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「長崎の鐘」永井隆の英語版 [2021年05月01日(Sat)]
NHK 朝ドラ「エール」に、至誠の人 永井隆 

「長崎の鐘」永井隆の英語版

 「長崎の鐘」の作者永井隆博士の報道がありました。

 西田哲学は、日本人が古来実践してきた内面の心は「至誠」であるといいました。 自分のみかた、考え方、行為が「至誠」であるかどうか、自己批評することになります。 エゴイズムであってはならないわけです。エゴイズムを表出していながら、無自覚、無評価とはとんでもないことです。相手を苦しめます。特に、悪質であれば、批判されます。犯罪になることもあります。
 そのような古人にならうべく、生き方や書き残したもの、史跡を探求しています。そのような「至誠」の人を「マインドフルネス心の世界遺産」と指定しています。

http://mindfulness.jp/shoki-nihonbunka.htm

 「長崎の鐘」の著作を著わした永井隆博士もその一人です。 本日、この人のことが報道されました。

https://www.asahi.com/articles/ASP4Z7HQGP4VTOLB00M.html

 戦争してはならない、核爆弾を使ってはならない、永井博士の遺志を継ぐ遺族・被爆医師らが、「長崎の鐘」の英語版を復刻しようとしているそうです。
 5月1日で、博士の没後70年になります。

 長崎に記念館があります。最期に住んだ「如己堂」もあります。また、小学生の時に過ごした島根県雲南市の記念館が建て替えられ、4月にオープンしたそうです。 旅行が制限されなくなったら、この3か所を訪問したいと思っています。
 坐禅を通して私の友人だったひとが、最近、なくなったのですが、そのひとの兄が、医者であって、永井博士の教えを受けたことがあり、被爆を聴いた親族が、その友人に博士の慰問に行ってもらったエピソードを聴きました。 そのことは記事に書きました。

 永井博士の言葉です。
◆「私は神の御意のままに、おん手の先につかわれる一つの道具にすぎなかった。」(A73)

◆「私は注射器であった。私がこわれて亡くなっても、私を使っていた神がそのままおられるのだから、何か他の手段でこの子の苦しみを癒してくださる。私は綱にすぎなかった。私がついに水底に沈んでも、私を投げた神がそのままここにおられるのだから、必ずこの子を荒波から救い上げてくださる。−−何も心配することはないじゃないか?」(A73)

 永井博士の言葉です。西田哲学によれば、自己の根底に働きがあって決して対象的には意識できないので、「絶対無」という。その働きはそれ自身を否定して、各人の自己となり、各人の価値世界を表現する。すべての人の根底に働いている。それに、自分が生かされていることを知る。自己は、絶対者の射影点であるという意識になる。永井博士の「注射器」が同じ感覚でしょう。自分は単独に生きるものではなくて、絶対者の射影です。絶対者が自身を否定して私になってくれているという自覚によって、常に絶対者の愛に包まれているという意識になります、アインシュタインの 言葉もこれでしょう。  対象的に意識され、死ぬことを予期する自我は真の自己ではない。真の自己は根底に働く絶対者の自己否定的に表現されたものという意識は、自己の死の恐怖から解放される。がん患者の心のケアに効果があると思われる。禅の悟りを得たひとが「生きながら死人となりて」「不生」「私は死なない」という。
 西田の深い根源の絶対無(超個)、その自己否定としての自己(超個の個)の哲学は難解であるが、すべての人の真実なのだということを説明した書籍がまた発行された。自己とは何かを探求する「マインドフルネス」の研究者や切実にしりたいと思う死を意識する人は、探求していただっきたい。「マインドフルネス」にも、自己を探求する学派がある(ACT,BDT)が、日本人の「自己」はこれなのだから。
 (竹村牧男『唯識・華厳・空海・西田』青土社、2021/4/30)

 永井博士の言葉も同様だと思われる。私は、神(絶対者)の注射器、そして、私が死んでも、我が子にも、根底に神の愛が働く、心配いらない。 そして、意外なことに、真言宗の空海にも同様の深い自己があると竹村氏が教えてくれました。
 私もがん患者の方々と、これを探求したいと思います。がん患者の10年生存率が発表された。がんと宣告されると、苦悩するひとがおられる。10年もの苦労となる。
 また、真の自己は何かということは、人格を否されたような事件で苦悩する人の救済にもなるだろう。心理的なケアが求められるひとがいる。人格否定の被害者、虐待された人、親から否定されたひと、性的事件の被害者、男女ジェンダー平等の人格否定(平塚雷鳥が戦ったように)など。否定された自己は真の自己ではなかった、絶対の愛に包まれているのが私であった、という自覚によって、精神的な救済になる。

永井隆ー参考文献
A.『この子を残して』 永井隆 発行所:サンパウロ
B.『長崎の鐘』    永井隆 発行所:サンパウロ




NHK 朝ドラ「エール」に、至誠の人 永井隆 
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4675
Posted by MF総研/大田 at 20:58 | マインドフルネス心の世界遺産 | この記事のURL
(16)個人と集団の立場を超えて [2019年11月06日(Wed)]
☆相談会= マインドフルネスSIMTによる問題のありかと解決法のアドバイス
主催:マインドフルネス総合研究所
後援:日本マインドフルネス精神療法協会

『善の研究』(16) NHK Eテレビ 100分de名著

 =マインドフルネス心の世界遺産

 NHK Eテレビで、西田幾多郎の「善の研究」を紹介しています。28日、第4回(最終回)が放送されました。感想を述べてきましたが、一応一段落とさせていただきます。

個人と集団の立場を超えて

 西田哲学の最初の論文は、「善の研究」で、最終論文は「場所的論理と宗教的世界観」です。 前者だけを読んで,「西田哲学は浅い」といってはならないのです。

 大きな深まりがあります。35年の間、成長があったわけです。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3270
この記事にも、両者の違いに触れています。

 人間は弱い、小さい、エゴイズムになります。団体であっても、宗教でさえも、学問でさえも、自分の理解した立場、仮説、定義、自分の所属集団の立場、仮説、定義に執着して枠内にとどめて、内外の研究・実践・支援を制限して、枠外の人々の幸福を妨害します。その過ちを自覚せず、自分ではいいことをしていると思いこんでいます。
 そういうことを指摘する書物が、最近たくさん発表されてきました。これから期待したいと思います。それが広く浸透されていくのを見届けられないのが残念ですが、若い人に期待します。

 NHK Eテレビ 100分de名著は、次は「法華経」です。原始仏教(部派仏教)とは違う大乗仏教の神髄を浮き彫りにしてくださるでしょう。純粋な大乗仏教は、マインドフルネスをはじめた部派仏教の差別思想を批判して起こりました。日本の仏教とも違う教えだったようです。今、何が失われたでしょうか。勉強したいと思います。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3270
★自我のマインドフルネス・坐禅・瞑想と 世界のマインドフルネス・坐禅・瞑想

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3789
★思想的な怠惰を叱る

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3930
★大乗仏教非仏説を超えて

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3866
★「忖度社会ニッポン」

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3853
★「正しさをゴリ押しする人」

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4100
★オルテガ「大衆の反逆」

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3669
★学者は平気でうそをつく

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3853
★専門家の多数決のエゴイズム



参照
「100分de名著 善の研究」若松英輔、NHK出版

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4382
★目次(1)

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3329
★後期西田哲学の実践論
 「実践哲学序論」を中心に
★「マインドフルネス心の世界遺産」の索引です
http://mindful-therapy.sakura.ne.jp/sekai-isan/mokuji-sekaiisan.htm

(注)マインドフルネス心の世界遺産の例=河井寛次郎、大山忠作。
★河井寛次郎
★大山忠作
Posted by MF総研/大田 at 07:40 | マインドフルネス心の世界遺産 | この記事のURL
(15)どう生きるかではなくて自己とは何か一 [2019年11月04日(Mon)]

『善の研究』(15) NHK Eテレビ 100分de名著

 =マインドフルネス心の世界遺産

 NHK Eテレビで、西田幾多郎の「善の研究」を紹介しています。28日、第4回(最終回)が放送されました。いくらか感想を述べさせていただきます。

どう生きるかではなくて自己とは何か一

 最終回は、「善の研究」ではなくて、西田哲学の最終論文「場所的論理と宗教的世界観」からの引用がありますので、とてもむつかしいです。

 西田哲学は、自己とは何か、世界とはどういう構造になっているのかを場所的論理で説明しています。しばしば、「どう生きるか」という本が出版されますが、それは宗教的でないもので間に合います。「価値」を見つけていきていくのです。宗教ではない、カウンセリングで支援できます。
 しかし、「自分とは何ものか」を答えるのは少ないでしょう。西田哲学は、それも扱っています。


 「いかなる場合に、我々に宗教問題と云うものが起るのであるか。宗教心というものは、いかなる場合に、意識せられるのであるか。宗教の問題は、価値の問題ではない。我々が、我々の自己の根底に、深き自己矛盾を意識した時、我々が自己の自己矛盾的存在たることを自覚した時、我々の自己の存在そのものが問題となるのである。人生の悲哀、その自己矛盾ということは、古来、言いふるされた常套語である。しかし、多くの人は深くこの事実を見つめていない。 どこまでもこの事実を見つめていく時、我々に宗教の問題というものが起って来なければならないのである(哲学の問題というものも実はここから起こるのである)。」(「場所的論理と宗教的世界観」旧全集11巻393-394頁)

 「宗教の問題は、我々の自己が、働くものとして、いかにあるべきか、いかに働くべきかにあるのではなくして、我々の自己とはいかなる存在であるか、何であるかにあるのである。」(同、11巻406頁)

価値の問題ではない

 生きているのがつらい人、生きる意味をどうしてもみつけられない人、人格を否定された苦悩を持つ人(虐待、パーソナリティ障害、犯罪被害など)、死後この自分はどうなるのか苦痛の人、宗教の違いで苦悩する人、カルトで苦しむ人などには、必要とされるでしょう。従って、宗教を排除してはいけません。深刻な苦悩を持つひとがいます。解決できなくて、自殺する人もいます。宗教を嫌悪するのは自由ですが、排除するのは重大な偏見でしょう。自分が理解できないことは、科学や芸術や民族の思想習慣などにも無数にあるでしょう。 自分が理解できないで嫌悪するものは、排除するのであれば、ごく少数の賛同者だけで生きるということであり、違いがあっても、そのままで共生していく、現実の世界の共生の原理に違反します。

 日本のマインドフルネス=自己観察は、こういうところまであります。ほかのマインドフルネスでも扱うものはすべてカバーしています。対人場面でない「無評価」の観察も、対人場面や社会の何かを表現し批評される「評価の現場」の「評価」の観察もカバーします。
 うつ病、不安症、PTSD,過食症、人間関係、ひきこもり、いじめ、セクハラ・パワハラなどの被害者、どう生きるか、など、などは、評価の現場で起こりますし、評価の現場に参画できにくくなっているものです。評価のマインドフルネスも重要です。
 そして、さらに、上記のような当為についての苦悩でなく、自己存在の苦悩の解決のための、自己存在のマインドフルネスも必要です。  研究開発はまだ開始したばかりです。悩む対象者は、数百万人にもおよぶでしょう。

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「100分de名著 善の研究」若松英輔、NHK出版

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★後期西田哲学の実践論
 「実践哲学序論」を中心に
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(注)マインドフルネス心の世界遺産の例=河井寛次郎、大山忠作。
★河井寛次郎
★大山忠作
Posted by MF総研/大田 at 21:26 | マインドフルネス心の世界遺産 | この記事のURL
(14)一即多・多即一 [2019年11月03日(Sun)]

『善の研究』(14) NHK Eテレビ 100分de名著

 =マインドフルネス心の世界遺産

 NHK Eテレビで、西田幾多郎の「善の研究」を紹介しています。28日、第4回(最終回)が放送されました。いくらか感想を述べさせていただきます。

一即多・多即一

(【 】は、テレビのナレーション。若松さんの筋でしょう。)

 最終回は、「善の研究」ではなくて、西田哲学の最終論文「場所的論理と宗教的世界観」からの引用がありますので、とてもむつかしいです。

 【テキストでは、詳しく書いていない 「絶対矛盾的自己同一」について、テレビで詳しく扱いました。若松さんは、次の言葉の説明をされました。】

 「世界の現実はどこまでも多の一でなければならない。 個物と個物との相互限定の世界でなければならない。故に私は現実の世界は絶対矛盾的自己同一というのである。」(『絶対矛盾的自己同一』)

 これは、絶対無に裏づけられた世界のことである。
 「創造的世界とは、無体系的な、恣意的な世界ではない、絶対の自己否定によって裏づけられた世界である。」(『生命』第11巻328頁)

 「個物的多として全体的一を否定する方向に空間的形式が考えられる。空間というのは、個物的多の並列的対立の形式である。多と一との矛盾的自己同一として空間的・時間的なる世界は、その時を否定した、否これを極小とした空間的方向に、物質的世界というものが考えられると共に、逆に空間的対立を否定した、否これを極小とした時間的方向に、意識の世界というものが考えられるのである。 物質の世界としては、空間的に並列的な無数の個物が時間的に関係する力の世界と考えられるが、意識の世界としては、我々の意識統一に於て知られる如く、個々のものが各自時間的に独立的であると共に一である。我々の意識の野に於ては、時間的なるものが空間的である、時間的・空間的である。かかる意味に於て、多と一との矛盾的自己同一の世界に於て、各自時間的に独立的なるものが空間的に一である。」(「実践哲学序論」『西田幾多郎全集』第10巻24頁)

 「世界」というのは、ふつうの対象的世界ではなく、絶対無即絶対有の世界である。自己の根底に全体的一が働いてくる。対象的にはみられない。 全体の中から、各自が自己に意味あるものを見つけてごく一部を切り取り時間的に意識により自己を表現する。無数の多が世界を創る。 無限無数の個人(個多)が、自己を否定して(完全な無我)、表現したものが一つの世界になっている。絶対的一者である。
 全体的一がそのまま多数の個人である。各人が各人が時の世界を持ち自己の世界を表現している。そのまま多数の個が世界となっている。
 それぞれの個人の底の絶対と一つである。各自の自己、個多はそのまま絶対的一である。

 すべての個人の底に絶対無が働いている。国とか民族というような対象的な「全体的一」ではなくして、絶対的一者は自己の根底の絶対無の表現である。
 深い禅や真宗などの実践者は、見る聞く働くすべてが自己のものではなく、自己を超えたものである。大乗仏教は、仏といった。

 (続く)

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3930
★大乗仏教非仏説を超えて

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★「忖度社会ニッポン」

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★「正しさをゴリ押しする人」

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★学者は平気でうそをつく

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★専門家の多数決のエゴイズム

(続く)

参照
「100分de名著 善の研究」若松英輔、NHK出版

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4382
★目次(1)

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3329
★後期西田哲学の実践論
 「実践哲学序論」を中心に
★「マインドフルネス心の世界遺産」の索引です
http://mindful-therapy.sakura.ne.jp/sekai-isan/mokuji-sekaiisan.htm

(注)マインドフルネス心の世界遺産の例=河井寛次郎、大山忠作。
★河井寛次郎
★大山忠作
Posted by MF総研/大田 at 17:39 | マインドフルネス心の世界遺産 | この記事のURL
『善の研究』(13) NHK Eテレビ 100分de名著 [2019年11月01日(Fri)]

『善の研究』(13) NHK Eテレビ 100分de名著

 =マインドフルネス心の世界遺産

 NHK Eテレビで、西田幾多郎の「善の研究」を紹介しています。28日、第4回(最終回)が放送されました。いくらか感想を述べさせていただきます。

自己は自己だけで生きているのでない

(【 】は、テレビのナレーション。若松さんの筋でしょう。)

 最終回は、「善の研究」ではなくて、西田哲学の最終論文「場所的論理と宗教的世界観」からの引用がありますので、とてもむつかしいです。若松さんは、次の文を引用しました。

 「我々の自己の根底には、何処までも意識的自己を越えたものがあるのである。 これは我々の自己の自覚的事実である。自己自身の自覚の事実について、 深く反省する人は、何びともここに気づかなければならない。 鈴木大拙はこれを霊性という(日本的霊性)。 しかして精神の意志の力は、霊性に裏づけられることによって、自己を超越するといっている。」(「場所的論理と宗教的世界観」)(テキスト116p)

 「意識的自己は、すべての人が意識しているものです。それを「魂」とみなしているでしょう。それを「超えて」とは、西田哲学で「超えて」というのは、内、底の方向です。
 意識される自分の奥底に働き」があるのです。鈴木大拙は「霊性」という。絶対無です。働きがあるのです。世界や自己、すべてを作りだす働きです。言葉以前です。井筒俊彦は「無分節」といいます。この表現は、主客未分の様子をあらわしています。しかし、一方、これは、働きがあります。すべてを否定し、すべてを創造します。前者を「死」ともいい、後者を「生」とも言います。前者は、自己の死であり、「無我」です。
 無我の底の働きが、種々の意識、意識的自己意識、対象的事物など(対象になるもの)を作りだします。そういう働きが、すべての人の奥底で動いているのです。絶対に対象にならないのです。だから、いくら意識を根底に向けて「観察」しようとしても、見えません、感じません。
 それを体験できるのが「見性」です。体験ですから、理論的に「わかった」というのではありません。

 【若松さんは、次のようにいいます。】

 「それは、いわゆる心霊現象や「霊感」といったものとはまったく関係がありません。それは西田がいう「神」を認識するはたらきです。人間は、人間を超えるものを真摯に求めることによって真の自己になる、というのです。」(テキスト118p)

 日本の「マインドフルネス」=観察、自己洞察は、そこまでいくのですが、うつ病や不安症、パニック症、PTSD,過食症、対人関係の苦悩、生きる意味の発見などは、そこまでは無用でしょう。もっとも深いものは、一部の苦悩する人たちの救いになるでしょう。死、人格否定、宗教、カルトの苦悩などを救済できるでしょう。

 現代の日本で、さまざまな心理社会的問題がありますが。解決支援のためには、意志的自己、叡智的自己の範囲でしょう。浅いもので十分でしょう。感覚や思考、身体の動きよりは深いですが。

 (続く)

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3930
★大乗仏教非仏説を超えて

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3866
★「忖度社会ニッポン」

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3853
★「正しさをゴリ押しする人」

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4100
★オルテガ「大衆の反逆」

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3669
★学者は平気でうそをつく

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3853
★専門家の多数決のエゴイズム

(続く)

参照
「100分de名著 善の研究」若松英輔、NHK出版

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4382
★目次(1)

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3329
★後期西田哲学の実践論
 「実践哲学序論」を中心に
★「マインドフルネス心の世界遺産」の索引です
http://mindful-therapy.sakura.ne.jp/sekai-isan/mokuji-sekaiisan.htm

(注)マインドフルネス心の世界遺産の例=河井寛次郎、大山忠作。
★河井寛次郎
★大山忠作
Posted by MF総研/大田 at 21:44 | マインドフルネス心の世界遺産 | この記事のURL
大山忠作美術館・五星山展  (福島県二本松市) [2019年10月31日(Thu)]

大山忠作美術館・五星山展  (福島県二本松市)

http://www.nihonmatsu-ed.jp/oyama/index.html
★福島県二本松の大山忠作美術館

大山忠作美術館(福島県二本松市)で、「五星山展」が開催されています。
(10月13日から11月17日まで)

http://www.nihonmatsu-ed.jp/oyama/file/2019-goseizan-v2.pdf
★五星山展のチラシ

大山忠作画伯の長女、大山采子さん(女優名一色采子さん)の説明があって、日本画の歴史について学ぶことができます。大山画伯の画は、制作の時のエピソードを交えて楽しく説明していただけます。
「爽涼」の画は若い女性のちょっとかわった身構えですが、エピソードをお話しくださって納得です。

同時に「大山忠作の画室から」の展示があります。
こちらにも画の何点かと書、ゆかりの品などが展示されています。
こちらも、采子さんの説明があります。

采子さんがおいでになる日に「五星山展」の図録を購入するとサインをしていただけそうです。 (おいでになる日かどうかご確認ください)
この機会に、ぜひ、ご覧ください。

 先日の大雨で川が氾濫して東北本線が普通になったのも復旧しました。 東京方面からなら新幹線郡山で下車、東北本線に乗り換えて、二本松駅下車です。

五星山展の大山忠作の展示

大山忠作(1922-2009)の画が9点あります。

ちょっと、私の関心をひいたことをいくつか。

羅漢の図が3つ展示されています。
羅漢は、釈尊の弟子です。仏教に関連があります。
「羅漢図(動)」1948 26歳
「羅漢(静)」1950  28歳
「五百羅漢」1972  50歳

画伯の仏教の深化が反映されているのではと思いました。
「五百羅漢」は画面全体が真っ青です。大勢の僧侶が描かれていますが、遠くから見るとよくわかりませんが、自分の関心ある部分に焦点をあてて、それに眼を近づけるとどのような羅漢であるかわかります。 禅でいう「無」、分節以前を思わせます。 チラシに掲載の<游鯉>(1977年)の背景の「青」が気になりました。
この青の背景と「五百羅漢」の画面全体の青は関係あるのでしょうか。
鯉の画の「揺曳」も展示されています。模様は水面か底面か関心をよびます。

画室の方に、「無」の書があります。菊人形展の会場は二本松城跡ですが、その城跡の裏に桃源郷のような村里があり、そこに曹洞宗の龍泉寺があります。坐禅ができるところです。 多分、大山忠作と禅とはどこかで関連がありますね。
龍泉寺は道元禅師にゆかりがあります。画伯には「雪(良寛)」の画もあります。 (今回の展示はありません)
良寛も曹洞宗の禅僧です。

「神国日本」(横山大観)の画のほか、大山忠作の展示のうち 3点に太陽が描かれています。

「北の太陽」(1994)
「残照」(1997)
「むらさき富士」(2005)

最後の赤い太陽は何か象徴的です。

「二本松の菊人形」

並行して「二本松の菊人形」が開催されています。

http://www.city.nihonmatsu.lg.jp/page/65kikuningyo.html
★ 2019年第65回「二本松の菊人形」の案内のホームページ

ご覧になってはいかがでしょうか。
大山忠作の関連記事

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3598
「マインドフルネス精神療法」第5号の記事

http://mindful-therapy.sakura.ne.jp/kikansi/hp-05/57-ohta-zen.pdf

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4281

【目次】このようなところに活用できそう
 マインドフルネスSIMT 2019

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4243
Posted by MF総研/大田 at 07:27 | マインドフルネス心の世界遺産 | この記事のURL
絶対の自己否定において自己をもつ [2019年10月30日(Wed)]

『善の研究』(12) NHK Eテレビ 100分de名著

 =マインドフルネス心の世界遺産

 NHK Eテレビで、西田幾多郎の「善の研究」を紹介しています。28日、第4回(最終回)が放送されました。いくらか感想を述べさせていただきます。

絶対の自己否定において自己をもつ

(【 】は、テレビのナレーション。若松さんの筋でしょう。)

 最終回は、「善の研究」ではなくて、西田哲学の最終論文「場所的論理と宗教的世界観」からの引用がありますので、とてもむつかしいです。若松さんは、次の文を引用しました。

 「我々の自己は絶対の自己否定において自己を有(も)つ・・・」

 この文が難解でしょう。次の文から入ります。

 「我々の自己の自覚の奥底には、どこまでも我々の意識的自己を越えたものがあるのである 。しかも、それは我々の自己の外的なるのであなく、意志的自己というのは、そこから成立するのである、そこから考えられるのである。それは単に無意識とか本能的とかいうものではない。しか考えるのが対象論理的錯誤である。」(『場所的論理と宗教的世界観』)

 この文と、西田哲学の研究者の言葉、次のブログでみたところを参考にすれば、西田のいうことがわかってきます。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3288 ★逆対応の論理

 わかりやすく、くだいて説明します。私は、一人だけで見て考えて行為しているのではない。奥底に、(大乗仏教で)仏性といわれた働きが働いている。(それが「絶対」である)
 (全く下手なたとえをしてみよう。スマホでメールとかゲームができる人もそのソフトは自由に使える。しかし、その根底に基本的なシステムがうごいているが、メールやゲームソフトからは絶対にその奥で動いているシステムはわからない。見えないが働いている。)

 「我々の自己は絶対の自己否定において自己を有(も)つ・・・」
 すべての人の意識の根底に働く仏性(絶対)が絶対自身を否定することで意識的自己(私)の意識があらわれます。絶対を知らない人でも、絶対が絶対を否定して、意識的自己を意識しています。

 竹村牧男氏の文で、ここを強調すると。

 「神の自己否定において個物的多が成立している・・・・ 神の自己否定という愛において自己が成立しているが故に、心の底から当為というものが出てくる。・・・我々の自己の真の当為が出てくる。ここまできてはじめて、西田の宗教哲学はその骨格の全貌を示すのであった。・・・・この身このまま一転して、神の下にあることを自覚し、だからこそ歴史的世界の創造的主体となって働きぬく。それは、外からの命令によるのではなく、心の底から、おのずからのものである。」

 すべての人の意識作用の根底に絶対(宗教では神ともいう)が働いていて、それが自己否定して意識的自己となっています。絶対を知らないひとでもそうなのであるといいます。絶対は実体ではありません。鈴木大拙は「超個の個」といいます。超個が絶対であるが、超個は単独には存在しません。超個は個を通して働きます。個は超個なくしては働かないのです。

 「個は個である。超個ではないが、超個は個で始めて用が可能になる。 個は超個である、個だけでない、超個の個である。」(「禅の思想」)

 こういう「逆対応の論里」は、初期の「善の研究」では、明確になっていなかったのです。西田自身が言っています。

 大乗仏教で「すべての人は仏性を持つ」という。次の「100分de名 著」は「法華経」です。「あなたには仏性があるので、拝みます」というと、「気持ち悪い」と石を投げつけられる常不軽菩薩が出てくるでししょう。

 (続く)

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3930
★大乗仏教非仏説を超えて

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3866
★「忖度社会ニッポン」

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3853
★「正しさをゴリ押しする人」

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4100
★オルテガ「大衆の反逆」

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3669
★学者は平気でうそをつく

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3853
★専門家の多数決のエゴイズム

(続く)

参照
「100分de名著 善の研究」若松英輔、NHK出版

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4382
★目次(1)

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3329
★後期西田哲学の実践論
 「実践哲学序論」を中心に
★「マインドフルネス心の世界遺産」の索引です
http://mindful-therapy.sakura.ne.jp/sekai-isan/mokuji-sekaiisan.htm

(注)マインドフルネス心の世界遺産の例=河井寛次郎、大山忠作。
★河井寛次郎
★大山忠作
Posted by MF総研/大田 at 19:41 | マインドフルネス心の世界遺産 | この記事のURL
『善の研究』(11) NHK Eテレビ 100分de名著 [2019年10月27日(Sun)]
21日に、テレビで第3回目を放送しました。

『善の研究』(11) NHK Eテレビ 100分de名著

 =マインドフルネス心の世界遺産

 NHK Eテレビで、西田幾多郎の「善の研究」を紹介しています。21日、第3回が放送されました。いくらか感想を述べさせていただきます。

嫌われる勇気

(【 】は、テレビのナレーション。若松さんの筋でしょう。)

 【人はものごとをじかに見ない。自分の思想、嗜好(好き嫌い)などの眼鏡をかけて見る。】
 仏教や禅,心理学、哲学の言葉を読んでも、読む人によって様々に解釈して説明される。「マインドフルネス」や「正念」の定義や解釈も各人によって違う。「正念」は超越をいう現代の禅哲学でもいう。観察するものの幅と深さが様々なものがある。だから、仏教も初期仏教から大乗仏教、中国、日本の仏教というふうに多数の宗派に分かれた。教団の中も、一枚岩ではなく、多数の解釈がある。

 【テキストにはないが、若松さんは、こんなことを言った。

 「私たちの嫌いな人がとても大事なことを言うことがありますよね。・・・だから私たちは好き嫌いでものを見ちゃうと、私たちは大きなものを見失います。」】

 この社会は、企業、病院、学校、学会、教団、福祉施設、官庁、任意団体などの無数の団体によって動いていく。その団体の中のメンバーは、同じ思想、同じものが好きではく、細部では重要な反対意見もある。
 「マインドフルネス」「正念」」の言葉を見ても、重要な違いがあるものを主張することが起きる。浅いものは理解しやすい。深いものは理解も実践も難しい。理解できない人がいる。
 ある時、ある集団内で、この団体は「このこと」を定義、実践方針にしよう」というと、当然に議論をする。力のありそうなものの顔色をみて、それに賛同するもの、ある説は理解できないので嫌悪の感情をいだき、深いものに賛成できない。
 浅いもの、理解しやすいものが多数派となる傾向がある。 もし、この団体が、その方針ですすんでいくと、その集団もそのクライアントも深いものを学ぶ機会は来ない。若松さんがいうのはこういうことだろう。
 自己保身、利己主義が人間の本質であるから、地位、収入などを得ようとして力のある者の意向を忖度し、それに賛同する。自分自身がない。権力者についていく。こういう構図の集団があると何人かの人がいってきた。

 こういう自己保身、我利我執をやめようという「人間完成」「利他」を強調したのが大乗仏教だった。日本仏教は、これが弱いと大竹晋氏が明らかにした。 西田幾多郎も日本仏教から深い哲学と実践が失われた点を批判した。

 こういう大乗仏教や西田哲学は難しいものの、超越の部分ではなくて、浅いやさしい部分は現代人の多くの心理社会的問題の解決に活用できそうなことも含んでいるから、少なくとも、研究者、指導者は、こういうものを「難しいから嫌いだ」と排除しないほうがいいだろう。若松さんのいうように、国民にとって大事なものが失われる。末端のひとは、好き嫌いで選択するのは当然であるが、教育者研究者がそうであれば、重要なものを知らされない国民が不幸である。
 集団内のメンバーは、自分自身のものを持ち、外部の利用者のためになることであれば、自分の意見を主張していくということが大切だ。だが、多数派から嫌われる。社会のために少数派となる「嫌われる勇気」がここにも大切だろう。
 西田哲学の深い立場が好きであり、それを言う私も嫌われて、排除される。やれやれ、住みにくい人生です。

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★大乗仏教非仏説を超えて

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★「忖度社会ニッポン」

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★「正しさをゴリ押しする人」

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★オルテガ「大衆の反逆」

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★学者は平気でうそをつく

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★専門家の多数決のエゴイズム

(続く)

参照
「100分de名著 善の研究」若松英輔、NHK出版

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4382
★目次(1)

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★後期西田哲学の実践論
 「実践哲学序論」を中心に
★「マインドフルネス心の世界遺産」の索引です
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(注)マインドフルネス心の世界遺産の例=河井寛次郎、大山忠作。
★河井寛次郎
★大山忠作
Posted by MF総研/大田 at 09:12 | マインドフルネス心の世界遺産 | この記事のURL
『善の研究』(10) NHK Eテレビ 100分de名著 [2019年10月26日(Sat)]
21日に、テレビで第3回目を放送しました。

『善の研究』(10) NHK Eテレビ 100分de名著

 =マインドフルネス心の世界遺産

 NHK Eテレビで、西田幾多郎の「善の研究」を紹介しています。21日、第3回が放送されました。いくらか感想を述べさせていただきます。

じかに見ることをさまたげるもの

(【 】は、テレビのナレーション。若松さんの筋でしょう。)

 【じかに見ることを妨げるものとして、民芸運動家の柳宗悦と西田幾多郎の説明があります。】

 柳宗悦は、思想、嗜好(好き嫌い)、習慣の3つです。

 西田幾多郎は、「善の研究」では、思想、思慮分別、判断です。

 ここで「判断」という言葉が出てきます。「判断」の言葉は「マインドフルネス」の実践者にも出てきます。

 「“今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること” 」

 「評価をせずに」ということを「判断をせずに」という表現をする人もいます。マインドフルネスの推進者は、この2つで観察するのだというひとが多いです。ただし、SIMTはこれに制約されません。家族との対話、職場での仕事は、評価、判断の連続ですから。ポージェスのポリヴェーガル理論の指摘どおりです。

 西田はこういいます。

 「いかなる意識があっても、そが厳密なる統一の状態にある間は、いつでも純粋経験である、即ち単に事実である。これに反し、この統一が破れた時、即ち他との関係に入った時、意味を生じ判断を生じるのである。・・・・・
意味とか判断とかいうものはこの不統一の状態である。」(岩波文庫p21)

 この少し前に、例があります。
 たとえばある音を聞いた時、「鐘の音だ」と
 「判じた時は、ただ過去の経験中においてこれが位置を定めたのである」

 【若松さんは、リンゴの「赤」という判断は、個々のリンゴの色の違いからそれていることを示されました。】
 実物のリンゴそのもの(視覚で見た)と「リンゴは赤い」とは違うわけです。

 幼い頃から今までの過去の経験で「こういう音は鐘だよ」「これは太鼓だよ」と学習したことに照らして、現在の事実を「何だ」と分類、判断します。言語化します。 今は難しい評価、判断を求められます。セクハラ、パワハラ、詐欺、犯罪でないか、などの評価判断も必要です。うつ病、PTSDなどに追い込んでしまわないか、そういう病気を悪化させないかの評価も必要です。
 ブームのマインドフルネスは、こういう判断をしないことのようです。しかし、仏教は初期仏教の時代から大乗仏教の時代まで、自分の考え行為に、エゴイズムの心理がないかどうか評価せよといってきました。エゴイズムの心理には、大乗仏教の唯識によれば、次のようなものがあります。一部です。
 貪(執着、好き)・瞋(いかり、嫌い)・痴(無知)・慢・疑・悪見が根本的な煩悩で、しかもそれらは具体的な場でさらに個々の特徴をもってはたらいたりします。それが随煩悩です。
 髄煩悩には、いきどおり、うらみ、しらばっくれ、言葉で相手の急所を攻撃する、 しっと、ものおしみ、たぶらかし、相手を籠絡してしまうこと、攻撃心、うぬぼれ・・・。

 こういうエゴイズムの心理は、現代の家庭、学校、職場、ビジネス、政治、外交の世界、インターネットの世界でも、充満しています。善良な人、社会的な弱い人が苦しめられています。学校にも、いじめが多く、大学にも「大衆」が多いとオルテガが指摘しました。大学にも、誠実な活動、社会に貢献するはずの活動などを無視したり妨害するものがいるというのです。昭和の時代は学者と実践者が論争しましたが。教育現場にもこういうエゴイズムが見られそうです。

 だから、今こそ、深く広いマインドフルネスが必要な時代なのでしょう。「評価」「判断」しないと、生きていけない社会です。「善の研究」の放送を見て聞いて、マインドフルネス、観察ということを厳密に検討していかなければ、マインドフルネスも(大乗仏教の3つの核心のように?)、社会から消えていくおそれがあると思いました。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4100
★オルテガ「大衆の反逆」

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3669
★学者は平気でうそをつく

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3853
★専門家の多数決のエゴイズム

(続く)

参照
「100分de名著 善の研究」若松英輔、NHK出版

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4382
★目次(1)

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3329
★後期西田哲学の実践論
 「実践哲学序論」を中心に
★「マインドフルネス心の世界遺産」の索引です
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(注)マインドフルネス心の世界遺産の例=河井寛次郎、大山忠作。
★河井寛次郎
★大山忠作
Posted by MF総研/大田 at 10:14 | マインドフルネス心の世界遺産 | この記事のURL
『善の研究』(9) NHK Eテレビ 100分de名著 [2019年10月25日(Fri)]
21日に、テレビで第3回目を放送しました。

『善の研究』(9) NHK Eテレビ 100分de名著

 =マインドフルネス心の世界遺産

 NHK Eテレビで、西田幾多郎の「善の研究」を紹介しています。21日、第3回が放送されました。いくらか感想を述べさせていただきます。

個人あって経験あるのではなく、経験あって個人あるのである

(【 】は、テレビのナレーション。若松さんの筋でしょう。)

 「個人あって経験あるのではなく、経験あって個人あるのである」という言葉。(岩波文庫p4,p35)

 劇作家、評論家の倉田百三が、「善の研究」の中のこの言葉に感激したことが若松さんから紹介された。

 「経験」は、純粋経験のことだ。純粋経験を後期に明確にした、「意識的自己を超えたもの」「絶対無」ととれば、それは他の哲学者や鈴木大拙がいう「超個」となる。「個人あって超個あるのではない、超個あって個人あるのである」となるだろう。
 しかし、絶対無ととらないで解釈する人も多いだろう。西田哲学は、後期になって完成した。彼自身が「場所的論理と宗教的世界観」でいっている。この論文で「逆対応の論理」を入れて最奥の宗教の論理が完成した。若松さんも、もう一つ読むなら、この論文だとすすめている。

 「善の研究」の説明は、後期に「行為的直観」というのと「創造的直観(自覚的直観」というのと、厳密に区別していないところがある。だから、西田自身が次のようにいう。

 「今日から見れば、この書の立場「は意識の立場であり、心理主義的とも考えられるであろう。しか非難せられてもいたしかたはない。・・・・

この書において直接経験の世界とか純粋経験の世界とかいったものは、今は歴史的実在の世界と考えるようになった。行為的直観の世界、ポイエシスの世界こそ真に純粋経験の世界であるのである。」(昭和11年、文庫 p7)

https://blog.canpan.info/jitou/archive/2345
★自覚的直観

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3288
★逆対応

(続く)

参照
「100分de名著 善の研究」若松英輔、NHK出版

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4382
★目次(1)

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3329
★後期西田哲学の実践論
 「実践哲学序論」を中心に
★「マインドフルネス心の世界遺産」の索引です
http://mindful-therapy.sakura.ne.jp/sekai-isan/mokuji-sekaiisan.htm

(注)マインドフルネス心の世界遺産の例=河井寛次郎、大山忠作。
★河井寛次郎
★大山忠作
Posted by MF総研/大田 at 08:27 | マインドフルネス心の世界遺産 | この記事のURL
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