豊国山俊龍寺の豊太閤廟に行きました
[2019年03月01日(Fri)]
豊臣秀吉供養塔があるというので、山口市天花の俊龍寺に行きました

山門左横に「豊臣秀吉廟」の説明板があります。
豊臣秀吉は慶長3年(1598)8月18日伏見城で63歳の生涯をとじた。毛利輝元は死を聞きその冥福を祈るために家臣柳沢元政に豊太閤の廟の建立を命じた。それで元政はこの地にあった献珠院を位牌所とし、かねて秀吉から拝領の鎧を納め、墳墓を築いた。そして山号を豊国山、寺号は秀吉の法名「国泰寺殿雲山俊龍大居士」より俊龍寺と改めた。この秀吉の墓は桃山時代の特色がよくあらわれていて貴重なものである。
また、同所に、足利将軍義輝、義輝の母堂、足利将軍義昭の墓が並んでいる。これも毛利輝元の下命により慶長3年に柳沢元政が旧主君のために建立したものである。

山門。

境内側から見た山門。

山門の扁額「豊国山」。

山門右横の不許酒入山門の碑。

山門の両脇に豊臣家の家紋 五七の桐があります。
本堂屋根にもあります。

山門脇の石塔。





奥の方 廟入り口の右に「豊太閤御廟」の案内板。

廟入り口の左にある説明板。

墓所(右から順に、秀吉、足利義輝、義昭、義輝の母堂) 。

秀吉の五輪塔。



この供養塔は、凝灰岩(ぎょうかいがん)製の五輪塔で、石組の基壇の上に二段の基壇石を置き、その上に積まれている。高さは 142cm である。
慶長3年(1598)豊臣秀吉の死没に際し、毛利輝元が家臣柳澤元政に命じて、山口の献珠院(けんじゅいん)を位牌所とし、供養塔を建立させたのがこの五輪塔といわれる。水輪の正面に「国泰寺殿雲山」、地輪に「俊龍大居士台霊」と彫られている。水輪の背面に「豊国大明神」、地輪の右側 「慶長三年八月十八日」、左側に「防州山口俊龍山献珠院安置」、後方側に「柳澤監物元政造立」とある。
この豊臣秀吉供養塔は、歴史上著名人の石塔であるというばかりでなく、石造美術としても、桃山時代の形式をよく伝えている。特に法名の他、建立年月日や建立者名もあり、秀吉の死没と同時代に建立された供養塔が完全な形で残っている例は、全国的にみて他にないと思われる。位置は後世少し移動させたという。(「山口市指定文化財概要 〜 建造物 〜 」より)
足利義輝の無縫塔。

「光源院融山道院」が読めます。



「永禄八年五月十九日」

足利義昭の無縫塔。

「霊陽院昌山道休」



義輝・義昭の母慶寿院の無縫塔。



この供養塔は、安山岩製の無縫塔(むほうとう)で、石組の基壇の上に二段の基壇石を置き、その上に積まれている。三基とも同じ形式で、いずれも高さは 113cm である。
慶長2年(1597)は、足利義輝及びその母の33回忌に当たったので、毛利輝元は柳澤元政にその法会の執行を命じた。柳澤はもと足利幕府に仕えていたが、当時は輝元に仕官しており、高嶺(こうのみね)の城番として山口に居住していた。この頃、柳澤はこの地に献珠院(けんじゅいん)を再興した。義輝及びその母の命日は5月19日であるが、2ヶ月早く3月19日に御取越の法会を献珠院で行った。この5ヶ月後の8月28日に、最後の足利将軍であった義昭が没した。そのため義昭の法会を当寺で行い、義輝、義輝の母、義昭3人の供養塔を造立した。足利氏関係のもので、法名、年月などを彫って正確に供養名がわかるものは、全国的にみても俊龍寺の供養塔のみと考えられ、死没とほぼ同時代に造立された将軍の供養塔として、また無縫塔の安土桃山時代末の形式を知る史料として貴重である。(「山口市指定文化財概要 〜 建造物 〜 」より)
本堂。

本堂の木鼻。

本堂軒下の開梆。

魚鼓の由来。

(この写真は2018年10月14日に撮影しました)

山門左横に「豊臣秀吉廟」の説明板があります。
豊臣秀吉は慶長3年(1598)8月18日伏見城で63歳の生涯をとじた。毛利輝元は死を聞きその冥福を祈るために家臣柳沢元政に豊太閤の廟の建立を命じた。それで元政はこの地にあった献珠院を位牌所とし、かねて秀吉から拝領の鎧を納め、墳墓を築いた。そして山号を豊国山、寺号は秀吉の法名「国泰寺殿雲山俊龍大居士」より俊龍寺と改めた。この秀吉の墓は桃山時代の特色がよくあらわれていて貴重なものである。
また、同所に、足利将軍義輝、義輝の母堂、足利将軍義昭の墓が並んでいる。これも毛利輝元の下命により慶長3年に柳沢元政が旧主君のために建立したものである。
山門。
境内側から見た山門。
山門の扁額「豊国山」。
山門右横の不許酒入山門の碑。
山門の両脇に豊臣家の家紋 五七の桐があります。
本堂屋根にもあります。
山門脇の石塔。
奥の方 廟入り口の右に「豊太閤御廟」の案内板。
廟入り口の左にある説明板。


墓所(右から順に、秀吉、足利義輝、義昭、義輝の母堂) 。
秀吉の五輪塔。

この供養塔は、凝灰岩(ぎょうかいがん)製の五輪塔で、石組の基壇の上に二段の基壇石を置き、その上に積まれている。高さは 142cm である。
慶長3年(1598)豊臣秀吉の死没に際し、毛利輝元が家臣柳澤元政に命じて、山口の献珠院(けんじゅいん)を位牌所とし、供養塔を建立させたのがこの五輪塔といわれる。水輪の正面に「国泰寺殿雲山」、地輪に「俊龍大居士台霊」と彫られている。水輪の背面に「豊国大明神」、地輪の右側 「慶長三年八月十八日」、左側に「防州山口俊龍山献珠院安置」、後方側に「柳澤監物元政造立」とある。
この豊臣秀吉供養塔は、歴史上著名人の石塔であるというばかりでなく、石造美術としても、桃山時代の形式をよく伝えている。特に法名の他、建立年月日や建立者名もあり、秀吉の死没と同時代に建立された供養塔が完全な形で残っている例は、全国的にみて他にないと思われる。位置は後世少し移動させたという。(「山口市指定文化財概要 〜 建造物 〜 」より)
足利義輝の無縫塔。
「光源院融山道院」が読めます。



「永禄八年五月十九日」

足利義昭の無縫塔。
「霊陽院昌山道休」



義輝・義昭の母慶寿院の無縫塔。



この供養塔は、安山岩製の無縫塔(むほうとう)で、石組の基壇の上に二段の基壇石を置き、その上に積まれている。三基とも同じ形式で、いずれも高さは 113cm である。
慶長2年(1597)は、足利義輝及びその母の33回忌に当たったので、毛利輝元は柳澤元政にその法会の執行を命じた。柳澤はもと足利幕府に仕えていたが、当時は輝元に仕官しており、高嶺(こうのみね)の城番として山口に居住していた。この頃、柳澤はこの地に献珠院(けんじゅいん)を再興した。義輝及びその母の命日は5月19日であるが、2ヶ月早く3月19日に御取越の法会を献珠院で行った。この5ヶ月後の8月28日に、最後の足利将軍であった義昭が没した。そのため義昭の法会を当寺で行い、義輝、義輝の母、義昭3人の供養塔を造立した。足利氏関係のもので、法名、年月などを彫って正確に供養名がわかるものは、全国的にみても俊龍寺の供養塔のみと考えられ、死没とほぼ同時代に造立された将軍の供養塔として、また無縫塔の安土桃山時代末の形式を知る史料として貴重である。(「山口市指定文化財概要 〜 建造物 〜 」より)
本堂。
本堂の木鼻。
本堂軒下の開梆。
魚鼓の由来。
(この写真は2018年10月14日に撮影しました)
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