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こどもと本ジョイントネット21・山口


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大内重弘、大内弘世、上田鳳陽の墓 @ 臨済宗南禅寺派南明山乗福寺に行きましたB [2020年03月20日(Fri)]
【前回の続き】

琳聖太子供養塔の後ろの右側に大内重弘の墓、左側に大内弘世の墓があります。
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 大内重弘公の墓
重弘公は大内氏二十二代の当主です。鎌倉時代に元からの来襲「弘安の役」に際し、軍を率いて九州に渡り、元軍と戦ったといわれています。重弘公の代になると周防国の国司をしのぐ程の勢力をもち、だんだん大内氏の基礎を固めていきました。元応二年(一三二〇)三月六日死亡し、乗福寺に葬られました。法名を乗福寺殿道山浄恵大禅定門といいます。

  
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 大内弘世公の墓
弘世公は大内氏二十四代の当主で南北朝時代に足利尊氏に従い、南朝の守護として周防の統一をなし遂げました。その後北朝方になり周防・長門の守護に任じられるとともに石見にも勢力を伸ばし石見守護になりました。正平一五年(一三六〇)頃 弘世公はそれまでの本拠地大内を離れ、居館を山口に移しました。山口はその後二百年間大内氏の政治・経済の中心地となり大変栄えました。弘世公は天授二年(一三八〇)十一月十五日に死亡、法名を正寿院殿玄峯道階といい、乗福寺の塔頭正寿院に葬られました。

  
後ろに古い仏塔の残骸でしょうか、宝篋印塔の相輪と笠と思われるものがありました。
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重弘と弘世の墓は、六角形の塔身を持つ石塔です。
明らかに石が新しく後代の造立だと考えられます。

ここも山門の土塀と同じく漆喰が落ちかけていて、やばい感じです。
山口市さん、早めの修理をお願いいたします。
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そして、乗福寺で見落としていけないのは、上田鳳陽先生(と「先生」をつける人が結構います。)の墓です。
上田鳳陽は、1770(明和7)年に氷上の宮崎家に生まれ、後に上田家の養子となり、萩の藩校明倫館で修養に努め、47歳の時、1815(文化12)年に私塾 山口講堂を開き教育に尽力し、山口高等学校、山口大学の基礎をつくりました。

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鳳陽上田先生者我校之曩祖(のうそ)也以大正四年十一月十日追贈正五位実即位大礼挙行之日也
 大正五年五月八日
  山口高等商業学校校員
  山口県立中学校校員 一同


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 学都山口の開祖上田鳳陽先生の墓地は従来狭隘であったが先生生誕二百年祭記念を乗福寺のご好意により此処適地の提供を受けた
 鳳陽会員の浄財を醵出し、鳳陽先生及び高弟服部東陽先生の墓碑をここに移し改葬した
  昭和四十五年六月
   社団法人 鳳陽会


上田鳳陽の墓。
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東陽服部の墓。
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また、幕末には坂本龍馬や長州藩士が薩長連合について乗福寺で相談したとも言われています。

板戸の絵がなかなか良かったです。
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兎に何か花が描いてあります。
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鶴に竹。
竹の緑色は鮮やかに残っています。
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乗福寺は氷上の興隆寺・北辰妙見社からもそう離れていません。
2E0732C5-B60F-4797-91BF-BC7AAE9737D6.jpeg興隆寺・北辰妙見社(山口市大内氷上)

朝鮮の瓦が出土されたことから推測できるように古くからこの辺りに大陸色の濃い文化が栄えていたことでしょう。
乗福寺のある「御堀」という地名について、『防長風土注進案 12山口宰判 上』

乗福寺の奥に、もとの伽藍あり地、いにしへ大内殿 御館なりし(中略)御館外堀といふ事を御堀と名づけ

という記述があります(P155〜156)。
ということは、乗福寺の辺りにもともとの大内氏の館があったのでしょうか。
24代当主の大内弘世は、大内から移り住み、山口を本拠と定め大内氏館を大殿大路に築きます。

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▲復元された大内氏館の西門

弘世は死後、この地 正寿院(乗福寺)に葬られます。

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大内弘世公は、中世西日本の守護大名勢力をもっていた大内氏の二十四代の当主である。室町幕府の重臣として度々上京しているうち、京都の風情を好み、地形の似た山口盆地に京都になぞらえて町造りをした。これが「西の京」といわれる山口の町の誕生である。公はよく幕政(室町幕府)を助け、領国を治め、文学を愛し、社寺の建立保護に努め、まことに文武兼備の名将であった。康暦二年(一三八〇)山口で歿した。
 昭和五十五年三月     
  市制施行五十周年記念
  山口市長 堀 泰夫


ロマンを掻き立てられます揺れるハート


 乗福寺の由来
山号を南明山といい臨済の古刹である。本尊は観世音菩薩、開山は盧峰和尚、開基は大内重弘である。元応二年(一三二〇)三月重弘を当寺に葬った。延元元年(一三三六)北朝が本寺を勅願寺とした。貞和元年(一三四五)足利氏が諸国に安国寺利生塔を定めたとき、当寺をもって周防国の それにあてた。しかしその後火災にかかり荒れてしまったが、享録年間(一五三〇頃)大内義隆がこれを復興した。
寺伝によれば塔頭二十六、末寺八十八箇所もあったというが、大内氏滅亡後衰微した。
毛利氏の時代になり、本寺は解かれて博多に移築された。そして寺跡には小庵を建てわずかにその名を存していたが、寛文八年(一六六八)焼失した。そこで塔頭の正寿院を転じて乗福寺とし、今に及んでいる。
幕末、坂本龍馬が当本に於て長藩士と薩長連合の相談をしたことは有名である。
寺の後方に大内氏の始祖琳聖太子の墓、開基重弘の墓、山口開府の恩人 大内弘世の墓などがあり、また最近整備された学都山口の祖 上田鳳陽や服部東陽の墓がある。

  (今はありませんが、かってあった現地解説板より)
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