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こどもと本ジョイントネット21・山口


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正護寺 @ 山口市陶 [2019年07月03日(Wed)]
7月2日(火)、山口市正護寺(しょうごじ)に行きました。
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臨済宗の古寺で山号を万松山といい延文年間(1356)頃、陶氏2代弘政が開いたお寺です。
陶(すえ)という地名は、古代に製陶が行われた先進地域であったことを示しています。

現地案内板。
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臨済宗東福寺派 萬松山 正護寺
 山号を萬松山といい禅宗で本尊は釈迦牟尼佛、脇佛文殊菩薩、普賢菩薩の三尊佛である。
 防長風土注進案によれば、「北朝後光厳院延文年中陶越前守弘政建立」とあるので、創建は今から六百十余年前になる。陶氏が居城を構えた頃、城内に祈願所としてこの寺を建立し、寺門も栄えたが、大内氏滅亡とともに廃寺同様の悲運に見舞われた。毛利氏により再興されたが、大内輝弘の乱で兵火にかかり、今の地「陶の館」の跡に移転建立された。本尊三尊佛と、開山傑山寂雄大和尚木像は、創建当時のものである。
 寺内にある薬師如来坐像は、山口県指定有形文化財で、平安初期、今から千年前の作品である。 
 本堂正面の門は、小郡代官所の正門を北川清助代官の配慮により移設されたものである。
 陶弘政、晴賢の墓、富永有隣の先祖の墓、代官北川清助の墓などあり、大内氏、陶氏とのかかわりや、村の歴史を実証する数々の史跡がある。



この一帯は陶を拠点とする陶弘賢が建てたとという陶氏館跡でもあります。
陶氏関係のものとして、陶晴賢の分骨塔があります。

正護寺歴代の住職等の墓。
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右端の宝篋印塔が陶晴賢の分骨塔。
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二つ並んだ宝篋印塔のうち、
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左側の「正護寺殿」とあるのは、正護寺を建立した陶氏二代目弘政の墓。
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右側の「開山塔」とあるのは、正護寺の開山である長府功山寺開山でもある傑山寂雄(けっさんじゃくゆう)大和尚の墓。
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大円恵満禅師の墓。
当山中興二世大円恵満禅師」と刻まれています。
大内輝弘の乱で焼失した寺を再建しました。
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「正護寺ゆかりの墓」説明板。
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  正護寺ゆかりの墓
 参道右手のこれより並ぶ墓は、正護寺歴代の住職等の墓である。
 一番手前の宝篋印塔は、陶晴賢の分骨塔であり、中ほどに並ぶ宝篋印塔手前の『開山塔』とあるのは、正護寺の開山である長府功山寺開山と同人である傑山寂雄(けっさんじゃくゆう)大和尚のものである。
 その横に『正護寺殿』とあるのは、正護寺を建立した陶氏二代目弘政の墓である。そしていま一つ『当山中興二世大円恵満禅師』とあるは、大内輝弘の乱で兵火にかかり焼失した寺を嘆き、これを再建したいわば中興の祖である大円恵満禅師の墓である。

 参道左手に『三界万霊』(さんがいばんれい)と刻し塔石の上に安置地蔵を載せた塚は、陶晴賢二百五十年忌に際して陶の住民が奉って供養のため建立した供養塔といわれている。
 その奥の『ぼう(虫片に方の文字)虫墳(ぼうちゅうふん)』と刻された塚は、多くの虫の死を悼みこれを供養したときの供養塚と伝えられている。

 
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山門は小郡代官所の門を移したものです。
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正護寺には平安時代の薬師如来坐像が残されています。
この仏像はもとこの地にあって廃寺となった光明寺の本尊であったと伝えられています。
本堂向って右手の脇堂に安置されていますが、今、お寺の床下を改修中で本堂の中に入ることができず、また、ビニールシートがかけてあって、写真は残念ながら撮ることができませんでした。

「木造薬師如来坐像」説明板。
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  県指定有形文化財(彫刻) 木造薬師如来坐像
          昭和四十一年六月十指定
          所在地 山口市大字陶三九〇七
 この仏像は、平安時代初期の作品で、現在山口県下の仏像の中では日本で造られたものとしは最も古いのものす。
 榧(かや)材の一木造りで、仏像の高さは八二センチメートルあり、眼は彫眼で白毫は水晶を入れています。肉身に地に金箔押しであったものがほとんど剥落しており、法衣はすべて素地をあらわしています。衣紋のはところどころ虫食いを補修したらしく削り直したところがあります。
 豊満な面相や肉付きのよい肩張り、衣紋の茶杓状の深いしわ、渦巻状の衣の端などによく平安時代前期の特徴がよくあらわれています。
 二重円相の光背や台座の蓮華座は後に補われたものです。




また、維新関係のものもあります。
脱隊騒動の時、多くの脱隊兵が駐留していて、鎮圧軍に打ち込まれたという弾痕が本堂の柱に2箇所残っているとのことですが、改装中のため、見ることができませんでした。

「脱隊兵駐留所・正護寺」説明板。
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 明治二年(一八六九)から始まる脱隊騒動では、脱隊兵は山口に入って藩庁を囲み、不正の多い上官による選抜を批判する藩に出された弾劾書の要求を通そうとしましたが、翌年、木戸孝允の指揮する常備軍がこれを制圧するため山口に向かって進軍し、小郡口、陶峠、鎧ヶ峠、勝坂などで戦闘が起こりました。陶・鋳銭司を経て三田尻に退却しましたが、再び攻め上がって鎮圧しました。
 正護寺は一時多くの脱隊兵が駐留していて、本堂の柱にはその時の銃弾の跡が残っています。



そして、ここ正護寺は、富永有隣の出た富永家の菩提寺だったのですexclamation
国木田独歩が小説「富岡先生」で描いたあの有隣のexclamation×2
感激です揺れるハート
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「富永有隣」説明板。
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 維新の志士 富永有隣
文政四年(一八二一)毛利藩士富永七郎右衛門の嫡男として陶に生まれ、名を徳、字を有隣、号を履斎・陶峯といい、9歳で萩の明倫館に学び、自他ともに許す国学者で、漢学・易学にも長じていた。
嘉永二年罪なくして見島に流され、野山嶽に囚われた。獄中で吉田松陰と巡り会い、後に松下村塾で松陰と共に幾多の俊才を育てた。
安政六年、松下村塾を去り、秋穂二島の戒定院(かいじょういん)に定基塾を開き、四境の役では鋭武隊を率いて幕軍の心胆を寒からしめ、戊辰の役では「長州の富永東海道を上る」と幕府軍に恐れられた。
明治二年の兵制改革にさいしては、脱退騒動の陣頭に立ち、敗れて土佐に渡り、8年間土佐の勤王の同志の間を往来して国事を画策したが、捕えられて東京石川島監獄に投じられたが、のち許されて田布施で塾を開き、名声が高く、文豪国木田独歩も有隣の人物に心を引かれ、小説「富岡先生」は、当時の有隣を主人公として書いたものである。
有隣は、勤王と学問追求の志が固く「我が道を行く」隠遁と牢獄と波乱の生涯を明治三十三年十二月二十日終えた。享年八十歳。
正護寺は、富永家の菩提寺であって、有隣は同寺に般若心経の大幅を奉納している。


富永家の墓は正護寺のほぼ真南に独立して建立されています。
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また、北川清助の墓もあるとのことですが、確認できませんでした。

「北川清助の墓」説明版。
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  北川清助の墓・正護寺
 北川清助は、文政九年(一八二六)、大島郡で生まれ、幼い時(天保9年)に陶の北川家に養われ、その姓を継ました(士族の北川半右衛門の養子)。小郡代官所に勤め、文久三年(一八六三)、半が小郡の福田口に鉄砲製造所を設置するに当たり、その監督者となっています。元治元年(一八六四)から明治二年(一八六九)の間、代官であったこともあります。
 慶応元年(一八六五)の内訌戦においては、金穀諸隊の要請を入れて金穀援助し、また管内の庄屋・郷士と協力して軍夫を集めるなど諸隊を助け、大田絵堂の戦いで諸隊を勝利に導きました。明治三年(1870)脱隊騒動では小郡が戦乱の中心となり、この鎮圧に努力しました。同四年に官職を退きましたが、堂十年の西南戦争の時には志願して軍夫を率い従軍しました。その後は陶の地に住んで官途につかず、ひたすら農業経営の改善に努力し、同三十五年に亡くなりました。



すごいお寺でした。
実は、地撮り山口大歳でお世話になっているSさんのご実家ですかわいい

「北川清助の墓」説明板にある「管内の庄屋」には、林勇蔵も入っています。
林勇蔵は、矢原の山田家(吉富家の分家)から林家に養子に行っています。
まさに、地撮り山口大歳と関係あるのでした!

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今回見ることのできなかった木造薬師如来坐像、弾痕跡、近くの陶釜跡(須恵器を焼いた窯跡)など見せていただくことになっています。

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素敵な地撮り山口陶になりましたわーい(嬉しい顔)
Sさん、どうもありがとうございました。
取れたての野菜、美味しかったです。
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