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こどもと本ジョイントネット21・山口


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萩城址(1)三の丸 @ はぎ散歩A [2021年10月04日(Mon)]
久しぶりに萩城址に行きましたぴかぴか(新しい)

萩城とその城下町は、阿武川の三角州上に造られています。
城は北に向かって突き出た指月山と南東側山麓に展開しています。
指月山山頂の「詰丸(要害)」、指月山東南部の藩の政庁と藩主の住まいがあった「本丸(天守曲輪)」・「二の丸(二の曲輪)」、重臣たちの屋敷があった「三の丸(三の曲輪)」で萩城は構成されていました。

橋本川に架かる常盤橋より指月山を望む。
IMG_E1021.JPG


外堀
萩城外堀は、萩城三の丸と城下を隔てていた堀です。
江戸時代の初めに掘られ、当初は20間(約40m)の幅がありましたが、その後、14間(約28m)、8間(約16m)と狭くなりました。
IMG_E1207.JPG IMG_E1230.JPG 
IMG_E1212.JPG

外堀に架かる白漆喰仕上げの土塀付き土橋が再現されています。
G_01_kitanosomon_07_01.jpg G_01_kitanosomon_07_02.jpg 


北の総門
萩開府400年を記念して2004(平成16)年復元された日本最大級の脇戸付高麗門で、切妻造、本瓦葺、柱間約5.9m、高さ約7mです。
藩政時代、城下から三の丸に入るために、「北の総門」、「中の総門」、「平安古(ひやこ)の総門」の三か所の総門がありました。
当時は、門番が常駐して人の出入りを監視していました。
北の総門P6080100.JPG  5C0AAB24-AEB1-455F-BB80-079735AF4C7A.jpeg 

説明板「北の総門の概要」。
4DCD2612-C076-4A9B-93E4-D5F831665210.jpeg

 北の総門は三の丸(堀内)の入口である総門の一つです。総門は北、中、平安古の3か所があり、あわせて「大手三つの門」と呼ばれていました。昼間は門番が常駐して出入りする者を監視し、夜は門を閉じて鑑札を持つものしか通れませんでした。
  天文年間(1739〜1740)の絵図によると、 北、中の総門前に新たな枡形と南北の船着場が描かれています。枡形と土橋には土塀が巡り、船着場に続く箇所は喰い違いになっています。この時期に北、中の総門周辺が再整備されたことがうかがえます。
 

井戸も復元されています。
IMG_E1081.JPG


旧益田家物見矢倉
北の総門通りにあります。
北の総門の見張り台も兼ねた矢倉(武器を収納した倉)です。
高さ1.8mの石塁の上に立つ、長さ11m、奥行約5mの堅固な単層の建物です。。
旧益田物見矢倉.jpg 堀内_北の総門通りP1050728.JPG 旧益田家物見矢倉.JPG

「旧益田家物見矢倉」の説明板。
旧益田家物見矢倉 説明板A.jpg 旧益田家物見矢倉 説明板.jpg

 益田家は萩藩(一二、〇六二石余)の家柄で、 阿武郡須佐に領地をもっていた。
 建物は木造本瓦葺き、入母屋造、 桁行一一・〇六メートル、梁間は五・〇六メートルである。
 石組の上に単層の堅固な建物で、「矢倉長屋」と称され、物見も兼ねていた。棟瓦、懸魚(げぎょ)、格子窓などの意匠や規模がすぐれている。
 当家幕末の当主、益田規施は藩主毛利敬親のとき、国家老などの要職をつとめ、 藩政改革に尽したが、 元治元年(一八六四)禁門の変の責任者として徳山藩へお預けとなり、切腹されられた。年三十二歳



旧繁沢家長屋門
繁沢家は北の総門近くにあります。
旧繁沢家長屋門(全景@).JPG

「旧繁沢家長屋門」説明板。
旧繁沢家長屋門 説明板 (2).jpg

 繁沢家は阿川毛利家(7391石余)の分家で、萩藩寄組(1094余石)に属し、 給領地を大津郡三隅村(現在の長門市)と阿武郡小川村(現在の萩市)などに持っていた。
 建物は桟瓦葺き、切妻造り、桁行35.5m、梁間4.9m、 中央から左寄りに門が設けられている。  同家藩政初期の当主、繁沢就充(はんざわなりみつ)は藩要職として活躍した。



大野毛利家隅矢倉
中の総門には大野毛利家の隅矢倉がありました。
大野毛利家屋敷跡に萩博物館が建設され、大野毛利家の隅矢倉は、大正時代の写真を元に萩博物館の建物として復元されました。
C679741C-84C9-4DA7-ADAD-989F18D3FEAA.jpeg 大野毛利家隅矢倉(復元)・萩博物館駐車場側@.JPG
 

平安橋
萩城三の丸の平安古の総門(南の総門)前の外堀の新堀川に架けられた橋です。
慶安5(1652)年の城下町絵図には木橋として描かれていますが、明和年間(1764〜1771)に石造りに架け替えられたものと推定されるそうです。
橋桁6.04m、幅員3.95m、堀底からの高さ2.5m、吊り桁・定着桁を備えたゲルバー桁橋を持った無橋脚の玄武岩の石橋です。
G_01_heianbasi_07_02.jpg G_01_heianbasi_07_01 (2).jpg


旧児玉家長屋門
児玉家は萩城三の丸の平安古総門に隣接していました。
幕末の萩城下町絵図によると同家の表門は平安古総門に面して南向きであったとみられ、この長屋は屋敷の西側道路に沿って建てられたものです。旧児玉家に隅矢倉がありました。
堀内_長屋門(児玉家).JPG


次回に続く
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