「古地図を片手に街を歩こう ―肥中街道・山口編2―」に参加しました@
[2022年12月06日(Tue)]
12月3日(土)、山口県立山口博物館主催の「古地図を片手に街を歩こう ―肥中街道・山口編2―」に参加し、畑河内神社から吉敷大垰(おおたお)の間 片道1.2qを徒歩で往復しました
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▲吉敷地域交流センターにある看板「散策マップ よしき」より
「肥中街道」は大内氏の時代整備された、山口の道場門前安部橋(山口市)と肥中港(下関市豊北町神田)とを結ぶ、17里23町(約67km)の長門国を横断する街道です。
肥中港は大内氏の海上支配の要港で、明や朝鮮との貿易拠点であり、博多への船も出ていました。
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▲吉敷地域交流センターにある看板「歴史の道「肥中街道」」より
今までに私自身は、同じく山口県立山口博物館のイベントで、吉敷佐畑(吉敷地域交流センター)から寺領までの区間を2度歩いたことがあります。(2019年5月11日(土)・2022年5月21日(土))
https://blog.canpan.info/jointnet21/archive/558
https://blog.canpan.info/jointnet21/archive/576
吉敷畑にある畑河内神社を出発しました。
10:21
今も残る石橋を見学しました。
この辺りは昔のままの街道が一部残されています。
10:28 
街道は、木村外郎屋(お茶屋)の前を通っていました。
木村外郎は、1869(明治2)年の版籍奉還で、萩より奥さんの実家に移り、外郎屋を始められました。
蕨粉に黒砂糖を練り込んだ黒外郎で有名だったということです。
当時の街道には、外郎屋がたくさんあったそうです。
10:32
この石垣に沿って街道があったと思われますが、途中で石垣が埋まっています。
さらに国道435号の橋の下を過ぎて続いていきます。

1929(昭和4)年、山口町と吉敷村が合併するときの約束であり、村民の悲願だった新しい道(現在の旧国道435号)が1934(昭和9)年に開通したため、人々の流れが変わり、今は外郎屋さんを廃業されています。
前方に見える山は「丸岳」で、丸岳山頂には大岩があるそうです。
10:33
こちらのお宅は、江戸時代、吉敷毛利家の殿様の休憩場所だったそうです。
10:35
ここが街道ではないかと推測できるそうです。
10:37
10:42
西鳳翩山登山口の案内標識があり、
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この先を進むと油ノ峠を経て美祢にでます。
10:46
平成時代の圃場整備事業により、畑河内神社から大峠に至る山道に入るまで北西に続いていた肥中街道は、ほとんどが消滅し、どこか街道だったか分からない状態になっています。
10:48
街道の痕跡を探りながらでしたが、今回資料としていただいた昭和22年米軍撮影吉敷大峠周辺写真(国土地理院)を見ると、肥中街道の道筋が見えてきます!
その航空写真を見てもよく分かるのですが、山は今のように木が鬱蒼としていなく、山の際まで畑がありました。
農地を貸す時は山も一緒に貸していたそうで、山は燃料(薪・炭)や飼料・肥料(下草・枯葉)を得るための大切な場所でした。
もちろん今のような植林もされていず、孟宗竹も茂っていませんでした。

【次回に続く】

▲吉敷地域交流センターにある看板「散策マップ よしき」より
「肥中街道」は大内氏の時代整備された、山口の道場門前安部橋(山口市)と肥中港(下関市豊北町神田)とを結ぶ、17里23町(約67km)の長門国を横断する街道です。
肥中港は大内氏の海上支配の要港で、明や朝鮮との貿易拠点であり、博多への船も出ていました。
▲吉敷地域交流センターにある看板「歴史の道「肥中街道」」より
今までに私自身は、同じく山口県立山口博物館のイベントで、吉敷佐畑(吉敷地域交流センター)から寺領までの区間を2度歩いたことがあります。(2019年5月11日(土)・2022年5月21日(土))
https://blog.canpan.info/jointnet21/archive/558
https://blog.canpan.info/jointnet21/archive/576
吉敷畑にある畑河内神社を出発しました。



今も残る石橋を見学しました。


この辺りは昔のままの街道が一部残されています。



街道は、木村外郎屋(お茶屋)の前を通っていました。
木村外郎は、1869(明治2)年の版籍奉還で、萩より奥さんの実家に移り、外郎屋を始められました。
蕨粉に黒砂糖を練り込んだ黒外郎で有名だったということです。
当時の街道には、外郎屋がたくさんあったそうです。

この石垣に沿って街道があったと思われますが、途中で石垣が埋まっています。
さらに国道435号の橋の下を過ぎて続いていきます。
1929(昭和4)年、山口町と吉敷村が合併するときの約束であり、村民の悲願だった新しい道(現在の旧国道435号)が1934(昭和9)年に開通したため、人々の流れが変わり、今は外郎屋さんを廃業されています。
前方に見える山は「丸岳」で、丸岳山頂には大岩があるそうです。
こちらのお宅は、江戸時代、吉敷毛利家の殿様の休憩場所だったそうです。
ここが街道ではないかと推測できるそうです。
西鳳翩山登山口の案内標識があり、
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この先を進むと油ノ峠を経て美祢にでます。
平成時代の圃場整備事業により、畑河内神社から大峠に至る山道に入るまで北西に続いていた肥中街道は、ほとんどが消滅し、どこか街道だったか分からない状態になっています。
街道の痕跡を探りながらでしたが、今回資料としていただいた昭和22年米軍撮影吉敷大峠周辺写真(国土地理院)を見ると、肥中街道の道筋が見えてきます!
その航空写真を見てもよく分かるのですが、山は今のように木が鬱蒼としていなく、山の際まで畑がありました。
農地を貸す時は山も一緒に貸していたそうで、山は燃料(薪・炭)や飼料・肥料(下草・枯葉)を得るための大切な場所でした。
もちろん今のような植林もされていず、孟宗竹も茂っていませんでした。
【次回に続く】
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