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こどもと本ジョイントネット21・山口


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大内氷上の興隆寺と北辰妙見社に行きました [2019年03月02日(Sat)]
大内氷上興隆寺北辰妙見社に行きましたぴかぴか(新しい)

「大内氷上興隆寺と北辰妙見社」の説明板。
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 氷上山興隆寺と北辰妙見社
 興隆寺は、推古天皇21年(613)、大内氏祖琳聖太子の建立と伝える名刹で、大内氏の総氏寺である。本尊は釈迦如来、脇士は普賢・文殊菩薩と四天王である。のちに比叡山延暦寺の直轄となり天台宗顕密兼学の道場として栄えた。
 天長4年(827) 11代大内茂村は、隆松妙見社を勧請して、上・下宮を建立し、大内氏の氏神として篤く崇敬した。妙見とは北辰、すなわち北極星を神とした中国の天帝思想に由来する外来神であって、密教と習合して天台宗では北辰妙見尊星王、真言宗では北辰妙見大菩薩と称する。大内政弘は、氷上の北辰妙見の使者「鼈亀(べっき)と蛇」を北辰玄武の象徴として、その殺生を禁じた。
 境内には、北の山腹に北辰妙見社上宮、その麓に下宮をはじめ、本堂、東西二塔、鐘楼、輪蔵、経庫、長日護摩堂、不断如法堂、八幡社、三十番神、山王七社、牛王所、仁王堂や法界門などがあって、十町の参道両側には多くの僧坊が建っていた。
 妙見の大祭である二月会は東大寺の修二会を擬した盛大なもので、童舞や歩射が行われた。この費用を支弁するために大頭役が定められ、更に脇頭や三役の両郡をあてたが、大嘗会の悠紀・主紀(ゆき・すき)の国に擬したのであった。
 文中2年(1373) 明使趙秩が24代大内弘世の招きで滞山して、山口十境の詩のうち「氷上滌暑」を当地で詠んでいる。
 応永16年(1409) 26代盛見は、朝鮮から唐本「一切経」を求めて輪蔵に納め、28代教弘は、宝徳元年(1449)「大蔵経」を寄進した。
 文明18年(1486) 29代政弘の時、興隆寺は後土御門天皇の勅願寺となり「氷上山」の勅願と宣旨を賜った。また、政弘は延徳2年(1490) 法華経28巻の版木を完成させるなどの文化事業が盛んに行った。
 天文元年(1532) 31代義隆は、梵鐘を鋳造し施入した。この間、火災や転載で失われた塔頭は、歴代当主によりその都度、再建修復された。大内氏滅亡後も毛利氏もまた、興隆寺・北辰妙見社を厚く尊崇して、大内氏同様、伽藍の再建修復を行った。二月会には能を奉納するなど聖域の維持に努めた。
 中興上人といわれる行海和尚は、江戸期に衰微した寺運を復興して再び興隆をもたらした。
 しかし、明治2年の神仏分離令、廃仏毀釈運動によって漸次衰微して、本堂は大殿の龍福寺へ、東照宮は八坂神社境内の築山神社として、また、護摩堂は、神福寺十一面観音堂へと移築されて昔日の面影はなくなった。
 現在は、大内義隆寄進の梵鐘と毛利氏再建の北辰妙見社、中興堂に安置されている釈迦三尊像に往時の繁栄を偲ぶのみであるが、北辰北斗は宙天に変わりなく輝き静かに歴史の変遷を見つめている。



氷上山興隆寺・北辰妙見社には「山口十境詩」の一つ、「氷上滌暑」を詠んだ碑があります。
山口十景氷上滌暑。
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氷上滌暑
光凝山罅銀千疊
寒色C人絶欝蒸
異國更無河朔飮
煩襟毎憶玉稜層


氷上に暑を滌く
光は山罅に凝れり、銀千畳
寒色は人を清やかにして、欝蒸を絶つ
異国には、更に無し、河朔の飲
煩襟には、毎に憶ふ、玉稜層


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明国の洪武帝の使節・趙秩は、1372年大内氏24代大内弘世公に招かれ、山口古熊にあった守護所 大雄山永興寺に滞在、山口十境詩を詠みました。
山口十境とは山口十景ともいい、山口の十の景色の詩ということで禅寺の諸堂、伽藍と周りの自然環境とを有機的に組み合わせた清閑にして沈深、座禅修行するにふさわしい風景十ヶ所のことです。
この頃、弘世は周防、長門、石見の大内領都を山口と定め、京都を模倣して建設計画を進めていました。
趙秩は弘世の生涯の大事業を神仙色豊かで、浪漫的な詩句で絶賛しています。

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鐘楼。
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「梵鐘」の説明板。
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国指定重要文化財
 興隆寺の梵鐘
  工芸品 昭和三四年一二月一八日国指定
  所在地 山口市大字大内御堀四三一番地
この梵鐘は室町時代周防長門など七か国の守護であった大内義隆が享禄五年(一五二三)に大内氏の氏寺興隆寺に寄進したものである。総高が一八九センチ、口径が一一一.八センチの巨鐘で、朝鮮鐘の影響を多く受け、乳の間四区の間に四天王、草の間に雲竜文様を鋳出すなど、随所に装飾がにぎやかにつき、大内文化を代表する工芸品である。 銘文から筑前葦屋(福岡県遠賀郡芦屋町)の大江宣秀の作であることがわかる。
興隆寺は大内氏の氏寺で、大内氏全盛の時は非常に栄えたが、大内氏滅亡後は衰え、明治になり堂塔もなくなった。


梵鐘。
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興隆寺中興堂(釈迦堂)。
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木造釈迦如来坐像が祀ってあるようですが、観ることはできません。
「木造釈迦如来坐像」説明板。
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山口市指定有形文化財
 木造釈迦如来坐像
 この釈迦如来像は、大内氏の氏寺として栄えた氷上山興隆寺の本尊です。
 ヒノキ材の寄木造で、高さ 一一四センチです。頭部と体部は別材で、頭部前面および体部前面材以外は小材を細かく寄せています。眼は玉眼を施しています。納衣(のうえ)をまとい、右手施無畏印(せむいいん) 、左手与願印(よがんいん)を結び七重蓮華座の上に結跏趺坐(けっかふ ざ)しています。彩色は剥落が著しく、台座、光背は部分的に欠失していますが、像本体に後世の補修はなく、当初の状態をよくとどめています。
 面長な輪郭に引き締まった顔の肉取り、ややつり上げた上瞼の切り込み、躰は全体にずんぐり
として角張り、うねりのある衣紋といった外見上の特徴と、像の内部で体部の前後材を枘でつなぐ
制作技法上の特徴から、南北朝時代から室町時代にかけて、京都の仏師の中で中心的な一派であった「院派」とよばれる仏師による制作と考えられます。頭部内側から墨書銘が発見され、永正元年(一五〇四)に 大内義興が施主となって造像したことが明らかとなり、大内文化の歴史資料としても貴重です。



妙見社です。
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大内菱が置かれていました。
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シンプルな木鼻。
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ここには、毛利の家紋が見えます。
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中に入れるようになっています。
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神額。
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奇兵隊の軍艦の福田侠平の位牌が祀ってありました。
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薬師観音もありました。
神仏混合のなごり?
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灯籠。
火袋に十字形が見えますが…。
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