車塚古墳(2) @ 大内氏遺跡指定60周年記念バスツアー2019A
[2020年03月22日(Sun)]
【前回の続き】
前方部石室も大きく崩壊が進んでいることから、危険な状態にあり、石室内部への立ち入りは制限されています。 ですが、今回のツアーでは特別に入ることができます
防府市教育委員会の方がゲートの前で説明。
この古墳は、6世紀後半(今から約1450年前)に造られた市内に残る唯一の前方後円墳です。古墳の南半分は、大内氏ゆかりの神社建設によって削られていますが、その大きさ(推定約58m)は当時の瀬戸内地方でも有数の規模を誇ります。
人を埋葬する横穴式石室が後円部と前方部の両方に存在する県内唯一の古墳です。
横穴式石室は、九州の影響を受けた複室構造と呼ばれるもので、四国(香川県西部)にも同様の石室があり、関連が指摘されています。
車塚古墳は、その規模や構造から、防府の地理的特徴やその後の国府成立を含めた当時の政治構造を明らかにする首長墓として評価され、防府市指定史跡になっています。
いよいよ石室の中に入ります。
車塚古墳は、畿内ヤマト王権に特徴的な前方後円墳である一方、その石室は九州を起源とする玄室・前室の2室と羨道で構成される複室構造をとり、南東500mにある鋳物師大師塚古墳とともに、複室としては瀬戸内海沿いにおける東限です。
車塚古墳の被葬者には畿内と九州の橋渡し的性格が示唆されます。
1841(天保12)年、『防長風土注進案』に三田尻村の名所旧跡として車塚「岩屋二ツ」とあり、石室の略図とともに様々な伝承や風聞が掲載されていますが、出土遺物などの記載は皆無であり、この時期すでに盗掘・開口されて久しかったことがうかがえます。
なお『防長風土注進案』に載る伝承の中には、百済の琳聖太子(大内氏祖)の4・5・6世孫三代はみな府中萬福に葬ると大内系譜にあることから、車塚古墳(石室2基)の「岩屋二ツ」および鋳物師大師塚古墳(石室1基)の「岩屋一ツ」をこの三代の墓ににあてるものがあるそうです。
前方部周囲のビル建設工事の際防府市教育委員会が立会調査を行い、少なくとも残存する前方墳丘から北および西の市道までの間には、周濠のような大きな地形の落ち込みのないことを確認しています。
防府市教育委員会の行った2019(令和元)年11月25日から2020(令和2)年2月初旬までの現地調査で、墳丘の構築方法や築造年代などが判明しました。
1389(康応元)年に、室町将軍足利義満は厳島参詣の旅を行いました。その旅の記録に『鹿苑院西国下向記』というのがあります。厳島神社に参詣したその日に神代(山口県大畠町)の沖まで足を伸ばし、翌日は周防の鳴門=大畠瀬戸をぬけ、竈戸関(上関町)や室積(光市)を経由して下松に停泊しました。周防の守護大内義弘
其夜大内を立て夜半ハかりニ下松にはせつく
が大内から下松に来て、義満は義弘が設けた宿所に入り歓待を受けます。
そこで法師が語ります。
此あたりをふるき物かたりにハかつまの浦(勝間浦)と申伝たり、この浦より十町はかりありて、松の一むらある所を車つか(車塚)と申すならハせり、是ハ百済国済明王の第三の皇子琳聖太子、生身の観音太士を拝し給へきよし祈念ありしに、告ありて日本へわたり給ふ、推古天皇御宇なり、則聖徳太子に相看し給て、たかひに法花の妙文にて意趣を通しましまして願望成就せりと也、琳聖太子崩御の後、車をおさめられし所とて車塚といへり、このあたりを多々良の浜といふ、来朝の時、船着岸の所をハ貴志津といふ、この車塚より十町ハかり東也、船よりをり給て幕を張たる所とて、今も幕うちといへり、車塚の社頭をハ多々良の宮と号す、御正躰三面あり、一社ハ妙見大菩薩にて御本地薬師如来と申す、一社ハ聖徳太子にて御本地十一面と申す、一社ハ琳聖太子にて文珠(殊)菩薩と申す、
このように『鹿苑院西国下向記』には、厳島参詣時に周防国に立ち寄った足利義満を接待する大内義弘の姿とともに、大内氏の渡来伝承とゆかりの地の記述があります。
百済の済明王(聖明王)の第三の皇子である琳聖太子が生身の観音太士(生き仏)に会いたい願っていたところお告げにより日本へわたり聖徳太子に会ったこと、琳聖太子の車を納めたことから「車塚」といわれるようになったこと、「多々良宮」という社を設けて祭神として「妙見菩薩」・「聖徳太子」・「琳聖太子」を祀ったことなど、とても興味深いです。
また、応永廿三(1416)年正月廿二日「大内氏奉行人連署奉書案」(阿弥陀寺文書71)に
符(府)中車塚堀事、
応永廿五(1418)年正月廿二日「大内氏奉行人連署奉書案」(阿弥陀寺文書64)に
多々良宮堀事、
応永廿七(1420)年十二月十一日「大内氏奉行人連署奉書案」(阿弥陀寺文書62)に
多々良宮御社堀事、
とあります。
「周防国防府の多々良浜にあった6世紀以後の前方後円墳の上に「多々良宮」という社を設けて祭神として「妙見菩薩」・「聖徳太子」・「琳聖太子」を祀ったのは、大内盛見でした。
盛見は、車塚古墳を一族の先祖の墓とみなして祖先祭祀の体制整備を目論見ました。」
「また、車塚古墳は、同時期に造られた畿内にある継体天皇陵と言われている今城塚古墳に形が似ています。」
(バスツアーでいただいた資料を引用させていただきました。)
【次回に続く】
前方部石室も大きく崩壊が進んでいることから、危険な状態にあり、石室内部への立ち入りは制限されています。 ですが、今回のツアーでは特別に入ることができます
防府市教育委員会の方がゲートの前で説明。
この古墳は、6世紀後半(今から約1450年前)に造られた市内に残る唯一の前方後円墳です。古墳の南半分は、大内氏ゆかりの神社建設によって削られていますが、その大きさ(推定約58m)は当時の瀬戸内地方でも有数の規模を誇ります。
人を埋葬する横穴式石室が後円部と前方部の両方に存在する県内唯一の古墳です。
横穴式石室は、九州の影響を受けた複室構造と呼ばれるもので、四国(香川県西部)にも同様の石室があり、関連が指摘されています。
車塚古墳は、その規模や構造から、防府の地理的特徴やその後の国府成立を含めた当時の政治構造を明らかにする首長墓として評価され、防府市指定史跡になっています。
いよいよ石室の中に入ります。
車塚古墳は、畿内ヤマト王権に特徴的な前方後円墳である一方、その石室は九州を起源とする玄室・前室の2室と羨道で構成される複室構造をとり、南東500mにある鋳物師大師塚古墳とともに、複室としては瀬戸内海沿いにおける東限です。
車塚古墳の被葬者には畿内と九州の橋渡し的性格が示唆されます。
1841(天保12)年、『防長風土注進案』に三田尻村の名所旧跡として車塚「岩屋二ツ」とあり、石室の略図とともに様々な伝承や風聞が掲載されていますが、出土遺物などの記載は皆無であり、この時期すでに盗掘・開口されて久しかったことがうかがえます。
なお『防長風土注進案』に載る伝承の中には、百済の琳聖太子(大内氏祖)の4・5・6世孫三代はみな府中萬福に葬ると大内系譜にあることから、車塚古墳(石室2基)の「岩屋二ツ」および鋳物師大師塚古墳(石室1基)の「岩屋一ツ」をこの三代の墓ににあてるものがあるそうです。
前方部周囲のビル建設工事の際防府市教育委員会が立会調査を行い、少なくとも残存する前方墳丘から北および西の市道までの間には、周濠のような大きな地形の落ち込みのないことを確認しています。
防府市教育委員会の行った2019(令和元)年11月25日から2020(令和2)年2月初旬までの現地調査で、墳丘の構築方法や築造年代などが判明しました。
1389(康応元)年に、室町将軍足利義満は厳島参詣の旅を行いました。その旅の記録に『鹿苑院西国下向記』というのがあります。厳島神社に参詣したその日に神代(山口県大畠町)の沖まで足を伸ばし、翌日は周防の鳴門=大畠瀬戸をぬけ、竈戸関(上関町)や室積(光市)を経由して下松に停泊しました。周防の守護大内義弘
其夜大内を立て夜半ハかりニ下松にはせつく
が大内から下松に来て、義満は義弘が設けた宿所に入り歓待を受けます。
そこで法師が語ります。
此あたりをふるき物かたりにハかつまの浦(勝間浦)と申伝たり、この浦より十町はかりありて、松の一むらある所を車つか(車塚)と申すならハせり、是ハ百済国済明王の第三の皇子琳聖太子、生身の観音太士を拝し給へきよし祈念ありしに、告ありて日本へわたり給ふ、推古天皇御宇なり、則聖徳太子に相看し給て、たかひに法花の妙文にて意趣を通しましまして願望成就せりと也、琳聖太子崩御の後、車をおさめられし所とて車塚といへり、このあたりを多々良の浜といふ、来朝の時、船着岸の所をハ貴志津といふ、この車塚より十町ハかり東也、船よりをり給て幕を張たる所とて、今も幕うちといへり、車塚の社頭をハ多々良の宮と号す、御正躰三面あり、一社ハ妙見大菩薩にて御本地薬師如来と申す、一社ハ聖徳太子にて御本地十一面と申す、一社ハ琳聖太子にて文珠(殊)菩薩と申す、
このように『鹿苑院西国下向記』には、厳島参詣時に周防国に立ち寄った足利義満を接待する大内義弘の姿とともに、大内氏の渡来伝承とゆかりの地の記述があります。
百済の済明王(聖明王)の第三の皇子である琳聖太子が生身の観音太士(生き仏)に会いたい願っていたところお告げにより日本へわたり聖徳太子に会ったこと、琳聖太子の車を納めたことから「車塚」といわれるようになったこと、「多々良宮」という社を設けて祭神として「妙見菩薩」・「聖徳太子」・「琳聖太子」を祀ったことなど、とても興味深いです。
また、応永廿三(1416)年正月廿二日「大内氏奉行人連署奉書案」(阿弥陀寺文書71)に
符(府)中車塚堀事、
応永廿五(1418)年正月廿二日「大内氏奉行人連署奉書案」(阿弥陀寺文書64)に
多々良宮堀事、
応永廿七(1420)年十二月十一日「大内氏奉行人連署奉書案」(阿弥陀寺文書62)に
多々良宮御社堀事、
とあります。
「周防国防府の多々良浜にあった6世紀以後の前方後円墳の上に「多々良宮」という社を設けて祭神として「妙見菩薩」・「聖徳太子」・「琳聖太子」を祀ったのは、大内盛見でした。
盛見は、車塚古墳を一族の先祖の墓とみなして祖先祭祀の体制整備を目論見ました。」
「また、車塚古墳は、同時期に造られた畿内にある継体天皇陵と言われている今城塚古墳に形が似ています。」
(バスツアーでいただいた資料を引用させていただきました。)
【次回に続く】
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