天声人語「中也の葛藤」を読みました
[2020年03月12日(Thu)]
第25回中原中也賞も決まり、第26回中原中也賞の募集も始まっています。
2月9日付朝日新聞の天声人語に「中也の葛藤」と題して中原中也及び中原中也賞のことが書いてあるのを読みました
〈汚れつちまつた悲しみに 今日も小雪の降りかかる〉。青春の切なさを詩につむぎ、昭和の初めに亡くなった中原中也。詩壇の芥川賞と呼ばれる「中原中也賞」が25年目を迎え、受賞者がきのう発表された▼賞を主催するのは、中也の出身地である山口市だ。しかし中原中也記念館の学芸担当原明子さん(34)は「中也は生前…
これ以降は有料会員限定記事だそうなので、以下をチェックしてみてください。
https://www.asahi.com/articles/DA3S14359656.html
「詩壇の芥川賞と呼ばれる「中原中也賞」」とありますが、それは「H氏賞」のことだと思っていました。中原中也賞が、「詩人の登竜門」と言われ、「詩壇の芥川賞」とまで言われるとは、山口市民として嬉しい限りです。
「中原家は代々医院を営み、」とありますが、中也の養祖父政熊が中原医院を開業したのであって、中原家は「代々」医家というのは正確ではなく「中原家は代々礼式の家」でした。なのでここは、代々をとって「中原家は医院を営み、」にすると違和感がありません。
「中学では酒やたばこを覚え、落第処分に。」とあり、酒や煙草を覚えたことが、落第の原因のように読めますが、そうだとは聞いたことがありません。直接の理由は、文学に熱中したために、成績不振になったからの筈です。なのでここは、「文学に熱中し、成績不振になったため落第処分に。」として欲しいところです。
「気ままぶり」とありますが、気ままに見える面も確かにありますが、天声人語さん自身がタイトルに「中也の葛藤」とされているのですから、苦悩に満ちた面を挙げられていないのは一面的ではないでしょうか。
「志望した大学には入れない。」とありますが、決して大学に入ろうとしていた訳ではなく、大学志望は、実家からの仕送りを得るための方便です。
「就職活動も投げやり」とありますが、日本放送協会の面接は受けますが、詩に生きようとしていた中也は、自分から就職活動をしたことはなかった筈です。
「母親が本人に代わって新聞社に採用を頼みに行ったこともある」とありますが、新聞社ではなく放送局。そして、母親のフクさんが会社(?)に採用を頼みに行ったというのは聞いたことがありません。 親戚の日本放送協会の初代理事だった中原岩三郎の斡旋で、放送局入社の話があり、中也は面接に行きましたが、実現しなかった、というのではなかったでしょうか。
まあ、そんなふうに???という箇所もあったのですが、それはさておいて、一番違和感を持ったのは、最後の結論です。
「詩壇の登竜門に自分の名が冠されていると知ったら、驚倒するにちがいない。」
「驚倒する」とは「非常に驚く」ことなので・・・・・・驚いてはいるでしょうが、
中也は喜んでいると思いますよ。きっとね。
私の父は、中也が中退した山口中学校の出身で、「中学校の先生達からいつも「中也のようになるな」と言われていた」と生前よく語っていました。漠然とちょっと前の先輩かと思っていつも聞き流していたのですが、あるとき年齢差を計算し、1907(明治40)年生まれの中也は1925(大正14)年生まれの父の15年以上の先輩にもかかわらず、そんなに語り継がれる程だったのか、と驚倒したことがあります。
とはいえ、私は中原中也記念館に行く度に、年譜の
本当は親孝行者だったんですよ。※
と中也が言って亡くなったというところを読むといつも涙が出そうになります。
山口弁に「きも焼き」という言葉があります。中也はきも焼きだったと思いますが、やっぱり親孝行者だったと思います。
自分の記念館ができ、
自分の詩碑が各地に建ち、
「帰郷」井上公園(湯田温泉 1965)
「冬の長門峡」長門峡入口(阿東 1984)
「悲しき朝」鳴滝公園(下小鯖 1986)
「童謡」錦川通り(湯田温泉)
自分の生誕地を示す石碑が建ち(それも親族が建てた!)、
生誕祭が祝われ、
2014 川上未映子さん
2014 谷川俊太郎と賢作さん
中也忌・墓前祭が行われ、全国からファンが集まり、
2018
中也に捧げる夕べが行われ、
2018
自分の名前を冠する賞が、2度もでき、それも、2回目の賞は、自分の出身の役所の主催でそれも26年も続き、詩壇の登竜門と言われている……。
第24回中原中也賞授賞式
中也が、親孝行者というのが「今に分るときが来ますよ」と言った通りになりました。
年譜にある草野心平の詩が好きです。
空間
中原よ。
地球は冬で寒くて暗い。
ぢや。
さよなら。
※ 母の指を、タバコを吸うときのようにして自分の二本の指ではさんだ。眼も見えたのであろう。「おかあさん」という声がでた。一層奇蹟を思う。もう一度、「おかあさん」と呼んだ。中也は、自分の指にはさんだ母の指を、二度ばかりはじいた。タバコを吸っている気である。そして「僕は本当は孝行者だったんですよ」といい、「今に分るときが来ますよ」とつけ加え、数秒おいて「本当は孝行者だったんですよ」といった。最後の声は正気の声であった。中也の指は母の手から離れ落ちた。《医者の時計で〇時二十分、昭和十二年十月二十二日である。
中原家から「聖なる無頼」が消えた感じであった。》
(記念館年譜展示より。《》部分は記念館には展示されていない。 『兄中原中也と祖先たち』(中原思郎 審美社)「兄中原中也」「死」P.75より引用)
蛇足ですが、私自身、山口中学校の流れを汲む山口高等学校の出身ですが、在学中、中也の話を聞いたことがありませんでした! 国木田独歩(中退)も種田山頭火(卒業)も先輩なのに、先生から聞いた覚えがありません!
2月9日付朝日新聞の天声人語に「中也の葛藤」と題して中原中也及び中原中也賞のことが書いてあるのを読みました
〈汚れつちまつた悲しみに 今日も小雪の降りかかる〉。青春の切なさを詩につむぎ、昭和の初めに亡くなった中原中也。詩壇の芥川賞と呼ばれる「中原中也賞」が25年目を迎え、受賞者がきのう発表された▼賞を主催するのは、中也の出身地である山口市だ。しかし中原中也記念館の学芸担当原明子さん(34)は「中也は生前…
これ以降は有料会員限定記事だそうなので、以下をチェックしてみてください。
https://www.asahi.com/articles/DA3S14359656.html
「詩壇の芥川賞と呼ばれる「中原中也賞」」とありますが、それは「H氏賞」のことだと思っていました。中原中也賞が、「詩人の登竜門」と言われ、「詩壇の芥川賞」とまで言われるとは、山口市民として嬉しい限りです。
「中原家は代々医院を営み、」とありますが、中也の養祖父政熊が中原医院を開業したのであって、中原家は「代々」医家というのは正確ではなく「中原家は代々礼式の家」でした。なのでここは、代々をとって「中原家は医院を営み、」にすると違和感がありません。
「中学では酒やたばこを覚え、落第処分に。」とあり、酒や煙草を覚えたことが、落第の原因のように読めますが、そうだとは聞いたことがありません。直接の理由は、文学に熱中したために、成績不振になったからの筈です。なのでここは、「文学に熱中し、成績不振になったため落第処分に。」として欲しいところです。
「気ままぶり」とありますが、気ままに見える面も確かにありますが、天声人語さん自身がタイトルに「中也の葛藤」とされているのですから、苦悩に満ちた面を挙げられていないのは一面的ではないでしょうか。
「志望した大学には入れない。」とありますが、決して大学に入ろうとしていた訳ではなく、大学志望は、実家からの仕送りを得るための方便です。
「就職活動も投げやり」とありますが、日本放送協会の面接は受けますが、詩に生きようとしていた中也は、自分から就職活動をしたことはなかった筈です。
「母親が本人に代わって新聞社に採用を頼みに行ったこともある」とありますが、新聞社ではなく放送局。そして、母親のフクさんが会社(?)に採用を頼みに行ったというのは聞いたことがありません。 親戚の日本放送協会の初代理事だった中原岩三郎の斡旋で、放送局入社の話があり、中也は面接に行きましたが、実現しなかった、というのではなかったでしょうか。
まあ、そんなふうに???という箇所もあったのですが、それはさておいて、一番違和感を持ったのは、最後の結論です。
「詩壇の登竜門に自分の名が冠されていると知ったら、驚倒するにちがいない。」
「驚倒する」とは「非常に驚く」ことなので・・・・・・驚いてはいるでしょうが、
中也は喜んでいると思いますよ。きっとね。
私の父は、中也が中退した山口中学校の出身で、「中学校の先生達からいつも「中也のようになるな」と言われていた」と生前よく語っていました。漠然とちょっと前の先輩かと思っていつも聞き流していたのですが、あるとき年齢差を計算し、1907(明治40)年生まれの中也は1925(大正14)年生まれの父の15年以上の先輩にもかかわらず、そんなに語り継がれる程だったのか、と驚倒したことがあります。
とはいえ、私は中原中也記念館に行く度に、年譜の
本当は親孝行者だったんですよ。※
と中也が言って亡くなったというところを読むといつも涙が出そうになります。
山口弁に「きも焼き」という言葉があります。中也はきも焼きだったと思いますが、やっぱり親孝行者だったと思います。
自分の記念館ができ、
自分の詩碑が各地に建ち、
「帰郷」井上公園(湯田温泉 1965)
「冬の長門峡」長門峡入口(阿東 1984)
「悲しき朝」鳴滝公園(下小鯖 1986)
「童謡」錦川通り(湯田温泉)
自分の生誕地を示す石碑が建ち(それも親族が建てた!)、
生誕祭が祝われ、
2014 川上未映子さん
2014 谷川俊太郎と賢作さん
中也忌・墓前祭が行われ、全国からファンが集まり、
2018
中也に捧げる夕べが行われ、
2018
自分の名前を冠する賞が、2度もでき、それも、2回目の賞は、自分の出身の役所の主催でそれも26年も続き、詩壇の登竜門と言われている……。
第24回中原中也賞授賞式
中也が、親孝行者というのが「今に分るときが来ますよ」と言った通りになりました。
年譜にある草野心平の詩が好きです。
空間
中原よ。
地球は冬で寒くて暗い。
ぢや。
さよなら。
※ 母の指を、タバコを吸うときのようにして自分の二本の指ではさんだ。眼も見えたのであろう。「おかあさん」という声がでた。一層奇蹟を思う。もう一度、「おかあさん」と呼んだ。中也は、自分の指にはさんだ母の指を、二度ばかりはじいた。タバコを吸っている気である。そして「僕は本当は孝行者だったんですよ」といい、「今に分るときが来ますよ」とつけ加え、数秒おいて「本当は孝行者だったんですよ」といった。最後の声は正気の声であった。中也の指は母の手から離れ落ちた。《医者の時計で〇時二十分、昭和十二年十月二十二日である。
中原家から「聖なる無頼」が消えた感じであった。》
(記念館年譜展示より。《》部分は記念館には展示されていない。 『兄中原中也と祖先たち』(中原思郎 審美社)「兄中原中也」「死」P.75より引用)
蛇足ですが、私自身、山口中学校の流れを汲む山口高等学校の出身ですが、在学中、中也の話を聞いたことがありませんでした! 国木田独歩(中退)も種田山頭火(卒業)も先輩なのに、先生から聞いた覚えがありません!
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