化粧地蔵 @ 京都 北野・西陣エリア
[2024年05月12日(Sun)]
京都ではお寺だけではなく、街なかのあちこちでお地蔵さまに出会うことができます。
それも、きちんと祠に納められ、きれいに手入れがされ、花が手向けられていて、大切にされているのがよく分かります。
その中に、お顔やお身体を描かれ、彩色を施された「化粧地蔵」と呼ばれる、お地蔵さまがあります
平野神社から北野天満宮、大報恩寺(千本釈迦堂)を経て雨宝院(西陣聖天)に行く道すがら、北野・西陣エリアで偶然見つけた化粧地蔵などをご紹介します。
上京区北町(御前通)【翔鸞学区】
「北町延命地蔵大菩薩」と呼ばれています。
平野神社の東大鳥居から東に真っ直ぐ進み、天神川(紙屋川)に架かる桜橋を渡り、北野天満宮の北門前にあります。
「延命地蔵大菩薩」の提灯が掛っています。

御土居から出土した石造物
「御土居」は豊臣秀吉が天正十九年(一五九一)に戦乱のため荒れてた京都の洛中、洛外を区画し、外敵の来襲に備えるため築造した二十三キロメートルにおよぶ土塁である。
ここに祀られている石造物は、この御土居から出土したものと伝えられている。
すべて花崗岩製で、種類は阿弥陀石仏、二尊石仏、地蔵石仏、五輪塔などがある。これらの製作年代等は銘文がないため不詳であるが、真中奥中央の石仏等はふくよかな顔立ちから想定して室町時代まで遡る可能性がある。また、地輪、二尊仏を彫刻した五輪塔は室町時代末期頃の製作と推定される。これらの石仏は庶民信仰の歴史を研究する上でも大変貴重な遺物である。なおこの辺りはもと御土居があった所で、近くの天満宮境内や北側の平野鳥居前町には国の史跡に指定された御土居があり、当時の面影を伝えている。
京都市
御土居については、『8御土居跡 〜文化財と遺跡を歩く〜 京都歴史散策マップ』(京都市・㈶京都市埋蔵文化財研究所)が参考になります。
https://www.kyoto-arc.or.jp/museum/map/8odoi.pdf
上京区東柳町【翔鸞学区】
大報恩寺(千本釈迦堂)から真っ直ぐ今出川通の「上七軒」交差点に抜ける旧七本松通にあります。
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上京区五辻通千本東入西五辻東町【嘉楽学区】「西五辻東町地蔵尊」
五辻通(いつつじどおり)の勝満寺の傍にあります。
化粧を施していないお地蔵さまです。

「西五辻東町」の町名は「五辻通」という通り名に由来します。
五辻通は、東は大宮通、西は上七軒の北野天満宮東門前の御前通までの東西路です。平安末期から鎌倉時代中期にかけ、藤原成親(ふじわらのなりちか)(1138〜1177)の五辻第、第74代鳥羽天皇第7皇女で加茂社の第33代斎院をつとめた頌子(しょうし、のぶこ)内親王(1145〜1208)(号:五辻斎院など)の五辻斎院 (五辻殿)、後鳥羽上皇(1180〜1239)の院御所 五辻殿などがありました。中世(鎌倉時代〜室町時代)には、親王家の「五辻宮」(いつつじのみや)(上京区西五辻東町)が、五辻殿の同地にありました。
『洛中洛外舊地圖 : 清書下地』(製作地・製作者不明・製作年不明)(所蔵:京都大学文学研究科)には「五辻殿」と「斎院」が別に描いてあります。
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00022915
少し行くと五辻通千本東入北側に「五辻殿址」の石標がありました。
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駒札。
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五辻殿跡(いつつじどのあと)
五辻殿は、後鳥羽(ごとば)上皇(一一八〇年〜一二三九年)の院御所(退位した天皇の住まい)として、元久(げんきゅう)元年(一二〇四年)から使用された邸宅であり、「三長記(さんちょう)」(藤原長兼(ふじわらながかね)の日記)には「五辻南・大宮西・櫛笥末(くしげのすえ)」に位置したとある。
造営者は上皇の生母 七条院殖子(しちじょういんしょくし)(一一五七年〜一二二八年)の弟 坊門信清(ぼうもんのぶきよ)(一一五九年〜一二一六年)であり、建仁(けんにん)三年(一二〇三年)に播磨国(はりまのくに)を賜った際に造進した。
上皇の院御所としては、数十箇所知られているが、高陽院(かやのいん)と二条殿(にじょうどの)が恒常的に使用されており、五辻殿の使用は短期間であったようで,元久三年(一二〇六年)以降は不詳である。
この石標はその跡を示すものであり、大正五年に五辻殿推定地(五辻通浄福寺西入南側)に建てられたが、のちに嘉楽(からく)中学校を経て、一九九九年に現在地に移された。
京都市
京都市立嘉楽中学校の塀にある京都広報板(五辻通千本東入西五辻東町)に隣接した、業務スーパー西陣店の入っているマンション駐車場内にもお地蔵さまの祠がありました。
フェンスの中にあったので、入って行ってお参りできたのかもしれないけど、やめておきました。
上京区五辻通浄福寺西入一色町【嘉楽学区】
五辻通北側の三階建の個人宅の駐車場の中にあります。向かいは業務スーパー西陣店です。
眉と目だけを描いた”地味な”お化粧のお地蔵さまですが、よだれかけは金襴です
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町名「一色町」は、室町時代に権勢を誇った一色氏の邸宅があったのに由来するのだそうです。
上京区浄福寺通五辻上ル杉若町【乾隆学区】
浄福寺通西側にあり、近くに本隆寺があります。
戸帳(とちょう)とよだれかけは、西陣らしく金襴子です
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町名「杉若町」は、1637(寛永14)年の『洛中絵図』に「杉若丁」とあるそうですが、『寛永後萬治前洛中絵図』(1642(寛永19)年頃)では「瘤癇」となっています。『新選増補京大絵図』(1686(貞亨3))に「痰か町」とあります。「瘁vは「杉」の行書体です。
▼寛永後萬治前洛中絵図(1642(寛永19)年頃)
所蔵:京都大学附属図書館 https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00000143
京都大学貴重資料デジタルアーカイブ
部分
部分
由来は『雍州府志』(ようしゅうふし)全10巻(黒川道祐/著 1686(貞享3))に、今の本隆寺のところに杉若若狭守宅があり、その門前だったことからこの名前がついたことが記されています。
今ノ本隆寺の地 佐々木種族杉若若狭守之宅地而 始其門向西故今斯寺ノ西町ヲ謂前町 言ハ門前之謂也 若狭守領紀伊国新宮城豊臣秀吉公ノ時有故被没収 云云
本隆寺は工事中で白い覆いがかかっていましたが、駒札にこうあります。
本隆寺
法華宗真門流の総本山で、正しくは、慧光無量山本妙興隆寺(略して本隆寺)という。法華宗京都八本山の一つである。
開山は中山大納言親通卿の子・日真で、後に、後柏原帝より日蓮聖人の正当な流れであることを証する大和尚の称号が下賜された。長享二年(一四八八)四条大宮に創立したが、四代日映のとき、天文法乱により焼失し、天文十一年(一五四二)年、杉若若狭守旧地の現在地に建立した。十代日遵のとき、京都御所の炎上により類焼し、明暦三年(一六五七)に名匠坂上作左衛門が再建した。
享保十五年(一七三〇)と天明八年(一七八八)の二度の京都大火では、西陣一帯が焼野原となったが、当寺の本堂と祖師堂は、奉祀している鬼子母神の霊験によって焼失を免れ、それ以降、「不焼寺」と呼ばれるようになった。
三千三百坪の境内には、西陣五井の一つの名井「千代野井」や、松葉を枕の下に敷くと、子どもの夜泣きが止むという七代目脩に由来する「夜泣止松」がある。本堂、祖師堂、客殿、三光殿、蕃神堂、鐘楼、経蔵、宝蔵、南門、塔頭八ヶ院等の諸堂を有し、宝物としては、日蓮上人真筆大曼陀羅、法華玄論、十六羅漢絵像、名器三管、法華経七万字版木等をぞうしている。
上京区智恵光院五辻上る紋屋町
京都市
上京区上立売通浄福寺一丁西入姥ケ東西町(うばがとうざいちよう)【乾隆学区】
上立売通の京町家の前にあります。
こちらも、さすが西陣、よだれかけが金襴です
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町名「姥ケ東西町」は1637(寛永14)年の「洛中絵図」に「姥ケ東西丁」とあり、以後町域・町名ともに変わりません。
『新選増補京大絵図』(1686(貞亨3))に「とうたい丁」とありますが、これは間違いでしょう。
▼寛永後萬治前洛中絵図(1642(寛永19)年頃)
所蔵:京都大学附属図書館 https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00000143
京都大学貴重資料デジタルアーカイブ
部分
周囲には他にも、姥ケ榎木町(上立売通浄福寺西入二丁目下ル)(『寛永後萬治前洛中絵図』Aでは「姥ゑの木町」、『新板平安城東西南北町并洛外圖』Bでは「ゑの木丁」)、姥ケ西町(上立売通千本東入)(Aに「姥西町」、Bに「おほら丁」)、姥ケ寺之前町(寺之内通千本一丁東入下ル)(Aに「姥寺前町」、Bに「うはが寺まへ町」)、姥ケ北町(寺之内通浄福寺西入二丁目下ル)(Aに「姥北町」、Bに「うばがふところ」)と「姥」の名前のつく町名がありますが、付近一帯が「姥ケ原」とよばれた原野であったことに由来するようです。Aに「姥桐木町」Bに「桐丁」というのもありますが、こちらは今は「桐木町」となっています。
▼寛永後萬治前洛中絵図(1642(寛永19)年頃)
所蔵:京都大学附属図書館 https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00000143
京都大学貴重資料デジタルアーカイブ
部分
▼『新改洛陽并洛外之圖』(1653(承応2))
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3010873/1/3
部分
▼『新板平安城東西南北町并洛外圖』(無庵/作 1654(承応3))(写)
所蔵:京都大学附属図書館 https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00020080
京都大学貴重資料デジタルアーカイブ
部分
北野天満宮にあった地図板に、今回見つけたお地蔵さまを入れてみました
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こちらのサイトに、お地蔵さんが写真付で紹介されています。森篤さんという方が作られたのだそうです。
「京都のお地蔵さんmap 〜西陣あたりを中心に〜」
「京都化粧地蔵MAP」
歩く時はこんなMAPがあるということを知らなかったし、お花見が主な目的だったので、次回訪問時は地図を片手に歩いてみたいです。
『“京都をつなぐ無形文化遺産”「京の地蔵盆」 〜地域と世代をつなぐまちの伝統行事〜 ハンドブック』(京都市/企画・監修 京都をつなぐ無形文化遺産普及及啓発実行委員会 H27.3)の「手づくりで地蔵盆しましょう」に「3お地蔵さまにお化粧してあげましょう」というのがあり、化粧の仕方が記してあります。
https://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/cmsfiles/contents/0000201/201776/jizou4.pdf
https://kyo-tsunagu.city.kyoto.lg.jp/wp-content/uploads/2017/04/tezukuri.pdf
それも、きちんと祠に納められ、きれいに手入れがされ、花が手向けられていて、大切にされているのがよく分かります。
その中に、お顔やお身体を描かれ、彩色を施された「化粧地蔵」と呼ばれる、お地蔵さまがあります

平野神社から北野天満宮、大報恩寺(千本釈迦堂)を経て雨宝院(西陣聖天)に行く道すがら、北野・西陣エリアで偶然見つけた化粧地蔵などをご紹介します。

「北町延命地蔵大菩薩」と呼ばれています。
平野神社の東大鳥居から東に真っ直ぐ進み、天神川(紙屋川)に架かる桜橋を渡り、北野天満宮の北門前にあります。
「延命地蔵大菩薩」の提灯が掛っています。
御土居から出土した石造物
「御土居」は豊臣秀吉が天正十九年(一五九一)に戦乱のため荒れてた京都の洛中、洛外を区画し、外敵の来襲に備えるため築造した二十三キロメートルにおよぶ土塁である。
ここに祀られている石造物は、この御土居から出土したものと伝えられている。
すべて花崗岩製で、種類は阿弥陀石仏、二尊石仏、地蔵石仏、五輪塔などがある。これらの製作年代等は銘文がないため不詳であるが、真中奥中央の石仏等はふくよかな顔立ちから想定して室町時代まで遡る可能性がある。また、地輪、二尊仏を彫刻した五輪塔は室町時代末期頃の製作と推定される。これらの石仏は庶民信仰の歴史を研究する上でも大変貴重な遺物である。なおこの辺りはもと御土居があった所で、近くの天満宮境内や北側の平野鳥居前町には国の史跡に指定された御土居があり、当時の面影を伝えている。
京都市
御土居については、『8御土居跡 〜文化財と遺跡を歩く〜 京都歴史散策マップ』(京都市・㈶京都市埋蔵文化財研究所)が参考になります。
https://www.kyoto-arc.or.jp/museum/map/8odoi.pdf

大報恩寺(千本釈迦堂)から真っ直ぐ今出川通の「上七軒」交差点に抜ける旧七本松通にあります。

五辻通(いつつじどおり)の勝満寺の傍にあります。
化粧を施していないお地蔵さまです。
「西五辻東町」の町名は「五辻通」という通り名に由来します。
五辻通は、東は大宮通、西は上七軒の北野天満宮東門前の御前通までの東西路です。平安末期から鎌倉時代中期にかけ、藤原成親(ふじわらのなりちか)(1138〜1177)の五辻第、第74代鳥羽天皇第7皇女で加茂社の第33代斎院をつとめた頌子(しょうし、のぶこ)内親王(1145〜1208)(号:五辻斎院など)の五辻斎院 (五辻殿)、後鳥羽上皇(1180〜1239)の院御所 五辻殿などがありました。中世(鎌倉時代〜室町時代)には、親王家の「五辻宮」(いつつじのみや)(上京区西五辻東町)が、五辻殿の同地にありました。
『洛中洛外舊地圖 : 清書下地』(製作地・製作者不明・製作年不明)(所蔵:京都大学文学研究科)には「五辻殿」と「斎院」が別に描いてあります。
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00022915
少し行くと五辻通千本東入北側に「五辻殿址」の石標がありました。
駒札。
五辻殿跡(いつつじどのあと)
五辻殿は、後鳥羽(ごとば)上皇(一一八〇年〜一二三九年)の院御所(退位した天皇の住まい)として、元久(げんきゅう)元年(一二〇四年)から使用された邸宅であり、「三長記(さんちょう)」(藤原長兼(ふじわらながかね)の日記)には「五辻南・大宮西・櫛笥末(くしげのすえ)」に位置したとある。
造営者は上皇の生母 七条院殖子(しちじょういんしょくし)(一一五七年〜一二二八年)の弟 坊門信清(ぼうもんのぶきよ)(一一五九年〜一二一六年)であり、建仁(けんにん)三年(一二〇三年)に播磨国(はりまのくに)を賜った際に造進した。
上皇の院御所としては、数十箇所知られているが、高陽院(かやのいん)と二条殿(にじょうどの)が恒常的に使用されており、五辻殿の使用は短期間であったようで,元久三年(一二〇六年)以降は不詳である。
この石標はその跡を示すものであり、大正五年に五辻殿推定地(五辻通浄福寺西入南側)に建てられたが、のちに嘉楽(からく)中学校を経て、一九九九年に現在地に移された。
京都市
京都市立嘉楽中学校の塀にある京都広報板(五辻通千本東入西五辻東町)に隣接した、業務スーパー西陣店の入っているマンション駐車場内にもお地蔵さまの祠がありました。
フェンスの中にあったので、入って行ってお参りできたのかもしれないけど、やめておきました。

五辻通北側の三階建の個人宅の駐車場の中にあります。向かいは業務スーパー西陣店です。
眉と目だけを描いた”地味な”お化粧のお地蔵さまですが、よだれかけは金襴です

町名「一色町」は、室町時代に権勢を誇った一色氏の邸宅があったのに由来するのだそうです。

浄福寺通西側にあり、近くに本隆寺があります。
戸帳(とちょう)とよだれかけは、西陣らしく金襴子です

町名「杉若町」は、1637(寛永14)年の『洛中絵図』に「杉若丁」とあるそうですが、『寛永後萬治前洛中絵図』(1642(寛永19)年頃)では「瘤癇」となっています。『新選増補京大絵図』(1686(貞亨3))に「痰か町」とあります。「瘁vは「杉」の行書体です。
▼寛永後萬治前洛中絵図(1642(寛永19)年頃)
所蔵:京都大学附属図書館 https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00000143
京都大学貴重資料デジタルアーカイブ

由来は『雍州府志』(ようしゅうふし)全10巻(黒川道祐/著 1686(貞享3))に、今の本隆寺のところに杉若若狭守宅があり、その門前だったことからこの名前がついたことが記されています。
今ノ本隆寺の地 佐々木種族杉若若狭守之宅地而 始其門向西故今斯寺ノ西町ヲ謂前町 言ハ門前之謂也 若狭守領紀伊国新宮城豊臣秀吉公ノ時有故被没収 云云
本隆寺は工事中で白い覆いがかかっていましたが、駒札にこうあります。
本隆寺
法華宗真門流の総本山で、正しくは、慧光無量山本妙興隆寺(略して本隆寺)という。法華宗京都八本山の一つである。
開山は中山大納言親通卿の子・日真で、後に、後柏原帝より日蓮聖人の正当な流れであることを証する大和尚の称号が下賜された。長享二年(一四八八)四条大宮に創立したが、四代日映のとき、天文法乱により焼失し、天文十一年(一五四二)年、杉若若狭守旧地の現在地に建立した。十代日遵のとき、京都御所の炎上により類焼し、明暦三年(一六五七)に名匠坂上作左衛門が再建した。
享保十五年(一七三〇)と天明八年(一七八八)の二度の京都大火では、西陣一帯が焼野原となったが、当寺の本堂と祖師堂は、奉祀している鬼子母神の霊験によって焼失を免れ、それ以降、「不焼寺」と呼ばれるようになった。
三千三百坪の境内には、西陣五井の一つの名井「千代野井」や、松葉を枕の下に敷くと、子どもの夜泣きが止むという七代目脩に由来する「夜泣止松」がある。本堂、祖師堂、客殿、三光殿、蕃神堂、鐘楼、経蔵、宝蔵、南門、塔頭八ヶ院等の諸堂を有し、宝物としては、日蓮上人真筆大曼陀羅、法華玄論、十六羅漢絵像、名器三管、法華経七万字版木等をぞうしている。
上京区智恵光院五辻上る紋屋町
京都市

上立売通の京町家の前にあります。
こちらも、さすが西陣、よだれかけが金襴です

町名「姥ケ東西町」は1637(寛永14)年の「洛中絵図」に「姥ケ東西丁」とあり、以後町域・町名ともに変わりません。
『新選増補京大絵図』(1686(貞亨3))に「とうたい丁」とありますが、これは間違いでしょう。
▼寛永後萬治前洛中絵図(1642(寛永19)年頃)
所蔵:京都大学附属図書館 https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00000143
京都大学貴重資料デジタルアーカイブ


周囲には他にも、姥ケ榎木町(上立売通浄福寺西入二丁目下ル)(『寛永後萬治前洛中絵図』Aでは「姥ゑの木町」、『新板平安城東西南北町并洛外圖』Bでは「ゑの木丁」)、姥ケ西町(上立売通千本東入)(Aに「姥西町」、Bに「おほら丁」)、姥ケ寺之前町(寺之内通千本一丁東入下ル)(Aに「姥寺前町」、Bに「うはが寺まへ町」)、姥ケ北町(寺之内通浄福寺西入二丁目下ル)(Aに「姥北町」、Bに「うばがふところ」)と「姥」の名前のつく町名がありますが、付近一帯が「姥ケ原」とよばれた原野であったことに由来するようです。Aに「姥桐木町」Bに「桐丁」というのもありますが、こちらは今は「桐木町」となっています。
▼寛永後萬治前洛中絵図(1642(寛永19)年頃)
所蔵:京都大学附属図書館 https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00000143
京都大学貴重資料デジタルアーカイブ
▼『新改洛陽并洛外之圖』(1653(承応2))
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3010873/1/3
▼『新板平安城東西南北町并洛外圖』(無庵/作 1654(承応3))(写)
所蔵:京都大学附属図書館 https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00020080
京都大学貴重資料デジタルアーカイブ
北野天満宮にあった地図板に、今回見つけたお地蔵さまを入れてみました

こちらのサイトに、お地蔵さんが写真付で紹介されています。森篤さんという方が作られたのだそうです。
「京都のお地蔵さんmap 〜西陣あたりを中心に〜」
「京都化粧地蔵MAP」
歩く時はこんなMAPがあるということを知らなかったし、お花見が主な目的だったので、次回訪問時は地図を片手に歩いてみたいです。
『“京都をつなぐ無形文化遺産”「京の地蔵盆」 〜地域と世代をつなぐまちの伝統行事〜 ハンドブック』(京都市/企画・監修 京都をつなぐ無形文化遺産普及及啓発実行委員会 H27.3)の「手づくりで地蔵盆しましょう」に「3お地蔵さまにお化粧してあげましょう」というのがあり、化粧の仕方が記してあります。
https://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/cmsfiles/contents/0000201/201776/jizou4.pdf
https://kyo-tsunagu.city.kyoto.lg.jp/wp-content/uploads/2017/04/tezukuri.pdf

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