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こどもと本ジョイントネット21・山口


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国木田独歩曽遊の地 @ 国木田独歩の足跡を訪ねてD [2020年08月22日(Sat)]
前回の続き

国木田独歩記念館として残っている独歩旧宅はもともとは、丘のふもとの市山家の敷地内に建っていました。ここから光台寺への緩やかな坂道は、独歩が好んで散策した道で「独歩曾遊の道」「独歩の散歩道」といわれていますぴかぴか(新しい)
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光台寺の中国風の楼門が見える辺り、山門手前にいぬいとみこ『光の消えた日』の文学碑が建てられています。
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児童文学作家 いぬいとみこは、昭和19年から昭和22年までの3年間柳井に居住し、柳井幼稚園、柳美幼稚園、ほまれ保育園(ほまれ園)に勤務しました。
碑には『光の消えた日』の一節が刻まれています。
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左側の松林の上に、そりのついた瓦屋根のやぐらをのせた、白いしっくい塗りの山門が見えた。小さいながら古風なつくりの山門は、あたりからくっきりと切りたって見える。光台寺の古風なこの山門を見ると、朋子は‥‥

『光の消えた日』(いぬいとみこ/著 長新太/絵 岩波書店 1978)
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光台寺の山門。
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光台寺の境内は今は幼稚園になっていて、山門傍には「柳井幼稚園」という看板が立っています。
そのため中は一般には公開されていませんが、楼門までは自由に見学ができます。

楼門の右上横に「國木田独歩曽遊の地」碑が建っています。
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1951(昭和26)年2月に建てられ、寄付者30名の氏名が刻まれているそうです。

 柳井獨歩記念碑 昭和廿六年上杉玉舟の奔走で、独歩が好んで逍遙した光台寺境内、楼門わき小丘に建立、仝三月廿五日除幕式並に懇談会を行うた。「国木田独歩曾遊之地」の碑文は時の町長窪田秀夫氏が揮毫し、建立協賛者並に出席者は左記諸氏。
市山正
(略)
(『独歩回想』(上杉久吉 柳井独歩会 昭和29.6.3))

光台寺の瓦。
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 このころ(註:神田家の借家に入った頃をさす)の独歩について専八と柳井津区裁判所で席を並べていた松野幹は、上杉玉舟の「国木田独歩青春像」(昭和三十四年七月)において「独歩は柳井に移り神田静治の借家で四・五人の子供に英語を教えたり、麻郷や麻里府を往復したり、読書や散策に明け暮れていた」と談話が残っている。松野家のすぐ上に国木田家があったので日頃顔を合わせて事情に通じていた。
(『国木田独歩――山口時代の研究――』(桑原伸一 笠間書院 1972(昭和47).5.30)P47〜48)
 
 この家(註:神田家の借家をさす)は現存していて建物は十九、三坪で町はずれの見晴らしのよいところである。
(『国木田独歩――山口時代の研究――』(桑原伸一 笠間書院 1972(昭和47).5.30)P47)

 独歩が神田の借家で近所の子供に英語を教えていたころのエピソードとして、市山正の談話が残っている。彼の塾生がすぐ丘の光台寺にゆき垣にいたずらをした。これを住職の松井雪渓が見つけて叱りつけた。これを聞いて独歩は馳せつけて住職と大声をあげて論争したという。松井雪渓は漢学塾で柳井の青少年を指導した教育家であり、独歩はクリスチャンでその論争は市山正の印象として強く残ったのであろう。
(『国木田独歩――山口時代の研究――』(桑原伸一 笠間書院 1972(昭和47).5.30)P48)

上杉玉舟の筆塚もありました。
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光台寺の楼門。
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妙見社(みょうけんしゃ)。
独歩は、光台寺の楼門をくぐり、お寺から上に少しのぼったところにある妙見社にお参りをし、そこから望める柳井の町並みや、瀬戸内海のすばらしい景色を満喫していたそうです。
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この妙見社への散歩の途中、よく出会った美しい娼婦がいました。
独歩は『病床録』の中の「第四 芸術観 『少年の悲哀』中の娼婦」で、

 『少年の悲哀』は事實譚にあらず、作中の娼婦も若者も共に架空の人物なり。されど娼婦だけは全くモデルなきに非ず。余が二十一二の頃豊後より東京に來る時なり。柳津に暫く滞在して、某の山に上るを日課としぬ。頂上祠あり。風光極めて好く、柳津の町を瞰下(かんか)す可し。而して余は殆ど毎朝の如く此山上にて會ひたる女あり。 十六七の、顏蒼褪めて背のすらりと高き少女なりき。友禅模様を置ける金巾の小袖を検束(だらし)なく着たる、昨夜(よべ)の白粉が襟の邊に残り居れる、無論いかゞはしき種類の女とは一目に知れたれど、面長にて睫毛の長き實に印象の深き顔の女にて、何時も御堂の白壁にもたれて、便りなき目遣いに凝ツと向かふを見詰めて立つて居るなり。 
 その女、余はそれ限り會はず。而も、名も所も素性すらも好く知らぬ其女の事が気になりて、何時までも忘るゝこと能(あた)はざりき。今にても回想すれば、其剃髣髴として、言い難き哀愁を覚ゆ。知れぬ者なら尋ねて話して見たいやうな気もするなり。後幾度かその女を描き見んと思ひしもの成らず、偶々『少年の悲哀』を稿するに当り、その時の感じを表はさんと力めたり。


病床録 表紙 (2).jpeg 
病床録 少年の悲哀中の娼婦 (2).jpeg 病床録 少年の悲哀中の娼婦A (2).jpeg
『病床録』(『独歩叢書. 第10 (独歩病床録)』(新潮社 大正14)(国立国会図書館蔵) 

と回想しています。

平生湾両岸に舞台を移して描いた作品が『少年の悲哀』(こどものかなしみ)といわれていますが、『病床録』では、

『少年の悲哀』中の叙景は、余の眼に熟したる 柳津の町を書けるものなり。

と語っています。

『少年の悲哀』の冒頭文から

 少年(こども)の歓喜(よろこび)が詩であるならば、少年(こども)の悲哀(かなしみ)もまた詩である。自然の心に宿る歓喜にしてもし歌うべくんば、自然の心にささやく悲哀もまた歌うべきであろう。


【次回に続く】
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