたい!

 六即下乗下馬石之事
六即石ノ事、法界門ヨリ本堂ニ至リ、六丁アリ、依テ六即四十二位ノ階級ニ約シテ是ヲ建ツ、下乗下馬石ハ、日光山ノ写シナリト申伝ヘタリ、共ニ中興僧正行海和尚ノ建立也、



【次回に続く】
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