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こどもと本ジョイントネット21・山口


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藤坂屋・三角餅と『置土産』 @ 国木田独歩の足跡を訪ねてH [2020年08月26日(Wed)]
【前回の続き】

『置土産』のモデル藤坂屋本店に行きましたぴかぴか(新しい)
独歩の父母は、お店の隣、右側の建物に住んでいたといいます。
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『欺かざるの記』の「明治二十七年九月四日」にあるように、1894(明治27)年8月に、姫田の市村家の借家より柳井村第二百十六番屋敷の宮本の藤坂太一郎の借家に移りました。

吾が父母、吾が兄弟の未だ佐伯より帰省せざる殆んど一箇月の前姫田なる家を去りて、柳井町を少しく隔たりて海に近き宮本てふ処に転居したり。此の借家の本家は隣家の餅屋なり。
此の餅屋は宮本の三角餅とて名物なり。


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『欺かざるの記』(春陽堂 大正11)(国立国会図書館蔵)


「置土産」の碑
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「国木田独歩と藤坂屋」の説明板。
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  国木田独歩と藤坂屋
 この藤坂屋の向かって右側の建物は、明治の文豪国木田独歩一家が居住した家である。明治二七年(一八九四)父専八は家族とともに、柳井市姫田の市山医院からここに移住した。その頃独歩は大分県佐伯から引き揚げて上京するまでの1ヶ月間ここに住んだ。
 その頃の作品として『置土産』『欺かざるの記』などがあり、独歩にとって柳井は忘れがたいところであった。
 なお、この庭の「置土産」の碑は、独歩が岩国小学校在学のとき、同級であった代議士永田新之丞氏の揮毫によって、昭和四三年に建てられた。


『置土産』(『太陽』(1900(明治33).12)初出。『武蔵野』(民友社 1901(明治34).3)所収)は、三角餅の紹介で始まります。

 餅は円形(まる)きが普通(なみ)なるを故意(わざ)と三角に捻(ひね)りて客の眼を惹かんと企(たく)みしやうなれど実は餡(あん)を包むに手数のかゝらぬ工夫不思議にあたりて、三角餅の名何時(いつ)しか其の近在に広まり、此茶店の小さいに似ぬ繁盛、(略)

残念ながら、三角餅は、現在、製造営業は中止しているということですもうやだ〜(悲しい顔)
あの三角形の箱に入った三角餅をもう一度食べたいです。

続いて、当時の藤坂屋周辺の描写をしています。

 戸数五百に足らぬ一筋町の東の外(はづれ)に石橋あり。それを渡れば商家でもなく百姓家でもない藁葺屋根の左右両側(りょうそく)に建並ぶこと一丁ばかり、其処に八幡宮ありて、其鳥居の前からが片側町(かたかはまち)、三角餅の茶店は此外(このはづれ)にあるなり。前は青田、青田が尽きて塩浜、堤高くして海面(うみづら)こそ見えね、間近き沖には大島小島の趣も備わりて、まず眺望(ながめ)には乏しからぬ好地位を占むるがこの店繁盛の一理由なるべし。それに町の出口入り口なれば村の者にも町の者にも、旅の者にも一休息(ひとやすみ)腰を下(おろ)すに下ろしよく、ちょっと一ぷくが一杯となり、章魚(たこ)の足を肴に一本倒せばそのまま横になりたく、置座(おきざ)の半分遠慮しながら窮屈そうに寝ころんで前後正体なき、ありうちの事ぞかし。

八幡宮とは藤坂屋の傍の代田八幡宮のことですが、写真を撮り忘れてしまいましたもうやだ〜(悲しい顔)
作品の重要なスポットなのに・・・・・・。

登場人物は、油の小売り商の吉次・八幡宮神主の忰・三角餅屋主人の幸衛門夫妻、そして、

 店は女房まかせ、これを助けて働く者はお絹お常とて一人は主人(あるじ)の姪、一人は女房の姪、お絹はやせ形の年上、お常は丸く肥りて色白く、都ならば看板娘の役なれどこの二人は衣装(なり)にも振りにも頓着なく、糯米(もちごめ)を磨(と)ぐことから小豆(あずき)を煮ること餅を舂(つ)くことまで男のように働き、それで苦情一つ言わずいやな顔一つせず客にはよけいなお世辞の空笑いできぬ代わり愛相よく茶もくんで出す、

お絹・お常です。
『欺かざるの記』では、

此の餅屋は主人夫婦に老母一人、他に二男二女ありて七人の家族をなす、されど此の二男二女共に主人夫婦の子女に非ずして悉く甥姪に当るものなり。(略)一女は岩と称して十九歳、一女はきぬと称して十六歳。(略)
此の混合家族は不思議なる好人物の集合なり。(略)殊に主人夫婦はめづらしき好人物、主人は品格のある四十前後の丈夫なり。一家族悉く勉励なる労働者、


と、岩ときぬとあります。

茶店のことゆえ夜(よ)に入れば商売なく、冬ならば宵から戸を閉しめてしまうなれど夏はそうもできず、置座を店の向こう側なる田のそばまで出しての夕涼み、お絹お常もこの時ばかりは全くの用なし主人の姪らしく、八時過ぎには何も片づけてしまい九時前には湯を済まして白地の浴衣に着かえ団扇を持って置座に出たところやはりどことなく艶かしく年ごろの娘なり。

お店の前にあった立派の藤棚は、道路拡張のため取り除かれましたが、藤坂屋の対面の一角には、藤棚が復興され「置土産」の石碑があります。登場人物たちが置座を持ち出し、夕涼みをしながら語り合い、「置座会議」をしたのは、もしかしたらこの辺りだったのでしょう。
『欺かざるの記』でも、密かに恋心を抱いたのではないかと推察される表現があります。

此の如き家族を本家とし隣家となす事ゆゑ、吾たちまち交を結びぬ。夏の夕暮吾は談話の主人となりぬ。盆踊は二女と共に見物したり。
若き男女の間には言ふに言はれぬ縁を来たすものなり。其は明白なる挙動に現はれずして一言のうち一笑の際に己に永久の涙を價ひするの縁あらしむ。


『置土産』を読むまでは、「置土産」というのは三角餅のことだと思っていましたが、実際は、軍夫を思い立った吉次がせめてもの置土産と買い求めた鼈甲(べっこう)の櫛二枚のことでした。
ですが、なかなか打ち明けられず、別れを告げることもできず、お絹お常に渡すことができず、

紙包みのまま櫛二枚を賽銭箱の上に置き、他(ほか)の人が早く来て拾えばその人にやるばかり彼二人がいつものように朝まだき薄暗き中に参詣するならば多分拾うてくれそうなものとおぼつかなき事にまで思いをのこしてすごすごと立ち去りけり。

『欺かざるの記』によると、実際に、独歩も置土産を渡そうとしたようです。

吾此の二女等と一度別れんか、決して何時遭ふとも期し難き互いの境遇なる事を知れり。
天地悠々として転じ、人生日月と共に逝く。相遇ふ何の縁、相知る何の縁、吾は彼女たちの恋愛の呼吸をさとりぬ。嗚呼これ可憐の極に非ずや。
せめてはと思ひ、ハンケチ二枚を求めてひそかに彼女等に送らんものと、一昨夜其の機をまちぬ。夜更けて機失す。
(略)

お常のモデルのきぬさんの談です。

来栖きぬさん談
「独歩さんは立派な青年でした。私が十四五歳位で書物には年齢と名前が反対にわざと書いてあります。独歩さんは廿三四頃よく東京から帰られ収二さんは一七八歳でした。小説にあるハンカチをもらったのは事実です。一家は藤坂屋の裏に居られ新宅藤坂(三角餅屋の東隣り)のさきの小路や、本家の店から出入りしていられました。」

(『独歩回想』(上杉久吉 柳井独歩会 昭和28.9.10))

小説では、名前は実名の岩は使われていないし、置土産はハンカチではなく櫛ですが、とにもかくにも、吉次と違って独歩はハンカチを渡すことができたようですね。『欺かざるの記』を読む限り渡せなかったと思っていましたが。

また、

永年の繁盛ゆえ、かいなき茶店ながらも利得は積んで山林田畑の幾町歩は内々できていそうに思わるれど、ここの主人に一つの癖あり、とかく塩浜に手を出したがり餅でもうけた金を塩の方で失くすという始末、俳諧の一つもやる風流気(ぎ)はありながら店にすわっていて塩焼く烟(けむり)の見ゆるだけにすぐもうけの方に思い付くとはよくよくの事と親類縁者も今では意見する者なく、

と描かれた幸衛門のモデル藤坂太一郎ですが、実際に俳句もし塩田に投資したりしていたとのことです。


藤坂屋のおもやは三角餅の本舗。当時は茶屋風の構えで店の半分は土間、左側が畳の店座敷で大きな台がすえて在り、其の上にガラスのフタをした、餅箱が並んで、紅白の三角餅が入れてあった。右側の土間や屋垂れにかけて縁台が二つ三つそれへ客が腰をかけて餅やうどんを食べるわけで、店の奥にある大薬缶にはいつも番茶が沸かされて居たものであった。(略)代田八幡宮に参詣した帰りには、必ず立ち寄って土産の三角餅を求めたことも当時のならわしであった。
(神田継治「柳井と独歩」(「柳井地方史の研究」(柳井市立図書館 昭和44.6.25))


「山口県柳井ブランド 藤坂屋本店の三角餅」というのがYou Tubeにあって、そこで藤坂邦子さんが話しているのによると、1805(文化2)年、藤坂金造さんが今までの丸型の菓子を三角に変えて売り出したそうです。元々は「三角(さんかく)餅」と呼ばれていましたが、明治28年と明治31年に62代村上天皇第三皇子具平親王の末裔の北畠姓村上兼助翁が来店し食したところ大変美味しかったので「「帝(みかど)餅」にしては?」と、提案しましたが、恐れ多いとのことで「三角」を「みかど」と読ませて「三角(みかど)餅」としたそうです。
視聴していて気になったことがあります。藤坂邦子さんの背景にある「帝餅」「三角餅」と書かれた看板に「藤坂太市郎」とありました。「太一郎」のことですよね。

返す返すも、藤坂屋の三角餅が食べらないこと、とても残念です。


【次回に続く】
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