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こどもと本ジョイントネット21・山口


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国木田独歩旧宅と月琴 @ 国木田独歩の足跡を訪ねてB [2020年08月21日(Fri)]
前回の続き

国木田独歩旧宅へ向かいます。
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独歩碑」の表示ぴかぴか(新しい)
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国木田独歩旧宅」の表示ぴかぴか(新しい)
こちらからは内部を見学することはできません。
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(明治二十五年)四月になると、専八の知人で当時柳井小学校の教師をしていた市山増太郎(柳井村第四百八十一番屋敷)が、国木田家のために新市一丁目にあった自分の借家を邸内に引き入れて提供する。当時の市山家にはタキ・ユフ・正の姉弟があって独歩兄弟とは格別の中であったという。この市山家は現在姫田にある市山医院のことで、その一隅の丘には、昔のままに借家の一部(六畳・四畳の二間)が建てられており、当時の面影が偲ばれる。
(『国木田独歩――山口時代の研究――』(桑原伸一 笠間書院 1972(昭和47).5.30)P70)

独歩之碑ぴかぴか(新しい)
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市山正氏談(柳井町姫田の医師)
「私の所に家族がおられたのでよく知つております、両親はお酒がすきだったが独歩は端正で実にきちんとした男でした。私より六つ七つ年上でよくかわいがり光台寺や大師山につれて行つてくれました。手紙のやりとりをしておりましたが例の千代田艦の「愛弟通信」の頃には巻紙に美文でたよりをくれたのですが、今は独歩の書いたものは一つも残っておりません(略)

(『独歩回想』(上杉久吉 柳井独歩会 昭和29.6.3))

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 国木田独歩は明治二十五年頃父母と共にしばらくこの地に居住した。
 独歩旧居を記念して市山正は生前碑文を揮毫し妻たきが茲に建てた。
   昭和四十五年五月



独歩旧宅」の表示ぴかぴか(新しい)
いったん道に出て、こちらから入ります。
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国木田独歩旧宅は、国木田独歩の一家が、1892(明治25)年〜1894(明治27)年の間住んでいた家です。
市山家の初代 増太郎(当時柳井小学校の教師)は、自宅の庭のまん中付近に国木田家のために家を新築し貸し与えました。
もともとは、この建物がある丘のふもとにあった市山家の敷地内に建っていました。
その後、市山家は病院となり、大正時代に入って病室が建てられる際に、現在建つ丘の上に移築されました。
今は、柳井市の所有となり修復ののち国木田独歩記念館として保存されています。 

国木田独歩記念館ぴかぴか(新しい)
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 当時は姫田川の橋を渡ると一間幅の道があった。その右側は畑、この畑の中央に一坪以上にはびこった大きな山椒の木があった。左側は生がきに囲まれた市原家の花庭で、中に小さな池もあったのが忘れられぬ。道を十間ばかり行くと右上の家を国木田で借りていたのであった。部屋と呼ばれていたその家の前はあまり手入れがして無いので生がきが伸びて茂ったようになり、入口のあたりが小暗い感じであったことが思い出せる。道の右側、つまり国木田の前にある一畝そこそこの木のある畑は専八氏が借り受けて、休みの日には畑の手入れを楽しんでいた姿が思い出せると市山さんが話された。部屋は木造かわらぶき平屋建、向って左側に入り口があった。格子戸をあけると土間で前方は台所に通じ、上がり口が右側の三畳敷でそれから六畳、三畳、四畳半の三間であった。六畳には押入れがあり一番奥の四畳半が床のある座敷、その南側の廊下を右にまわれば便所と言う具合で、二・三人の家族には恰好に造られてあった。それも道理でこの家は国木田家の人達を入れるために市山でわざわざ建てた言われているのだから――。この家の建築費に六十円かかったと言うことも後で話の種になったが、何としても今日から見て想いも及ばぬ物価である。
 道を上って左上が市山のおもや、その間には小広い空地があった。部屋の方に寄って奥角に夫婦つるべで酌む井戸があったことが、印象に残っている。この井戸は国木田家の炊事に使っていたものであった。

(神田継治 「柳井と独歩」(『柳井地方研究』(柳井市立図書館 昭和44.6.25)))

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国木田独歩旧宅には独歩ゆかりの品などが展示してあり、随時見学が可能ですが、建物の外部から見学なので、時間によるとは思いますが、ガラス戸が邪魔して中がよく見えませんふらふら


月琴ぴかぴか(新しい)
ガラス戸越しに独歩愛用の月琴が見えます揺れるハート
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1891(明治24)年5月、独歩は東京専門学校を中退し、父母の居た麻郷村(現、田布施町麻郷)第四百九十七番地の吉見トキ方(独歩の両親は1890(明治23)年より借りていました)に帰省し、読書に励み、昼は野山の散策や、釣りを楽しみます。

金曜二十二日 美日(略)平生町に至り三木より月琴借り来る、
(『明治廿四年日記(六月)』より)

独歩が月琴を借りた「三木」とは、三木延助のことで、当時は、平生町の戸長(町長)で、父 専八の友人でした。

ときさん談
「哲夫兄さんはよく野山を歩く人でした。そのときはいつでもふところに書物を入れていて、野原や山にねそべつて読むのです。月琴が好き、浄るりが好き、尺八が好き、酒も少しはいけたようです。そして私たちにやさしかったので、みんな哲兄さん/乀と慕っていました。(略)

(『独歩回想』(上杉久吉 柳井独歩会 昭和28.9.10))

1891(明治24)年8月、麻里府村(現、田布施町麻里府)第五十五番屋敷 別府の浅海謙助の別宅に仮寓します。
独歩は浅海家の親戚で、近所の麻里府村第六十五番屋敷の石崎松兵衛の四女ため家庭教師として通うようになります。六女ゆりの談です。

山根ゆり子さんの談「さあ、私が十二三の頃でした。こんな田舎ですから目立つたあかぬけした美男子で、読書家でしたが一番印象に残っているのは月琴の上手なことでした。たまには尺八も吹いていました。その月琴は私方の前の妹みね子の嫁入り先浅海庄一の所に大切に保存しています。月の出た夜など、ごらんの通り見晴らしのよい海ですもの、柱にもたれかかって鳴らした月琴の音は今でもかすかな思い出となっています。」
(『独歩回想』(上杉久吉 柳井独歩会 昭和29.6.3))

 父と合奏
  浅海庄一氏
国木田哲雄氏は寄寓中亡父と非常に親しみ毎夜食後に音楽を楽しみおり候。仝君は月琴を、父は尺八をもつて合奏いたしおり候。その際用ひし古びたる月琴の残骸は小生方の倉庫に有之候
愛好といえば頗る誇大なるも使用せしことはたしかにて小生は記念品として保存致居候
  (筆者、熊毛郡麻里府村医師)

(『独歩回想』(上杉久吉 柳井独歩会 昭和29.6.3))

ということから、この月琴は、三木から借りたもので、浅海ミネが保管していたものだと思われます。月琴を持った浅海(旧姓石崎)みねの写真が上杉玉舟の『独歩回想』や桑原伸一『国木田独歩』に掲載されています。
展示説明はあったかも知れませんが、とにかく中が見えづらく、残念でしたもうやだ〜(悲しい顔)
他にも独歩愛用のものがあったかも知れない・・・・・・がく〜(落胆した顔)



国木田家は柳井に3年ばかり住み、その間に四回転居しています。
1 1891(明治24)年12月、両親が柳井津町第四百三十五番地 金屋(今の柳井市金屋)の堀江力助の別邸に転居。
独歩は、両親が転居後も弟収二と麻郷村の吉見家に住んでいた。

2 1892(明治25)年2月下旬頃(?)、両親が柳井村第千四十一番地 山根の神田静治の借家へ転居。
その後、独歩も弟収二とともに神田家へ移る。

3 4月、姫田川筋の柳井村第四百八十一番屋敷 姫田の市山増太郎の邸内の建屋に一家で転居。
同年6月、弟収二とともに上京。

4 1894(明治27)年8月、両親は柳井村第二百十六番屋敷 宮本の藤坂家の借家へ転居。


【次回に続く】
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