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こどもと本ジョイントネット21・山口


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洞春寺@山門 @ 香山公園F [2018年10月13日(Sat)]
【前回の続き】

洞春寺
毛利元就の菩提寺です。

この地の寺は、
国清寺 → 常栄寺 → 洞春寺
と変遷し、
洞春寺の場所も、
吉田郡山城 → 広島 → 山口 → 萩城 →  山口(現地)
と変遷しました。

中国第十六番 当国(周防国)第三十番観音霊場 洞春禅寺
とあります。
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山門

山門は国清寺創建当時のものと思われます。
境内入口に東面に建ち、
門柱の前後に控柱を2本ずつ、左右合わせて4本立てた四脚門で、
左右に袖壁(後補)があります。
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説明板
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 洞春寺山門
  四脚門 切妻造 檜皮葺
洞春寺は戦国時代に中国地方十カ国を治めた戦国大名毛利元就の菩提寺です。
この地には応永年間の初め(一四〇〇年頃)大内盛見が建立した国清寺がありました。
この山門はその国清寺の創建当時のものといわれ、全国的にも数少ない大変貴重な四脚門です。(四脚門は、奈良時代から建造され始め、もっとも格式の高い門でした。)
構造手法は雄大で、特に太い円柱や彫刻のない大きな板蟇股、反りの大きい垂木などが当時の特徴を表しています。


材料の一部に江戸時代の後補のものが見られますが、構造手法は雄健で、特に彫刻のない大きな板蟇又は当時の禅風山門の特色をよくあらわしています。
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屋根は切妻造、檜皮葺です。
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森永杉洞句碑
この門を入れば涼風おのづから 
          杉洞

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中門横にも森永杉洞句碑がありました。
京に似し 美き山川 風薫る
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兼重慎一碑も中門横にありました。
花崗岩自然石の一面を平らにして彫ってあります。1909(明治42)年建立。
兼重慎一(1817〜1897)は、藩藩の重臣でした。
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伊藤博文譔、野邨素介書です。
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(『山口市史 史料編 金石文』(山口市 2015.3)第二章 第二節 「石文」P.836 「174 兼重慎一碑」より)

中門
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「通玄」の扁額
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説明板
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鐘楼門
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銘に、
大通院禅院鐘
とあることから、大通院の鐘です。
1727(享保12)年に、萩藩主第五代毛利吉元が大檀那となって鋳造したものです。
大通院は毛利熙元の菩提寺で、明治になって廃寺となり、本堂は大正年間に境内に移されました。鐘もこの頃移ってきたと思われます。
(『山口市史 史料編 金石文』(山口市 2015.3)第二章 第一節 「金文」P.633〜6 「34 洞春寺梵鐘」参照)
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本堂
屋根は錣(しころ)屋根。
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玄関
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庫裡
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かわいい洞春寺の歴史かわいい

この地に、1404(応永11)年に大内氏第26代盛見(もりはる)が開基となって天下泰平、家内繁栄の祈願所として国清寺(こくしょうじ)を創建しました。
1431(永享3)年、盛見が筑前で戦死をし、国清寺を菩提寺として葬られました。
国指定重要文化財の山門が当初の姿を今に残しています。

洞春寺は常栄寺とともに、毛利氏本拠の吉田郡山城下(現在の広島県安芸高田市)にありました。

洞春寺は元就の没後の翌年、1572(元亀3)年、元就の菩提寺として元就の孫・輝元、小早川隆景によって安芸国吉田郡山の城内に建立されました。開山は嘯岳鼎虎(しょうがくていこ)禅師です。
その後、輝元が広島に築城するに及び、広島城下の十日市に移りました。
さらに、関ヶ原の戦い後、防長移封に二州への移封にともない、1603(慶長8)年に山口の香積寺(現在、瑠璃光寺)に一時移り、次いで1606(慶長11)年に香積寺の解体資材を使って萩城二の丸内に建立されたといいます。

一方、防長移封にともない、1603(慶長8)年にこの地に常栄寺が移り国清寺を合寺しました。
寺は常栄寺として幕末を迎え、1863(文久3)年の山口への藩庁移転時には武器などの貯蔵庫として藩に借り上げられました。
1863(文久3)年に常栄寺は宮野の現在地へ移りました。
第一次長州征伐(1864(元治元)年)後には、幕府恭順という藩の決定に異を唱える藩士たちが寺に集まり撤回を求めましたが、主張が受け入れられることはなく、悲嘆、憤慨のあまり抜刀し柱を切りつけ、その傷は今も本堂の柱に数多くを確認できます。
また、1866(慶応2)年の四境戦争(第二次長州征伐)の際には、長州藩諸隊の一つ、井上馨を総督とする鴻城軍が一時駐屯しました。

さらに、萩城二の丸にあった洞春寺は、明治維新後の1869(明治2)年大雨による山崩れのため建物が破壊され、1871(明治4)年に再び萩から現在地に移り、現在に及んでいます。


【次回へ続く】
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