「古地図を片手に街を歩こう ―肥中街道・山口編2―」に参加しましたA
[2022年12月07日(Wed)]
【前回の続き】
ずいぶん高いところまでやって来ました。
下方に見えるのは山口市K川(平川地域)です。

大垰への山道は、イノシシ除けのゲートから中に入ります。
この道標から西に藪に沿って20mくらい進むと山へ入る道があります。
10:53 
この山道が肥中街道です。
大垰への山道は、吉敷地区文化振興協議会などの方々のご尽力でずいぶん歩きやすい道になっています。
右に左にと大きくくねった孟宗竹が立ち並ぶ急な坂道を登ります。
道幅は広いところで4m近くあります。
10:57
約300mくらいで頂上に着きました。
大垰の頂上は、肥中街道の最高地点で、標高358kmあります。
長門国(ながとのくに)と周防国(すおうのくに)との国境(くにざかい)で、大内氏はここに関所を置いたといわれています。
幕末になって長州藩が山口に藩庁を移したとき、ここ大峠の頂に「大峠監門」という関所を設け、衛兵を配備し警備に当たらせたと伝わっています。特に美祢側から山口に入る通行人の監視を行っていたそうです。
実際に行ってみると、確かに開けていて、かなり広い場所です。
ここには石灯籠があります。
山口大神宮参拝のための灯籠ともいわれています。

竿に「延享二年」(1745)の銘が刻んであります。
さらに「洪水」と読めますが、Wikipediaに、
延享元年8月:長州藩、春からの大風・嵐・洪水で、田畑の損耗高12万石余、倒壊家屋5080棟の被害
とありますので、そのことを指すのでしょうか?
11:06
少し西に下りると、井戸の跡もありました。

1551(天文20)年陶隆房(後の晴賢)の乱で山口を脱出した大内義隆は、側近に護られこの大峠を越え、海路で脱出を図ろうとしますが、暴風雨のため逃れることができなかったといわれ、長門の大寧寺に入ります。
大峠より西に峠を下りると約800m先に大内義隆が落ちのびる途中、休息をとった石と伝わる「直居へ石(ただすえいし)」(3×4×1.5m)と呼ばれる周防変成岩の巨石が残っています。遠距離から運搬されたものではなく、近傍からの転石と推定されます。
そこまでは行きませんでしたが、大石(美祢市美東町綾木大石)という地域です。
帰りは、登りよりずっと早かったです。

今日の案内役の吉敷地区文化振興協議会会長 松原清さんは、その他にも地元の方ならではの面白い話をたくさんしてくださいました。
吉敷の庄屋 野村右衛門の日記に、萩藩絵図方平田仁左衛門・有馬八兵衛が吉敷村畑に来村し、不明となっていた関屋一里塚の塚木の復旧を指示したという記述があること(「野村家文書」(山口県立文書館蔵))。
高杉晋作の率いる奇兵隊に合流し、大田絵堂の戦いに参戦するため、諸隊の隊士がこの道を通ったこと。
山口宮野を衛戍地としていた歩兵第42連隊がこの道を通って秋吉台で演習を行っていたこと。
昭和7年に閉鎖された良城小学校畑分教場でトイレ休憩。
こちらは、畑分教場跡にある石碑です。
古老の方の話によると、分教場が閉鎖されてから、本校に通う山道が「冬の夕方は道が薄暗くなり子供心に怖いところだった。」ということです。
11:56
最後に畑河内神社に参詣しました。
今は鉄板葺ですが、もとは茅葺で素敵だったそうです。
南北朝時代の元中元(1384)年宇佐八幡宮より勧請されました。
祭神は誉田別尊(応神天皇)、息長帯姫命(神功皇后)、三女神(田心姫命・湍津姫命・市杵島姫命)です。
『吉敷郡吉敷村清図』(「地下上申絵図」)(山口県文書館蔵)には、「権現」と記載されています。
11:59
境内の巨石奇岩。

12:09
集合場所の吉敷地域交流センターに戻り、芋煮会に参加させていただき、吉敷地域の方々の歓待を受け、心尽くしの芋煮をいただきました。
次回は、寺領・畑間の肥中街道をぜひ歩いてみたいです。
ずいぶん高いところまでやって来ました。
下方に見えるのは山口市K川(平川地域)です。
大垰への山道は、イノシシ除けのゲートから中に入ります。
この道標から西に藪に沿って20mくらい進むと山へ入る道があります。
この山道が肥中街道です。
大垰への山道は、吉敷地区文化振興協議会などの方々のご尽力でずいぶん歩きやすい道になっています。
右に左にと大きくくねった孟宗竹が立ち並ぶ急な坂道を登ります。
道幅は広いところで4m近くあります。
約300mくらいで頂上に着きました。
大垰の頂上は、肥中街道の最高地点で、標高358kmあります。
長門国(ながとのくに)と周防国(すおうのくに)との国境(くにざかい)で、大内氏はここに関所を置いたといわれています。
幕末になって長州藩が山口に藩庁を移したとき、ここ大峠の頂に「大峠監門」という関所を設け、衛兵を配備し警備に当たらせたと伝わっています。特に美祢側から山口に入る通行人の監視を行っていたそうです。
実際に行ってみると、確かに開けていて、かなり広い場所です。
ここには石灯籠があります。
山口大神宮参拝のための灯籠ともいわれています。

竿に「延享二年」(1745)の銘が刻んであります。
さらに「洪水」と読めますが、Wikipediaに、
延享元年8月:長州藩、春からの大風・嵐・洪水で、田畑の損耗高12万石余、倒壊家屋5080棟の被害
とありますので、そのことを指すのでしょうか?

少し西に下りると、井戸の跡もありました。
1551(天文20)年陶隆房(後の晴賢)の乱で山口を脱出した大内義隆は、側近に護られこの大峠を越え、海路で脱出を図ろうとしますが、暴風雨のため逃れることができなかったといわれ、長門の大寧寺に入ります。
大峠より西に峠を下りると約800m先に大内義隆が落ちのびる途中、休息をとった石と伝わる「直居へ石(ただすえいし)」(3×4×1.5m)と呼ばれる周防変成岩の巨石が残っています。遠距離から運搬されたものではなく、近傍からの転石と推定されます。
そこまでは行きませんでしたが、大石(美祢市美東町綾木大石)という地域です。
帰りは、登りよりずっと早かったです。
今日の案内役の吉敷地区文化振興協議会会長 松原清さんは、その他にも地元の方ならではの面白い話をたくさんしてくださいました。
吉敷の庄屋 野村右衛門の日記に、萩藩絵図方平田仁左衛門・有馬八兵衛が吉敷村畑に来村し、不明となっていた関屋一里塚の塚木の復旧を指示したという記述があること(「野村家文書」(山口県立文書館蔵))。
高杉晋作の率いる奇兵隊に合流し、大田絵堂の戦いに参戦するため、諸隊の隊士がこの道を通ったこと。
山口宮野を衛戍地としていた歩兵第42連隊がこの道を通って秋吉台で演習を行っていたこと。
昭和7年に閉鎖された良城小学校畑分教場でトイレ休憩。
こちらは、畑分教場跡にある石碑です。
古老の方の話によると、分教場が閉鎖されてから、本校に通う山道が「冬の夕方は道が薄暗くなり子供心に怖いところだった。」ということです。
最後に畑河内神社に参詣しました。
今は鉄板葺ですが、もとは茅葺で素敵だったそうです。
南北朝時代の元中元(1384)年宇佐八幡宮より勧請されました。
祭神は誉田別尊(応神天皇)、息長帯姫命(神功皇后)、三女神(田心姫命・湍津姫命・市杵島姫命)です。
『吉敷郡吉敷村清図』(「地下上申絵図」)(山口県文書館蔵)には、「権現」と記載されています。

境内の巨石奇岩。
集合場所の吉敷地域交流センターに戻り、芋煮会に参加させていただき、吉敷地域の方々の歓待を受け、心尽くしの芋煮をいただきました。
次回は、寺領・畑間の肥中街道をぜひ歩いてみたいです。
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