看板を掲げて [2021年11月15日(Mon)]
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(9)執筆、講義などで忙しいと臨床もできなくなる [2021年08月26日(Thu)]
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専門家はみなエゴイストになる=第9回 西田哲学の場所の論理と行為的直観 [2020年02月17日(Mon)]
専門家はみなエゴイストになる
第9回 西田哲学の場所の論理と行為的直観
昨日は「マインドフルネス瞑想療法士」の認定講座の第9回でした。
主なテーマは叡智的自己、行為的直観でした。
マインドフルネス(正念、自己洞察、自己の観察)の哲学は歴史的に大きく変化しました。
7回で、インド初期仏教の哲学を検討しました。六道輪廻からの解脱です。四諦八正道で深く観察実践すると解脱するわけです。東南アジアではこの実践が盛んです。
8回で、道元禅師の禅による自己洞察を学習しました。宗教団体の外では武士が支配階級となり庶民から年貢を徴収する時代、武士でない庶民は働いて年貢をおさめなければならない時代で、それを免除された僧が京都郊外の宝慶寺、越前永平寺で実践したもの。家族、職を捨てた人が中心であった頃成立したもの。現在では「目的を持たない」という学説が主流でした。しかし、深い哲学があるのを8回で見ましたが、大竹晋氏が指摘したように、見失われているようです。宗教や学問にも、自分の嫌いなものできないものは否定したり無視するかもしれませんが、自己都合を優先する見解が入り込むおそれがあります。自己の立場に立たない学問でないと真相が知らされず一般国民は浮かばれません。
自己探求の「正念」「マインドフルネス」を実践したい現代の人々とは時代、環境が大きく変化しました。家族の場、職場ではそのままでは従来の仏教は適用できないという西田哲学。現代の環境を足場にした「マインドフルネス」(見る、考え、行為にあるエゴイズム独断の評価の観察が重要)でなければなりません(西田哲学の「至誠」)。
(1)場所的論理と自己の階層
意識作用には階層があります。それに応じて、自己の階層の深まりがあります。
マインドフルネス瞑想療法士🄬(MMT)になるための講座は意志的自己の意志作用の反応の仕方のトレーニング方法を習得することです。MMTは西田哲学のうちでも意志的自己の意志作用の実践化ですが、MMTはさらに深い叡智的自己の行為的直観、人格的自己の創造的直観も概略を学習しておきます。
希望者のみ、マインドフルネス精神療法研究会で行為的直観、創造的直観への哲学学習と実践体得を目指します。(MMTでなくても研究会の会員になれます。)
(2)叡智的自己および行為的直観
このような内容です。(⇒テキスト目次)
http://mindful-therapy.sakura.ne.jp/simt-sousho/01-mokuji.pdf
(これを、15日の「マインドフルネス精神療法研究会」でも、学習しました)
何らかの価値を明確にもつ人(現代のすべての職業を持つ人も専門家も、家庭の主婦も)は叡智的自己であり、行為的直観を用いるが、その哲学的な意味を知らない。
叡智的自己とは何か。よく哲学を知るものは、叡智的自己のエゴイズムを抑制して「至誠の叡智的自己」としていき、他の叡智的自己と共生できる。
しかし、「独断の叡智的自己」が多く、自分に執着し他を排除し共生しようとしない傾向がある。特にオルテガが指摘したのは、大学人です。自分の学説に必死になります。名誉、収入、生きがいを得られるからという叡智的自己、行為的直観の典型だからです。
★道徳的叡智的自己
各種の組織で、部下、構成員の至誠の行動を排除し自由を束縛して、また、組織外の至誠の人の活動を無視、妨害しがちとなり、社会全体の問題解決・発展を妨害する傾向があります。
すべての専門家がこうなる傾向があることを西田哲学が論理的に明らかにしています。
エゴイズムなのに、その多くがそれを自覚していません。
自己のエゴイズムに苦悩する専門家は少ないですが、自己の闇を自覚して苦悩する専門家がいます。これを道徳的叡智的自己といいます。この人が救われるためには自己の絶対に無なることを体験して人格的自己に回心するしかないといいます。多くの専門家はそこまで真剣になりません。大学人に独断が多いとオルテガが指摘しています。だから、社会の発展が遅れます。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3616
★専門家のエゴイズム
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4413
★専門家のエゴイズム
(3)行為的直観
叡智的自己は、意志作用ではなくて行為的直観を用いるが、その哲学的な説明を知らない。 西田哲学によれば、人は重層した集団(民族、国、宗教、組織、学派など)の立場で行為的直観で社会のために行動しているが、行為的直観は対象的に「観察」できる作用ではないから意識できない。通常の対象的意識のマインドフルネス(観察)ではわからない。意志作用を内奥に超えた作用である。
集団(種の論理)の立場で、集団(結局は構成員個人か組織)の利益のために「我こそは最善」と主張し争う(「種の生成発展の問題」)。 このことは人間の構造と我利我執が人間の本質であるから、それが起きるのが避けられない(西田哲学が「種」の論理)。
(我利我執が本質的=自分を基体化する
⇒ https://blog.canpan.info/jitou/archive/2218)
そのためもあって、必ずしもどれがよいものが市民には知られない。行為的直観のありさまは、従来の仏教、禅(目的のない坐禅か公案による深い実践の2極化で中間が教えられない)でも説明されていないようである。もちろん、欧米発のマインドフルネスでもここまでは観察していない。
やはり、現代人は知っておくべき、自己の有様であろう。専門家は、自己中心性、自己を基体化する心の闇を持つ。これが、社会の発展を遅らせる。多くの哲学者が指摘している。
このような内容です。 (⇒テキスト目次)
http://mindful-therapy.sakura.ne.jp/simt-sousho/01-mokuji.pdf
(4)セッション9
本『うつ・不安障害を治すマインドフルネス』佼成出版社)の セッション9にあるマインドフルネスSIMTの自己と世界の見方は 行為的直観を浅い意志的自己の見方で説明したもの。このような見方で、うつ病や不安症/不安障害などの問題の改善への動機づけとなると思う。 もちろんマインドフルネスSIMTは、心の病気の人ばかりではなく、エゴイズムで行為してしまう専門家であるすべての人に実践してもらいたい。叡智的自己への入門となる。古来より行われてきた坐禅(深い)による自己の真相の入門となる。
次回の最終回(10回)は、至誠の叡智的自己が現実の生活の中で、どのようなマインドフルネス実践をするように西田哲学ではいうか。後期西田哲学の実践論です。一言でいえば、「至誠」。 独断を捨てて見、独断を捨てて考え、独断を捨てて働く(行為する)である。 これを実践していると、昔から日本の禅でいっていた悟り(絶対無の体験=見性、身心脱落)ということが起こり、人格的自己の自覚となる。(「場所的論理と宗教的世界観」)
日本には、昔からこの深い自己を探求してきた人々によって独特の文化を作ってきた。道元、世阿弥、千利休、松尾芭蕉などもそうであり、東山魁夷、河井寛次郎の芸術家もそうである。
http://mindful-therapy.sakura.ne.jp/kouza/ix-soudanin.htm
★10回全部の目次
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今年もよろしくお願いいたします。
[2020年01月06日(Mon)]
今年もよろしくお願いいたします。
3月まで、マインドフルネス瞑想療法士🄬の認定講座を継続いたします。
意志的自己レベルのマインドフルネスSIMTで、うつ病、パニック症、PTSDなどを改善したい人の相談を受けます。SIMTで改善できるかどうかいっしょに考えて対策を提案します。継続のセッションが必要なひとには、マインドフルネス瞑想療法士🄬を紹介します。
毎月1回、マインドフルネス心の健康体操を継続します。会員制のものと誰でも参加できる場があります。
心の病気の予防や軽い心の病気のかたが参加できます。重い人は、マインドフルネス瞑想療法士🄬による個別セッションをご紹介します。
毎月1回、マインドフルネス精神療法研究会を開催します。意志的自己のマインドフルネスSIMTの確認、叡智的自己、人格的自己の哲学の学習、研究、実践をします。MBSRなどとは違う、西田哲学の実践化です。自己洞察瞑想も叡智的瞑想をします。絶対無を理解し信じられるひとは創造的瞑想を実践します。
5月にマインドフルネス精神療法研究発表大会を開催します。
5月に、日本唯一の「マインドフルネス」の雑誌「マインドフルネス精神療法」第6号を発行します。
6月から10か月かけて、マインドフルネス瞑想療法士🄬の認定講座を開催します。
宗教以前であるが叡智的自己レベルまで、そして宗教(超越)レベルまでをカバーするマインドフルネスの本を発売したいです。すなわち、自己を観察するすべての階層のマインドフルネスです。哲学者も、超越の幸福がなければならないと主張しています。
がんになった人、介護状態でもう仕事もままならない、うつが治らない、いつ死ぬかもわからない、・・・、死を意識する人の求めるマインドフルネスは、これかもしれませんし、これでも不足のはずです。超越のマインドフルネスは宗教ではなく、哲学ですから限界がありません。研究が続きます。
こんな叫び声がありそうですが、無視傍観され続けます。
「宗教で救われるのか!
集中力じゃない!、対人恐怖じゃない!、対人関係どころではない! どういきるかどころではない!、目的のない坐禅ではない! 公案じゃない!」
こういうものを全否定しているのではないのです。人によっては切羽詰まった人がいるのです。悩み苦しみ関心はみな違うので、個人個人に応じて臨機応変に対応してくれる心理カウンセラーのようなマインドフルネス支援者が必要なのです。
マインドフルネス、仏教の再検討
最近、マインドフルネス、仏教、哲学で従来の学問的な見解に重要な疑義を呈する主張がありました。
ジョン・カバット・ジンの提案したマインドフルネスは無評価での観察を定義としますが、「それは生存のために良い評価を得なくてはいけないという防衛状態とは両立しません」(ポージェス,245頁)と指摘されました。良い評価を必要とする現場は、家庭、すべての職場、病院や学校、インターネットの世界など、対人関係のあるほとんどすべての生活現場です。「無評価」をどこでも使うということはできません。
当然のことですが、日本の哲学者は人生の現場は評価される場所、価値を崩壊しないか評価選択していくといいます。
日本の仏教は大乗仏教の自内證、利他、自己成長の3つの核心を失っていると指摘されました(大竹晋.2019a)。利他をしないことを自己合理化する学説がありましたが、檀家信者の苦悩の解決をしないで、宗教と言えるのでしょうか。出家や仏教研究者の都合のよい解釈をしていて、大乗仏教の主張した自己成長の実践をしているといえるでしょうか。また、道元は悟りの体験を否定しているという学説がありましたが、やはり道元も大乗仏教のように自内證の体験を否定していないという学説がまた発表されました(大竹晋,2019b)。
「幸福」とは何かということも哲学の重要なテーマですが、これまでの「幸福論」や「幸福の哲学」について厳しい批判が提出されました。人が幸福になるということは、宗教やマインドフルネスと関係があります。なぜなら、解決したい悩みや問題があれば、幸福ではないし、宗教が救済する問題であるかもしれないからです。西田哲学も「独断」が自己他者組織を苦しめる行為になると指摘しているからです。そして、幸福の哲学を論じた哲学者が、言葉にできない超越的幸福があると主張したのです。マインドフルネスも、日本仏教も超越を避けてきました。そうなると、超越的なものでないと救済されない問題を抱えた人は、幸福になれないことになります。
もし、専門家が自己都合のためにこうした問題を回避したり、わからないからといって否定したりするのは、苦悩するひとを無視、傍観すること、自分の責任を軽くするような回避の心理が働き、結果的に救済を妨害することに加担していることになるかもしれません。自内證、利他や自己成長をしなくてもすむような見解は「仏教を単に現世において楽に生きるための道具へと堕落させてしまう危険性をはらんでいる」と大竹氏は指摘します(2019b,p272)。
家族、職場のひとの幸福のために、マインドフルネスや仏教は再検討をせまられています。
大竹晋,2019a『大乗非仏説を超えて』国書刊行会
大竹晋,2019b『「悟り体験」を読む』新潮社
ステファン・W・ポージェス,2018『ポリヴェーガル理論入門』春秋社
【目次】哲学、宗教、仏教学、心理学、医学、脳神経科学、精神療法、マインドフルネス、マインドフルネス学、留まることのない哲学に導かれるマインドフルネス実践
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4478
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4500
(記事4500から4529まで)
★瞑想とはどういう意義があるかー「マインドフルネス瞑想の哲学」
【目次】瞑想とは何か。それ自体には「目的」もなく「価値」もないのか 。
キリスト教の哲学者が考える「神」とは何かとの関連。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4498
★真言宗の弘法大師空海による阿字観も
現代人のためのマインドフルネス瞑想にできるのでは
=真言宗の専門家に期待
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4494
★臨済宗の「公案を用いて見性を重視する禅」を「宗教の課題」から評価すると
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4492
★坐禅さえすればいいという説
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4490
★学者なら存在した宗教のあるがままを解明すべきであって、自分の宗教を捏造すべきでない
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4489
★哲学者と現場をつなぐ臨床哲学
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4488
★哲学とは現実を直視する・普遍性への要求
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4484
★哲学には丁寧な検討を重ねていく学問的な誠実さがある
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4482
★哲学とは、哲学のテーマ
哲学とはあくまでも自分固有の人生に対する実感に忠実に、しかもあたかもそこに普遍性が成り立ちうるかのように、精確な言語によるコミュニケーションを求め続ける営み
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4480
★哲学と宗教
哲学は真理探求をし続ける。宗教は「我のこそは真理でああると主張する。
宗教は真理を信ずるが、哲学はそれを知ろうとする。真理を信ずるということは、その根拠を問わないということである。これに対して、哲学は、どこまでもその根拠を問うことである。つねに真理への途上にあるのであって、真理に到達してしまって、そこに安らぐということはない
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4478
★仏教者の仏教解釈、是認してきた仏教学者、それを批判する仏教学者
仏教者は大乗仏教の核心を失っている。それを従来の仏教学者も是認してきた。
「仏教を単に現世において楽に生きるための道具へと堕落させてしまう危険性をはらんでいる」と大竹氏は指摘
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4476
★西田哲学
「哲学の諸問題をめぐって、さまざまな学派によってなされる議論、しかも真理の解明に向けてなされる「共同作業の場」において、西田の哲学や、京都学派の哲学が、独自の貢献をする学派として登場してきた、あるいは登場することが期待されているという意味で言われている。」
【目次】哲学、宗教、仏教学、心理学、医学、脳神経科学、精神療法、マインドフルネス、マインドフルネス学、留まることのない哲学に導かれるマインドフルネス実践
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4478
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昨日は、マインドフルネス瞑想療法士の認定講座の第7回でした。 [2019年12月16日(Mon)]
マインドフルネス瞑想療法士認定講座の第7講義
昨日は、マインドフルネス瞑想療法士の認定講座の第7回でした。
最近、欧米の「マインドフルネス」には、いくつかの問題が指摘されてきましたので、どういうことなのか焦点をあてながら、「初期仏教」を概観しました。
自己の意識現象を観察することは、初期仏教、禅、西田哲学にありますので、その哲学と観察方法を学習します。8回目が「道元禅」にある人間哲学、9,10回目が西田哲学にある人間哲学です。それぞれ、観察の方法があります。両方とも「超越」まであります。それが哲学者の一致した見解です。
第7講義 初期仏教の実践と哲学思想の問題
第1 テキスト
「マインドフルネス心理療法入門講座7回目レジメ」
(A)『マインドフルネスSIMT基礎講座 第7』
=初期仏教の実践と哲学思想の問題
(B) 『初期仏教のマインドフルネス 〜 「正念」の方法』
(C) 『パニック症と広場恐怖症』
(D)『初期仏教のヴィパッサナー瞑想の現代的活用と検討』
第1 初期仏教にある正念とマインドフルネスの問題
1)マインドフルネスは哲学なしでいいのか
ビパッサナー瞑想は、
東南アジア諸国に伝わるパーリ仏教の方法
釈尊の直説ではない。
2)三世実有・六道輪廻
3)初期仏教の解脱・涅槃・悟り
4)僧侶の修行の進度・聖者に4段階
最高の阿羅漢になれることはとても難しくて、もう一度生まれ変わってから解脱するなどの思想がある。
5)高度の禅定(滅尽定)を目指す
6)ダルマの実体視
7)世界の構成要素=五位七十五法
これを実体視視した(大乗仏教から批判された)
8)四諦・八正道
八正道のうちの「正念」は経典にどう記述されていたか。世界、自己の構成要素を75に分析して、すべてを観察する。もちろん、アメリカの「マインドフルネス」が強調する「感覚」「思考」「行為」も含まれる。エゴイズムの心理を含むが、アメリカのマインドフルネスはこれが強調されない、
アメリカのマインドフルネスMBSRの観察するのは、ごく一部。
第2 大乗仏教が批判した初期仏教の問題
1)大乗と初期仏教の違い
家庭、職業を捨てる初期仏教。大乗仏教、日本仏教は家庭職業の中で至誠の実践。
2)三世実有・法体恒有の批判
すべての人間の根底の絶対平等性が言われない。
3)初期仏教には利他がないという批判
家庭職業を持たず自分たちだけ戒を守り修行して、六道輪廻からの解脱を求めていくので、社会での問題解決から離れていて「自利」だと批判された。家庭職業の中で、下のような深い哲学を体験的に証明して苦悩から解放されるべきで、当然、すべての人がこの人生で(六道輪廻でなく)苦悩を解決して社会創造に参画していく哲学と実践が大乗仏教で強調された。
第3 現代の仏教学、哲学からの批判
1)仏教学者禅学者からの批判
2)西田幾多郎による初期仏教批判
3)他の哲学者からの問題指摘
総合すれば、「四諦四諦八正道」として整理された初期仏教の思想哲学、実践は、「六道輪廻からの解脱」を目標として体系づけられていて、家族、職業を捨てた純粋の出家が行うほうが有利となっているもの。しかもなお、最高の阿羅漢になれるのは難しくて、生まれ変わってから阿羅漢になれる段階などがある。
現代のように家庭、職業を持つ人が、その中で至誠の実践をして、本音(初期仏教で煩悩といったものに類似)や人間の自然の愛情(人や社会に対する)を滅尽することなく、至誠の工夫をしながら悟りを得ることができるという後世の禅(道元禅師、禅ではないが西田幾多郎、鈴木大拙、井筒俊彦など)とは異なる。
初期仏教は、「人を殺さない」という倫理もあって、戦争の現場で活用できるものでもない。無評価のマインドフルネスは、欲求、意志、行為などにある倫理的心理を観察しないので、軍事利用や悪用されるおそれがある。
欧米のマインドフルネスは、宗教を排除するというが、そういう排斥ではなくて、宗教的レベル(超越)の幸福も、日本の哲学者(青山卓央氏、山口尚氏)が紹介してくれた。欧米のマインドフルネスも、超越のマインドフルネスも必要なひとがいる。それぞれの強みを生かして「共生」していけばいいのだろう。
現代のマインドフルネスは、フランクルがいうように、人類共通の実践であり、「仏教」という必要はないかもしれない。宗教の違いを包含して全人類に共通であるから、仏の教えという必要もないかもしれない。
仏教者も研究していただきたい。哲学者は真剣に精緻に考察している。一般市民には、その情報も入る。仏教僧、仏教学者の解釈が浅い、真剣でないことが比較されて、市民が仏教からいよいよ離れていく。仏教が亡びるおそれがある。
大乗仏教の各派も現代に活用できる方法を含んでいるのではないか。各教団が現代に活用する開祖の思想と方法を研究してほしいものと思う。そうでないと、若手の僧侶や檀家に他のすぐれた生き方の情報が入ってくる現代では、亡びるおそれがある。
うつ病、不安症、PTSD、過食症、はほんの一部。日本的マインドフルネスは、ひろく、深く活用できるだろう。
第4 パニック症と広場恐怖症
参照:テキスト『パニック症と広場恐怖症』
不安症/不安障害のなかでも、割合多いのがパニック症である。
広場恐怖症と併存することがある。
パニック症と広場恐怖症もSIMTでよく改善している。
詳細は機関誌「マインドフルネス精神療法」第2号
第5 SIMTのセッション7
セッション7は、不快事象の受容
不快なことを受けいれる洞察実践を整理します。
これまで、断片的にトレーニングしてきましたが、現実の人生には受け入れがたいことがおきるのが当然、必然という哲学を理解し、実際受け入れます。
そして、その中でも、自分の生きがいを感じることをみつけて生きていきます。
社会の中で生きているので、社会の中に生きる道をさがしみつけます。
まとめです。家庭、職場、仲間の中で起きる「小さな不快事象の受容」で、トレーニングします。大きな不快事象の受容も基本的には同じです。
次回は、マインドフルネスのための道元禅入門
深い人間哲学と真剣な観察実践(ほとんど知られていない道元禅の素顔)
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私のゆきつけの古民家喫茶 ブランコ [2019年11月20日(Wed)]
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日本のマインドフルネスSIMT・講座の第5回目 [2019年10月21日(Mon)]
日本のマインドフルネスSIMT
講座の第5回目
昨日は、マインドフルネス瞑想療法士🄬(MMT)の認定講座の第5回目でした。MMTは、全国に80名程度しかいません。MMTは、現在日本で問題になっている様々な領域(利己的な心理が渦巻く、まさに評価の現場)においてお手伝いできるはずです。
http://mindful-therapy.sakura.ne.jp/kouza/kouza-5.pdf
★5回目の内容です。
最近の新しい哲学書を紹介しました。
★超越的幸福論の哲学
山口尚「幸福と人生の意味の哲学」トランスビュー
西洋、日本に数々の「幸福論」がある。日本の哲学者も幸福とか人生の意味について論じているが、自分のものがないとか、厳しい人生の出来事にあっていない{幸福}な哲学者、宗教者のものであって、真剣さがたりない幸福論だと批判しています。彼らの定義する幸福にはまらない幸福があるという。大田が解釈している後期西田哲学の実践としての自己洞察瞑想療法(SIMT)に通じるところがある。
家族が幸福、仕事が幸福と多くの哲学者がいうが、病気や災害で家族を亡くした人には幸福はないのか、災害、事故、親の介護、がんによって、仕事を無くした人、余命いばくもない病床の人にはもう幸福はないのか。それに応えない哲学(宗教は?)はそんなに弱いのか。
これは、西田哲学や大竹晋氏が浮き彫りにした本来の大乗仏教の実践にも通じるところがあります。自内證が超越の証明なのだろうと思います。大乗仏教の核心に「人間完成」
もありますが、現代人も利己的で自己中心的で、他者を害し、社会の発展を阻害しているところがあります。哲学もか? というところです。「善の研究」でいっていた「善の行為」を、後期は、「至誠」といったのだと思います。超越的幸福とその実践を研究してくべきだと思います。
こういう真剣な哲学や西田哲学を参照して、深く広い日本のマインドフルネスの「具体的な方法」を研究開発していきたい。
観察すべき意識には階層がある。
1)一人でいる時の観察
2)対人場面の観察のうち家庭
3)対人場面の観察のうち職場、学校など
以上は、超越(宗教)レベルは必要ではないだろう。
4)超越レベルの意識の観察が必要な場所、人
(たとえば、生きる意味を失った苦悩にある人、人格的苦悩、死の不安の苦悩をかかえる人など)
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3930
★大竹晋「大乗非仏説を超えて」
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4054
★ポージェスのポリヴェーガル理論
無評価で観察のマインドフルネスの限界
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3288
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3789
★日本には無評価の観察から最も深い超越的幸福、マインドフルネスまであると思う。後者は前者を包摂すると思う。
【目次】このようなところに活用できそう
マインドフルネスSIMT 2019
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4243
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福岡県八女でマインドフルネスの集中トレーニング
[2019年09月29日(Sun)]
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マインドフルネス瞑想療法士の認定講座 第2回 [2019年07月22日(Mon)]
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マインドフルネス精神療法研究第5回発表大会
[2019年05月19日(Sun)]
マインドフルネス精神療法研究第5回発表大会
昨日、開催されました。4月と5月は、機関誌と発表大会の2つの大きなイベントがありました。
さて、次は、6月からのマインドフルネス瞑想療法士🄬の認定講座です。今年は開催しますが、来年はわかりません。最近、マインドフルネスにも仏教にも大きな動きがありました。実際の臨床を新しい領域で、重点的にやってみたいです。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4243
★このようなところにマインドフルネスSIMT 2019
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