• もっと見る

こどもと本ジョイントネット21・山口


〜すべての子どもに本との出会いを〜

子どもと本をむすぶ活動をしています


検索
検索語句
<< 2026年09月 >>
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
最新記事
カテゴリアーカイブ
プロフィール

こどもと本ジョイントネット21・山口さんの画像
月別アーカイブ
最新コメント
タグクラウド
日別アーカイブ
https://blog.canpan.info/jointnet21/index1_0.rdf
https://blog.canpan.info/jointnet21/index2_0.xml
アーサー・ビナード『さがしています』と旧制広島市立中学校2年 山本達也さん [2026年08月07日(Fri)]
7月20日(月・海の日)、今年も、山口の朗読屋さん主催「アーサー・ビナードを囲む朗読会」での、アーサー・ビナード『さがしています』のリレー朗読に参加しましたぴかぴか(新しい)

『さがしています』
(アーサー・ビナード/作 岡倉禎志/写真 童心社 2012.7)
(表紙写真:「鍵束」寄贈者・中村明夫 広島平和記念資料館所蔵)
【2013年第44回講談社出版文化賞絵本賞、第60回産経児童出版文化賞ニッポン放送賞受賞】
さがしています.jpg

カタリベは、広島原爆資料館にあるピカドンを体験した声なき「ものたち」。
こんにちは」「がんばれ」「いただきます」「いってきます」「あそぼ」「いらっしゃいませ」・・・そんな何気ない言葉を交わす日常の生活を「さがしています」。

KIMG9953(1).JPG
軍手 浅野純以寄贈 広島平和記念資料館所蔵
浅野綜智さんは、実家が愛媛県大三島の寺で、12歳になって広島の崇徳中学校に入りましたが、授業はなく、爆心地より800mの八丁堀の建物疎開に学徒動員されました。
https://hpmmuseum.jp/modules/exhibition/index.php?action=DocumentView&document_id=625&lang=jpn


KIMG9941(1).JPG
日記帳 片岡秀子寄贈 広島平和記念資料館所蔵
15歳になった片岡貞子さんは、広島県立第二高等女学校に転入したばかりで、学徒動員先の南区皆実町の専売局に疎開先の安村から電車を乗り継いで向かう途中に行方がわからなくなりました。14日になって爆心地から約700mの十日市町で被爆して亡くなっている貞子さんを9日に見つけたという知人が、遺品のポーチなどを家族に届けくれました。
http://www.asahi.com/area/hiroshima/articles/MTW20160615350160002.html?msockid=1840e3c6c7a766e8005eed96c63c6706
 

KIMG9935(1).JPG鍵束 
KIMG9931(1).JPG
革靴 横田秀子寄贈 広島平和記念資料館所蔵
崇徳中2年 14歳の横田敏行さんは、中区八丁堀付近の建物疎開の作業で、全身に大やけどを負いながら安佐北区狩留家の自宅まで途中電車に乗り、歩いて帰った。家族の看病を受けましたが、8月9日に息を引き取りました。
https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=4358


KIMG9932(1).JPG義歯 
KIMG9949(1).JPG
非常袋 藤井政子寄贈 広島平和記念資料館所蔵
藤井満里子さんは、1945年横浜から転校し市立第一高等女学校に入ると、建物疎開に従事し、8月6日は爆心地から550mの現場でした。
裏側には「廣島高女/2ノ5/藤井満里子」と記された布が縫い付けられています。 13歳でした。
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/851897?page=3

 
KIMG9937(1).JPG
人影の石 爆心地から260m 紙屋町住友銀行広島支店寄贈 広島平和記念資料館所蔵
https://hpmmuseum.jp/modules/exhibition/index.php?action=ItemView&item_id=78&lang=jpn

 

私が朗読したのは昨年に続いて、冒頭の詩。
カタリベは広島市中島本町にあった濱井理髪店の壁で時を刻んでいた時計。
朝8時15分で止まった時計は、「おはよう」のあとの「こんにちは」を「さがしています」。

743425132_27302044892825688_7518484671226429403_n.jpg 749286069_27302044869492357_6700426188500985777_n.jpg 750035785_27302044732825704_4624199382953613214_n.jpg

練習の時に、学帽がカタリベの

べんきょう
 べんきょう
  べんきょうしなさい


を担当されたKさん、ご自身も幼少期に被爆されていますが、疑問を呈されました。

8月6日の あさ
じゅぎょうが はじまる まえに
校庭でともだちと しゃべっていたら
ピカアアアアアッと 光った。


とありますが、「授業はなかったのではないか?」と。
Kさんのご兄弟が当時中学生で、8月6日は建物疎開の初日で旧制第一中学校(今の広島県立広島国泰寺高等学校)の校庭(広島市中区国泰寺町)に集まっていて、その時に被爆されたそうです。


「建物疎開」というのは空襲の焼夷弾による火災の影響範囲を小さくするための建物の取り壊し作業のことです。
この作業には広島市内だけでなく近隣の町村からもたくさんの人が動員され、ノコギリやロープをつかって人力で行われました。
また大人だけでなく、現在の中学校1・年生にあたる国民学校高等科の児童や中学校・高等女学校の1・2年生も動員されました。
広島市内133カ所(約8000坪)で実施され、8月6日には市内のうち、「鶴見橋付近」、「天神、材木町付近(平和公園)」、「八丁堀付近」、「土橋付近」、「雑魚場付近」、「県庁付近」、「皆実町電信隊付近」、その他で建物疎開が行われていました。
8月6日は広島市中心部で大規模にこの作業が行われる日となっていたため、多くの人が屋外での作業中に被爆し、亡くなりました。


「この本のカタリベたちのプロフィール」によると、この学帽を被っていたのは、旧制広島市立中学校生の山本達也さんでした。中広町の旧制広島市立中学校校庭で被爆し、大やけどを負い、級友と逃げ帰ろうとろうとしましたが、友達とはぐれ、通りかかった人に自転車で家で連れて帰ってもらいました。学帽は脱げたものの、制服は皮膚とくっつき、母親が鋏で切ってやってやっと脱ぐことができました。9月16日まで懸命に生きた、とありました。



そこで、8月6日広島の中学校では授業が行われたか、調べてみましたぴかぴか(新しい)

かわいい中国新聞 ヒロシマ平和メディアセンター[ヒロシマドキュメント 1945年]「9月16日 犠牲続く街 再建へ動き」(2024年9月16日)
https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=145432
https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/527017

旧制広島市立中学校(現広島市立基町高等学校)2年山本達也さん(当時14歳)が、爆心地から約1.4kmの校庭で熱線にさらされ、全身に大やけどを負ったという記事が見つかりました。
同じ校庭で被爆した同級生の高橋昭博さん(後に広島平和記念資料館館長、2011年に80歳で死去)に励まされながら、火の海と化していく街から逃げたそうです。何とか自宅に帰り着くと、母末子さんがやけどで皮膚にくっついた服をはさみで切って脱がせました。
山本達也さんの写真や、遺品の学帽、学生服、ズボンの写真も掲載されています。



かわいい中国新聞「原爆の日」特集「学徒全滅の地、碑移設 旧制広島市立中、堤防整備で基町高へ」(2017年8月4日)
https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/20846

旧制広島市立中学校では、爆心地から約900mの小網町一帯へ建物疎開作業に動員されていた1・2年生が全滅し、同1.4kmの中広町(現西区)にあった学校でも多数が亡くなり、生徒・教職員の計約370人の犠牲者を出したことから、1948年に学校と遺族会が小網町の三光寺に慰霊碑を建立、1975年に広島市中区小網町の天満川河岸緑地に移転、それが広島市立基町高等学校に移設されるという記事です。
建物疎開に動員されていた1・2年生は当時、朝礼をしていたらしいとあります。



かわいい中国新聞 ヒロシマ平和メディアセンター「悲劇のボタン 後輩が復元 原爆で犠牲 旧制広島市立中生の遺品 基町高卒業生ら」(2017年8月4日)
https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=33996

旧制広島市立中学校では、爆心地から約900mの小網町(現中区)一帯へ建物疎開作業に動員されていた1・2年生が全滅し、約1.4kmの中広町(現西区)にあった学校でも多数の犠牲者が出、遺骨さえ見つかっていない人も多いことが書かれています。
山本達也さんの学帽にも飾られていた川をイメージした3本の波線に「中」の字を重ねたデザインの校章
生徒たちの生きた証しであり、平和への願いを伝える数少ない「遺品」である校章入り陶製ボタンを複製したという記事です。



かわいい北海道被爆者連絡センター(前北海道被爆者協会)
ノーモア・ヒバクシャ会館「1945年8月 その時子どもたちは」

https://h-nomore-hibakusha.org/happen2/

1944年サイパン島の陥落以降
○地方に親戚や知人などがいる子ども・・・そこに縁故疎開
○それ以外の国民学校初等科のおよそ3〜6年生の子どもたち・・・地方の寺などに集団疎開
○学校に残ったのは、国民学校初等科1・2年生・・・女性教師が主で、分教場(お寺など)での分散授業も行われていた
8月6日8時15分、登校の途中、または分教場にいた

 ⇒ 山口の朗読屋さんのメンバー 岡本香織さんのお母様も該当します

国民学校高等科以上(国民学校高等科、高等女学校、中学校など)の生徒・・・工場や農家など戦争遂行のために必要な仕事に学徒動員
ほとんど授業を受けることがなかった

 ⇒ 福田百合子先生も該当します

1928(昭和3)年生まれの先生は、山口県立山口高等女学校(現山口県立中央高等学校)に在学していて、小倉陸軍造兵廠に学徒動員され風船爆弾製造に携わり、次の動員予定だった光工廠は空爆を受けたため、行くことがなかったそうです。
モンペを履き、胸には名前と血液型を記した布を付けていたとのことです。

8月に入ると、それまで勤労動員から除かれていた中学校、女学校、国民学校高等科1、2年生(12〜14歳)全員・・・建物疎開に動員
8月6日8時15分、高等科や中等学校1、2年生を中心とする生徒たちは市の中心部の建物疎開に出ていて、整列し点呼や指示を受けていました。

 ⇒ 朗読会を聴かれていたTさんのお父様も該当します

「広島一中の昭和7年生まれの学年の当日の従事内容を、昨日、ズバリ該当する父に確認したところ、授業はなく、上の学年も含め、生徒は建屋の引き倒しの勤労奉仕にあたっていたそうです。
重機などとうにないので、柱にロープをくくりつけ、せいので引っ張って倒す。近代以前の人海戦術の時代に逆戻りの時間だったわけですね。」

1945年4月からは中学校以上の授業は停止
○広島の学校の夏休みは8月10日から



かわいい国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク 体験記を読む「犠牲者の声なき声を伝える」
https://www.global-peace.go.jp/taikenki/taikenki_syousai.php?gbID=1693&dt=260806114015

山本達也さんの同級生で、同じく広島市立中学校2年生14歳の時、校庭で被爆し、後に第7代広島平和記念資料館館長を務めた高橋昭博(たかはしあきひろ)(1931〜2011)さんの手記を読むことができます。
高橋さんには、絵本に四國五郎の絵で『絵本ヒロシマのおとうさん ― ヒロシマの心を子どもたちに』(汐文社 1983.7)があります。

ヒロシマのおとうさんーヒロシマの心を子どもたちに.png



かわいい国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク 体験記を読む「生死を分けた広島二中一・二年生」
https://www.global-peace.go.jp/taikenki/taikenki_syousai.php?gbID=1724&dt=240809174205

東練兵場(広島市尾長町[現:広島市東区])で被爆された、広島県立広島第二中学校(現広島県立広島観音高等学校)2年生 14歳の山本定男さんの手記がありました。 
当時、広島二中では3年生以上は軍需工場に学徒動員され、1・2年生は、夏休み中でも授業の遅れを取り戻すため、学校の授業と建物疎開作業を交代でしていたそうです。
建物疎開作業には市内の全部の中学校と女学校がかり出されれていましたが、広島二中の受け持ち場所は、爆心地から僅か500mの本川の土手(中島本町)で、8月6日は1年生の担当の日で、322名と引率の4名の先生は全滅、一方、先生の指示で、学校に行くのをやめ学校の芋畑の草取りのため東練兵場(爆心地から2.5km)に集合した2年生は、火傷こそ負いましたが、死者が出なかったそうです。



かわいい国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク 体験記を読む「生かされて -被爆死した友を悼む-」
https://www.global-peace.go.jp/taikenki/taikenki_syousai.php?gbID=2241&dt=260808092148

広島平和文化センター 機関紙「平和文化」No.181-5 被爆体験記「原子野を生きのびて」
https://www.pcf.city.hiroshima.jp/hpcf/heiwabunka/pcj181/contents/05.html

第三世代が考える ヒロシマ「 」継ぐ展 ヒロシマの記憶を継ぐ人インタビュー 語り継ぐVol. 14
https://interview.tsuguten.com/interview_kodama/

旧制広島県立広島第一中学校(現広島県立広島国泰寺高等学校)1年生12歳だった兒玉光雄さんの手記、インタビューがあります。
戦時下の中学校は、夏休みなどなく、学校は7時半始まりでした。
当時は、1〜5年生が学んでいましたが、6月くらいから、2年生以上の上級生は学徒動員で近くの軍需工場へ働きに出ていました。
そのため8月6日に学校にいたのはほとんどが1年生で、320名のうち登校していた307名が東校庭(広島市雑魚場町[現:広島市中区国泰寺町一丁目])(爆心地から850m余)に整列し、7時半を少し遅れて朝礼をすませると、6学級あった奇数組は、市役所裏(雑魚場町)の建物疎開作業につきました。偶数組は、校舎に残り各々の教室に入って、建物疎開の交代要員として待機・自習をしていたそうです。



などなどでした。

調べてみると、中学校によってそれぞれ違うということが分かりました。
@ 旧制広島県立広島第一中学校(現広島県立広島国泰寺高等学校)では、2年生以上は学徒動員で工場などに行っていました。6学級あった1年生奇数組は建物疎開作業につき、偶数組は校舎に残り交代要員とし待機していました。
A 旧制広島県立広島第二中学校(現広島県立広島観音高等学校)では、1・2年生は、学校の授業と建物疎開作業を1日交代でしていました。8月6日は1年生が建物疎開の日でした。
B 旧制広島市立中学校(現広島市立基町高等学校)では、1・2年生は建物疎開に動員されていました。

朗読会の会場でも述べさせていただきましたが、結論からいうと、山本達也さんは、旧制広島市立中学校の2年生ですから、本来ならば、小網町の建物疎開に動員されその朝礼に参加しているところでしたが、何らかの事情で、本広町の広島市立中学校の校庭にいて、そこで被爆しました。
アーサー・ビナードの詩にあったように、「授業がはじまる前に」というのは、違うように思います。

アーサー・ビナードも調べると確約してくださったので、お返事が待ち遠しいです。
トラックバック
※トラックバックの受付は終了しました
コメント