CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る

こどもと本ジョイントネット21・山口


〜すべての子どもに本との出会いを〜

子どもと本をむすぶ活動をしています


検索
検索語句
<< 2020年09月 >>
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
最新記事
カテゴリアーカイブ
プロフィール

こどもと本ジョイントネット21・山口さんの画像
月別アーカイブ
最新コメント
タグクラウド
日別アーカイブ
https://blog.canpan.info/jointnet21/index1_0.rdf
https://blog.canpan.info/jointnet21/index2_0.xml
小郡宰判勘場跡 @ 正護寺番外編A [2020年09月17日(Thu)]
正護寺の山門が、小郡代官所の門を移築したものだというのを知ってから、
70140711-248F-4AF6-9642-BDCD3E046741.jpeg 4DA02ADD-2AB2-4470-9670-E9B610A16E14.jpeg

小郡代官所が気になって、気になって・・・。

本堂正面の門は、小郡代官所の正門を北川清助代官の配慮により移設されたものである。
(「正護寺」案内板より)

代官所ではなく、「勘場」といっていたようです。

萩藩を治めるために宰判[さいばん]という行政区画がされていましたが、それぞれの宰判に1つずつ置かれた役所が勘場です。(防府市歴史用語集)

長州藩は、藩内統治のため周防で9区・長門で8区の行政区に分け宰判勘場を設置しました。
小郡宰判勘場は、正保年間(1644〜1649.1)に設置され13ヶ村を支配しました。

各宰判はおおむね20〜30ヵ村を含み,大庄屋が各村庄屋を統轄した。各宰判の中心役所を勘場といい,大庄屋はそこに詰めて勘場の諸役人を指揮した。大庄屋の多くは永代苗字帯刀御免で,その民政上の実力は藩の下級役人よりも強かった。(『世界大百科事典』「大庄屋」(平凡社)より)


小郡宰判勘場は旧山陽道の北側に位置し現在のJR山口線の周防下郷駅の西側に設けられていた、ということなので、周防下郷駅に行ってみました。一度も降りたことがなかったので、行ってみてびっくり。駅舎がないのは理解できますが、駅前というものが存在しないのです。こんな駅もあるのですね。近くに高校もあり、乗降はそれなりだと思うのですが。
そして、駅の辺りには、それらしい案内板などなく・・・・・・。

もう一度、よく調べてみると、新丁公民館の前に案内板が立っている、ということなので行ってみました。
5DF199AF-3BF0-417C-A152-90FC8D230A89.jpeg

案内板が立っています。
953F7675-EE76-4740-BB37-D15386B88CDE.jpeg

「お茶屋跡・勘場跡」案内板。
543ABBE8-C083-487C-A82A-3FC725EA94C0.jpeg

■ 御茶屋(おちゃや)跡
 御茶屋は、藩の公的な宿泊施設であって、もともと藩主の参勤道中や国内巡行の便宜のため、藩内各地に設けられたものであった。しかし、山陽道筋の五カ所の御茶屋(当所を含む)は、幕府役人や九州諸大名の参勤交代の通行時に利用される藩外交上の大切な施設でもあった。
 幕末期の記録によると、建坪は一三八坪(約四五六平方メートル)であった。表方は土塀で囲まれ、門は二重に設けられていた。建物の真ん中には中庭があり、それを二三の部屋が取り囲んでいた。建物の右方にある御座の間(殿様の宿泊場所)の屋根は茅葺きであり、表門の近くに駕籠蔵があった。

■ 勘場(かんば)跡
 勘場は、萩から出張して来る代官の勤務する所で御茶屋に隣接し、建坪が一〇五坪(約三五〇平方メートル)で、付設の物品蔵などの建物が三軒あった。 勘場には大庄屋が毎日出勤し、算用師などの勘場地下(じげ)役人を指図して、行政を取り仕切っていた。

  平成一三年三月三一日  山口市教育委員会



江戸寛永年間に初代代官が任命されており、1650年ころには、小郡宰判勘場が設置されたものと思われます。その後、旧小郡町役場となり、現在は、新丁公民館・消防車庫や付近の民家一帯、道路(ふれあい道路)等になっています。

「小郡勘場(代官所)・御茶屋配置図(江戸時代中頃)」。
5FF4F3EC-EF75-4B8B-9827-3AB50BC19B2D.jpeg


北西隅に勘場の建物があったようです。
「勘場の門」とはどこを指すのでしょうか?
正護寺の山門はあまり大きな門ではないので、この地図の「御恵門」だったのでしょうか?

0DB3CCD7-2463-4E54-85AB-9016BAABB83B.jpeg

長州ファイブの一人 山尾庸三は、1937(天保8)年に周防国吉敷郡二島村(現在の山口市秋穂二島)長浜で生まれましたが、数え年の10歳には、小郡宰判勘場で仕事(手子(書記役))をしていたそうです。

幕末には玉木文之進(吉田松陰の叔父)や井上馨らが代官をつとめました。
1864(元治元)年、四国連合艦隊との和議方針を決めた御前会議はここで行われ、高杉晋作や井上馨、伊藤博文も同席しました。井上馨が藩首脳部の無定見を非難し切腹しかかりましたが、杉晋作がこれを止める事態もありました。


現地には、遺構は残っておらず、今は、年代を重ねたクスノキが残っているだけです。
A2B98B84-81E5-45E7-876F-3EA61E302098.jpeg


正護寺の山門をここに移設、いえ、戻したら、と思っている今日この頃です。
トラックバック
※トラックバックの受付は終了しました
コメント