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こどもと本ジョイントネット21・山口


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興隆寺(1)木造釈迦如来坐像 @ 大内氏遺跡指定60周年記念バスツアー2019F [2020年03月27日(Fri)]
【前回の続き】

いよいよ大内氏の氏寺の興隆寺ですぴかぴか(新しい)

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氷上山興隆寺については、ブログ記事「大内氷上の興隆寺と北辰妙見社に行きました」でアップしましたが、今回は特別のツアーなので、日頃は入れない興隆寺中興堂(釈迦堂)に入ることができましたひらめき

中興堂の中におわしますのは、釈迦如来様です。
木造釈迦如来坐像は大内氏の氏寺として栄えた興隆寺の本尊です。

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平成12年の調査結果、頭部内部に墨書銘が発見され、

永正元年(1504)大内義興が施主
 つまり義尹(よしただ)山口滞在中。
・大仏師越後法眼宗賢
・作者伊豆法眼院慶
 院派系の仏師と考えられる
 (配布資料より)

ということがわかりました。
それまで、面長な顔の輪郭、引き締まった顔の肉取り、ややつり上がった瞼の切れ込み、衲衣と裳の強い襞の表現から南北朝時代の慶派の作とされていました。

義尹(よしただ)といえば、十代将軍の義材(よしき)(在位:1490(延徳2)〜1493(明応2))、義稙(よしたね)(在位:1508(永正5)〜1522(大永元))ですよね。
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(九州国立博物館 特別展「室町将軍 ― 戦乱と美の足利十五代 ― 」にて撮影)

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・像高は114p、いわゆる「半丈六」
・檜材の寄木造り(頭部と体部が別材)
・顔:面長で引き締まった感じ
   眼に玉眼(水晶)
・納衣:通肩・うねりのある衣紋→院派
・印相:施無畏 、与願印
・台座:像高よりやや高め、八角七重の蓮華座。
    蓮弁部は抹茶茶碗型の魚鱗葺6段葺き 
 (配布資料より)

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室町時代彫刻の基準作としても、大内文化の歴史的な史料としても貴重な作例だそうです。

毛利の沢瀉紋があります。
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こちらは?
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僧形坐像。
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胎内銘に

院慶
伊豆法眼
仏師


とあり、「伊豆法眼院慶」は木造釈迦如来坐像にも作者として記されているので、本尊制作の際、造られたものでしょう。
(『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 平成22年)P826、P870参照)


外に「木造釈迦如来坐像」説明板がありました。
IMG_8326.JPG

山口市指定有形文化財
 木造釈迦如来坐像
 この釈迦如来像は、大内氏の氏寺として栄えた氷上山興隆寺の本尊です。
 ヒノキ材の寄木造で、高さ 一一四センチです。頭部と体部は別材で、頭部前面および体部前面材以外は小材を細かく寄せています。眼は玉眼を施しています。納衣(のうえ)をまとい、右手施無畏印(せむいいん) 、左手与願印(よがんいん)を結び七重蓮華座の上に結跏趺坐(けっかふざ)しています。彩色は剥落が著しく、台座、光背は部分的に欠失していますが、像本体に後世の補修はなく、当初の状態をよくとどめています。
 面長な輪郭に引き締まった顔の肉取り、ややつり上げた上瞼の切り込み、躰は全体にずんぐりとして角張り、うねりのある衣紋といった外見上の特徴と、像の内部で体部の前後材を枘でつなぐ制作技法上の特徴から、南北朝時代から室町時代にかけて、京都の仏師の中で中心的な一派であった「院派」とよばれる仏師による制作と考えられます。頭部内側から墨書銘が発見され、永正元年(一五〇四)に大内義興が施主となって造像したことが明らかとなり、大内文化の歴史資料としても貴重です。



【次回に続く】
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