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こどもと本ジョイントネット21・山口


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赤崎神社(3) & 大昌寺(元の長徳寺) @ 大内氏遺跡指定60周年記念バスツアー2019E [2020年03月26日(Thu)]
【前回の続き】

赤崎神社の境内を抜けて、大昌寺まで行きました。
大昌寺は、元は、赤崎神社の別当坊の長徳寺でしたぴかぴか(新しい)

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山門に掛かった寺号札。
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長徳寺は大内20代弘貞(?〜1286(弘安9)(1244(寛元2))が創建した伝えられるとのことです。やっと、大内氏の名前が出てきましたね。
御本尊 釈迦牟尼仏は鎌倉時代の木像だそうです。

九重石塔。
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右は宝筐印塔。
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秋穂八十八ヶ所霊場の13番札所の妙見社阿弥陀堂。
六角堂北方の妙見杜にあったものを大昌寺境内に移したものだそうです。
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左上が秋穂八十八ヶ所霊場の14番札所の阿弥陀堂。
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ここの墓地に小林和作の家の墓があるそうです。
鐘。
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今回のツアーで、何故、赤崎神社と長徳寺(現 大昌寺)を訪れたかというと、大内氏は、ここで、朝鮮からの使節を迎えているからです。
『李朝実録』の【世宗25年10月13日・嘉吉3(1449)】の項に、「大内教弘」「赤崎浦」というのがあります。また、【成宗10年4月1日・文明11(1479)】の項に、「大内殿(政弘)」「長徳寺」というのがあります。

大内氏は、当時中国大陸や朝鮮半島の沿岸一帯を荒らした倭寇を征圧して朝鮮の信頼を得て、1396年、大内義弘のとき、朝鮮へ使節を派遣しています。その後、歴代当主による使節派遣は1551年までの約150年の間に63回にもなったそうです。

毛利博物館には、「通信符(右印)・印箱」があります。
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「通信符」の文字を陽刻した銅印を半分に切断した右符印に当り、朝鮮より下賜されました。つまみの頂点中央に、「上」字、印の側面に「朝鮮国賜大内殿通信右符」、印の上部向って右側に「景泰四年七月 日造」と陰刻してあります。景泰4年は日本の享徳2年(1453)にあたり、大内教弘の時です。
大内氏は朝鮮王朝に対して使節を派遣するとき、この通信符を捺印した外交文書(書契)を使節に授け、正式な使節であることを証明しました。

大内氏遺跡指定60年祈念特別展「大内氏のトビラ 山口をつくった西国大名」では、毛利博物館にある日明貿易に使われた「日本国王之印」の印影などとともに
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(左上から「日本国王之印」「通信符」「多々良朝臣」「太宰大弐」「左京兆亜中大夫多多良義長」)

「通信符」の印影も展示してありましたわーい(嬉しい顔)
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『秋穂町の史跡と伝説』(田中穣/編著 秋穂町中央公民館 1978)を引用します。

大昌寺(旧長徳寺)
大内氏時代の古刹 
赤崎神社の東に大昌寺があります。大昌寺は明治三年社寺整理の時までは「宝珠山・長徳寺」と称していましたが、中野の定林寺を合併して名称を「放光山・大昌寺」と改めたものです。
 それは中野定林寺跡に引寺したのが長徳寺で、同じ名前になるから困まることもあろうと、改名したのです。大昌寺は弾宗の中の曹洞宗寺院です。
 その創建は寺伝によりますと大内弘貞といい、大内氏時代には大伽藍で繁昌したと伝えられ、大内氏亡きあと、大旦那を失って寺も荒れ、いつの頃か火災にあって宝物、世牌等までも焼失してしまいました。
 しかし、その時分得楽寺江月庵という末寺があり、その古跡、本尊等も現在し、末寺であった証文「得楽寺免田証文」もあったと寛保元年(一七四一)頃の『寺社由来』に書かれています。その得楽寺江月庵は俗称六角堂のことです。つまり六角堂についての古文書が本寺であった長徳寺にあったのです。
 その古文書のことは天保十二年(一八四一)『風土注進案』にも写しが載せられていまして、それによりますと応永五年、時の給領主曽原甲斐入道が出した永代安堵の得楽寺免田の証文があったのですが、応永九年二月十七日の夜、海賊が来て赤崎寺の証文類は凡て紛失してしまいました。
 このことについては地下の古老の者が皆知っている旨の申し出に対し、応永九年三月曽原左近将監幸範が赤崎長徳寺侍者あてにそのことを証するために書いたものです。このことにより応永年代に大海に曽原甲斐入道と曽原左近将監幸範なる少なくとも二代にわたる地頭(給領主)のあったことがわかります。
 そしてさきに秋穂のことについて述べました時永和元年(一三七五)大内弘世が防府の天満宮拝殿を造営した棟札に新左衛門尉なる人の名があることを申しましたが、それと共に<曽原次郎左衛門尉>なる人の名もあります。この人は<曽原佐近将監幸範>の祖であろうと、『風土注進案』にも注記されています。
 大内時代、秋穂側に秋穂氏があった時、大海側に曽原氏があったことがわかり続いて、毛利氏の初期寛永検地によって大海は宍道主殿助の知行所になりました。
 そして宍道氏がこの寺を再建しましたが、宍道氏は失脚して領地を没収され従って、再びこの寺も荒れて無住になっていました。
 それを小鯖の福厳院の寒向宗林和尚を迎えて開山とし、寺の再建に尽力したのが大円運徹和向で、元祿一三年(一七〇〇)に没していますが、この方を長徳寺の開基としています。それ以後寺は続き、現在職河村俊者和尚が第一六世に当たります。



【次回に続く】
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