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第7回〜絶対無条件の大悲に包まれて「鈴木大拙 願行に生きる」(下)  〜 その生涯と西田幾多郎との交遊 [2023年10月15日(Sun)]

第7回〜絶対無条件の大悲に包まれて
「鈴木大拙 願行に生きる」(下)
 〜 その生涯と西田幾多郎との交遊

 竹村牧男さん(東洋大学名誉教授)による、「鈴木大拙 願行に生きる」下巻のラジオ放送が始まりました。
発行:NHK出版

鈴木大拙後編.jpg

 竹村氏の願い(あとがき)
 「世界が混迷を深め、環境問題は海の汚染を含め危機的な状況にあり、無辜の民を殺して平気でいる戦争がためらわず実行され、南北のみならず随処において経済的格差が絶望的に広がる今日の時代にあって、困難に押しつぶされそうであってもなお その根本から立て直すためには、大拙の真摯な提言をもう一度、深く学び直し、 そして実際の行動につなげていくことがきわめて大切なことでしょう。」

 「人間の誰もが本来の人間性を自覚し実現すべきことを、大拙はすでに戦前から説き続けていました。その洞察には、実に深いものがあったと思わずにはいられません。」

 第7回が、10月8日にありました。

 日本には、深い心の観察探求がありました。つらいことがある人生ですが、深い心の探求で救われる方法を教えてくれました。

 道元は、最近ブームになっている「無評価で観察の瞑想」と同じような「目的を求めない坐禅」のみを強調したという「学問的な」解釈の学者が多いのです。そのためか、深刻な社会問題の解決には用いられることはありませんでした。
 しかし、昨年、竹村牧男氏は、道元にも深いものがあったと明らかにされました。鈴木大拙のラジオ放送でも、「超個の個」で出てきます。

竹村牧男『道元の哲学』春秋社、2022年6月

 この著書は、道元のほとんどすべての文献を参照した本格的な道元論です。道元の文献には、「身心脱落」「脱落身心」の語がしばしば出てくるが、「身心脱落」は、西田、鈴木、井筒らの絶対無、超個、無分節に該当して、「脱落身心」は、「超個の個」に該当するということを 的確に論証しています。すなわち道元には、深い哲学があった、とする本格的な道元論です。道元のほかの学問的な解釈の相違があったことについて、新しい見解が展開されて、道元が現代によみがえったような印象があります。
 道元には「見性」の否定の言葉が出てきますが、それは、超個の体験の否定ではないようです。

 うつ病になった時、救済してくれた師が道元の系統であったので、道元の教えに関心があり整理しました。道元の仏道には経過があります。道元は、絶対無、超個の体験を否定していません。途中です。その後があります。インド大乗仏教では他者救済の段階です。しかし、道元の当時の出家が寺の外で活動することは危険でしたし、領主が制限していました。道元は弟子の外出を制限していました。出家のすべきことについてインド大乗仏教の環境や現代日本とは異なることになるのは当然でした。
 竹村氏の書籍では、難解な道元の言葉を脱落現成(超個の個)の視点からのことばであると説明しています。
 道元には、悟りがない、ある、という学問的な論争が、戦前から含めると100年も続いてきた問題です。この著書で道元や禅の学問的な解明がすすんだと感じます。
 「坐禅は悟りを目的とするものではない」とも言われました。「目的」とは、10分後、1時間後に対象的なものを世界に作る意志作用の到達点です。悟りは対象的なものではありませんし、すべての作用の最も深い根源に関わることで、意志作用の「目的」となるものではありません。

 日本の深い心の哲学的に探求する方法の開発は現代人の深い苦悩、たとえば、がん患者の死の苦悩、カルト被害の防止などに、十分対抗できるものが含まれていると思います。
 星野富弘さんや三浦綾子は、キリスト教徒のようですが、不治の身体障害や病気で、絶望の淵にあったひとがキリスト教によって救済されたと聞きます。
 キリスト教、禅、親鸞の教えにある救済の論理を西田哲学が「場所の論理」と「逆対応の論理」で説明しました。
 日本の深い仏教に、そういう救済の論理があるのですが、竹村牧男氏のラジオ放送、第7回で、そこに触れました。日本にあった独特の深い宗教意識を、大拙は「日本的霊性」と呼びました。インド(初期)仏教にも、中国仏教にもなかったものだといいます。

「日本的霊性」=超個の個

 以下、竹村牧男氏の放送、テキストのごく一部をとりあげ、感想を述べる。
 大拙は、はじめは禅についての著書を書いていたが、大谷大学の教授になってから、親鸞の浄土真宗の学者に接して、親鸞の教えにも深いものがあったことを知る。 昭和19年(1944)、敗戦まじかの時期に『日本的霊性』を発表。中国の浄土教とは違う深い救いの道が、法然、親鸞にあったと解釈する。
 「超個の個」の詳しい説明は、第9回でされる。次の大拙の文章を紹介している。

 「宗教的行為なるものは、いつも個を超えたところから出る。・・・ しかし個の行為はーーそれが宗教的であるかぎりーーいつも個を超えたところから出なければならぬ。分別論理の上で、個を基礎とした行為と見られるものでも、その行為の主体は個を超えているとの意識がなくてはならぬ。」(テキストp54)

 「超個者が個を通して始めてその意志を実現しあたわぬという意味である。超個が超個として存在することは、超個でなくなることである。それ故またそれ自身の意志を持つことが出来ぬのである。超個はどうしても個を通さなければならぬ。・・・ 超個は超個だが、それは個の外にあるのではなく、またその中にあるのでもない。超個と個の関係は超越でも内在でもない、また超越で内在とか、内在で超越とかいうことでもない。
 超個は超個でそのまま個多であり、個多は個多としてそのまま超個である。」(P54-55)

 第7回に戻ると、大拙によれば、親鸞の、浄土教の教えでは、浄土は死んでからのことではない。この人生で、浄土にいるのである。この人生のこの世界が浄土である。竹村氏は、大拙の次の言葉を紹介している。

 「仏教の浄土は絶えず此土と非連続的に接触している。浄土へ行ききりの仏教徒はない、いずれも浄土着は即ち浄土発である。浄土は寸時も停留すべきステーションではないのである。」(P21)

 この仏教観は、西田幾多郎も同じであると、竹村氏。

 これが、なかなか理解されないのだが、竹村氏は、さらに、第8回以降、盤珪、白隠、道元も同様であることを紹介する。

 また、第7回の最後に、鈴木大拙が戦争末期に、『日本的霊性』の中で、他国侵略、戦争批判、仏教批判らしい文章があることを紹介している。
 「武力・機械力・物力の抗争は、有史以来、やはり枝末的である。畢竟は霊性発揚と信仰と思想とである。そしてその霊性・信仰は、思想と現実とによって、いやが上に洗練せられたものとならなくてはならぬ。この際における仏教者の使命は時局に迎合するものであってはならぬ。」(P25)

 西田哲学、鈴木哲学によれば、すべての人間が「超個の個」であり、絶対平等である。これは、現代の世界における種々の差別(人種、性、宗教,障害など)や殺人、戦争を批判するものである。戦争などで他者を殺害することも批判する。超個の個である自己であれば、がん患者の自分の死の苦悩(がん闘病者の自殺防止、ターミナルケアなど)にも貢献する。いじめ、ハラスメントで、超個の個である他者を凌辱したり、自殺させるものがある。とんでもないことなのである。
 また、種々の苦悩から死にたくなる(自殺)ひとが多いが、「超個の個」であることに目覚めれば、思いとどまることができる。何とか、この西田哲学、鈴木哲学を教育してもらえないだろうか。
 日本にあった、深い人間観、哲学を理解して、現代、未来にいかしてほしいものと思う。 このような、深い人間哲学(実は親鸞、道元、盤珪、白隠などにみられたのだという)は、大学でもほとんど聴くことはないだろう。出版される本でもほとんどみられない。この放送の第8回以降も注目したい。
    (蛇足であるが、ブームになったジョン・カバットジンの「マインドフルネス」で、彼が「全体性」というものは、鈴木大拙がいう「超個」であろう。

    日本にある深い人間哲学による「マインドフルネス」を現代的に開発できないだろうか。仏教や禅、浄土経典の説き方は、現代のひとには、わかりにくい。だから、仏教離れ、カルトの被害も起きているように見える。
     悲惨な精神状況にある現代の日本。このラジオ放送の内容は、もっと多くの人に知ってもらいたい。テレビでも放送してもらえないだろうか。

    https://blog.canpan.info/jitou/archive/4630
    ★道元に関する学問〜竹村牧男氏

    https://blog.canpan.info/jitou/archive/3348
    ★竹村牧男氏が道元にも超個の個の重視があったことを明らかにした。ひとはみなせっかくめぐまれた、生命なのに、世界から紛争、殺戮がなくならない。道元から西田・鈴木に至るまで、根源が超個の個であること、それを破壊する独断・我執を批判していたのに。なぜ、日本のすぐれた哲学を、こともあろうに、日本人が積極的に否定するのだろうか。このことも明らかにしなければならないのだろうが・・・。)

https://blog.canpan.info/jitou/archive/5141
【目次】竹村牧男氏によるラジオNHK宗教の時間 〜 「鈴木大拙 願行に生きる」
Posted by MF総研/大田 at 10:48 | 深いマインドフルネス | この記事のURL
鈴木大拙 〜 第4回=衆生無辺誓願度の悟り ー 大拙と西田 日米間の交流 [2023年07月10日(Mon)]

鈴木大拙 〜 第4回=衆生無辺誓願度の悟り ー 大拙と西田 日米間の交流

 竹村牧男氏(東洋大学名誉教授、前学長)によるラジオ放送が4月から始まりました。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/5141
 NHK宗教の時間 毎月第2日曜日、午前8:30−9:00

 テキスト「鈴木大拙 願行に生きる」(上)竹村牧男、NHK出版


 7月9日は、第4回でした。

 大拙は、見性した翌年の春、アメリカにわたる。イリノイ州のラサールという田舎町のオープン・コートという出版社に勤める。編集をまかされていたのが、ケーラス。大拙の仕事はケーラスの助手として漢字で書かれた仏教書を英訳すること。

 「ケーラス博士は、「科学的宗教」を代表して、「真理は科学の研究し拡張し得る所で、またそのような真理でなければ、宗教的黙示としてわれわれの信憑を博するに足りない」という説を主張したといいます。」(テキストp73)

 「このラサール時代に、大拙は仏教思想に関する重要な体験をしています。 一つは、第二回のときにふれておきましたが、「ひじ、外に曲がらず」の大悟ですが、もう一つの重要な宗教体験を得ています。

 仏教、禅宗の人は、しばしば「四弘誓願」を唱えるのですが「なぜ初めに「衆生無辺誓願度」があるのかについての得心です。」(p77)

 竹村氏は、大拙のこの省悟について、こう述べている。

 「この「真誠の安心は衆生誓願度に安心するに在り」の省悟は、私としては、むしろ「ひじ、外に曲がらず」の悟道をさらに上回る、根源的な宗教体験であったと思うのです。以来、大拙はその生涯を、ひたすらこの願行に生きたといってよいでしょう。ここに真の宗教者としての大拙が誕生したと言うべきかと思います。」

 大拙の悟りは深まっていく。これは東洋の日本や中国に文献があるが、西洋の人は知らない。漢語の文献の英語訳をすれば、西洋の人も救われる。大乗仏教経典の英訳と啓蒙のための著作の事業の重要さを感じる。

 「大拙は『大乗起信論』の英訳の次に、自分で大乗仏教の概論を著そうと考え、実行します。」(p81)

 全く初めてのことで「辛苦の結果」、1907年『大乗仏教概論』を刊行した。

 西洋の人々が、大乗仏教について知ることができる世界初の著作となったが、大拙の学問上の弟子であった秋月龍a(元花園大学名誉教授、竹村牧男氏の師)は、こう述べている。

 「この後の欧米の学者が仏教を研究しようとするときに、かならずひもとく英文大乗仏教 第一の書、いな、ほとんど唯一の書として、長く西欧の仏教研究史上に古典的名著となったものである。・・・」(p83)

 なにしろ、初めてのことで、批判も多かったという。その後、大拙は研究思索を重ねて、この書の未熟さを認めたらしく、再刊の求めがあっても許可しなかったという。

 西田幾多郎の『善の研究』がよく読まれているが、その成立について述べている。西田自身も、この著作は未熟であって、宗教の本質をとらえていないことを認めている。したがって、これを西田哲学の真実とは認められない。この後、場所の論理で説明していく。
 大拙は、宗教は、倫理や理性とは違うことをいう。大拙は、ウイリアム・ジェームスの「宗教的経験の諸相」を高く評価していた。しかし、それとも違うという。

 「坂本弘はこのあと、ジェームズと違って、大拙には聖者性の根底にはたらく根源的自覚、霊性的自覚が存在していたのであり、他者の行持や言葉にも常にそれを読み込もうとしていたと、大拙の独自性を指摘しています。」(p92)

 大拙は、1908年、38歳の時、日本に帰った。

「衆生無辺誓願度」は現代こそ実現すべき課題

 鈴木大拙や西田幾多郎が明らかにした人間哲学は、種々の現実の「心理的レベル」でも、「宗教的レベル」でも苦悩の解決に活用できるはずです。それが、「衆生無辺誓願度」でしょう。このような、国民(衆生)の現実の苦悩を救済支援しようという仏教、禅、マインドフルネスは、教える人がいまもなお、いません。大学での講義もありません。だから、日本人も、宗教以前の悩み、たとえば、うつ病、不安症を治す精神療法レベルの苦悩も、カルト宗教で苦しむ家族の「宗教レベルの苦悩」(たとえば、がん患者のターミナルケア)解決にも、学者も宗教者も支援できていない状況です。
 孤独・孤立の問題には、うつ病、社交不安症が治らないために社会に出ていけないひともおられる。仏教、禅の学者も宗教者も支援できることをしていません。つらいひとは、カルトに行く、ひきこもり続ける、耐えきれなくて自殺する。学者、宗教者でさえも、まっとうな批判者を排除する、ハラスメントをする。 大拙の悲願が重要であることがわかります。こういう支援ができない「仏教」って、何なのでしょう。
 「四弘誓願」は、実行、実現することが、大乗仏教の精神なのでしょう。西田は、キリスト教にも同じく、絶対無のレベルがあると結論しました。その具体例が、キリスト教で救われた、星野富弘さんと三浦綾子さんでしょう。仏教には、こういう苦悩を支援するほどのものがないのでしょうか。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/5167

 西田幾多郎、鈴木大拙は、理論・哲学を長年月かけて、現代の問題の解決になることを明らかにしました。これを現実に実践化することが後世の人の課題です。まだ、実現できていません。種々の領域に苦悩があります。孤独・孤立しています。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/5141
【目次】竹村牧男氏によるラジオNHK宗教の時間 〜 「鈴木大拙 願行に生きる」

Posted by MF総研/大田 at 20:15 | 深いマインドフルネス | この記事のURL
鈴木大拙 〜 第3回=釈宗演老師への参禅 ー アメリカ渡航まで [2023年07月10日(Mon)]

第3回=釈宗演老師への参禅 ー アメリカ渡航まで

 竹村牧男氏(東洋大学名誉教授、前学長)によるラジオ放送が4月から始まりました。

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 NHK宗教の時間 毎月第2日曜日、午前8:30−9:00

 テキスト「鈴木大拙 願行に生きる」(上)竹村牧男、NHK出版


 6月11日は、第3回でした。

 大拙は金沢の第4高等学校を退学した後、北条時敬が開催していた禅会で、禅を知った。そこに、毎月1回、国泰寺の雪門老師を招いて、坐禅の指導を受けていた。そこに、鈴木大拙も西田幾多郎も通った。

 大拙は、1891年に上京した。鎌倉の臨済宗、円覚寺の今北洪川に参禅。老師はまもなく死亡したので、大拙は釈宗演の指導を受ける。無字の公案に取り組む。宗演が東慶寺に移ったので、そこで修行を続ける。数年たった時、1896年、見性した。そして、アメリカにわたる。

 一方、西田幾多郎は、金沢の卯辰山の洗心庵にいた雪門老師について、猛烈な坐禅修行をする。雪門が和歌山に行ったため、時々、京都の大徳寺の広州老師のもとに通い、修行。無字の公案を通った。見性を許された。

 後の回に出てくるが、見性は、思想を言葉で理解するようなものではない。我々の意識作用の根源に触れる「体験」である。すべての人間に共通の根源。 西田が後に、絶対無という言語で表現するものの体験。
 最近、無評価で観察するマインドフルネスがブームになったが、「坐禅」なら、それと同じ程度である。それは、何年たっても、見性にはならない。数年たってから、ある体験(見性)が起きたのだから、坐禅や「無評価で観察の瞑想」ではない。それらは、人の根源を体験していない。

 見性の体験のあと、さらに修行を続けて、哲学的な深まりを見せる。第4回で紹介される。

 無評価で観察の瞑想は、静かな場所でする「坐禅」と類似の位置にあり、だれでも、できる。8週間くらいでマスターできる。 見性は、数年も真剣に修行したあとに体験する。宗教的と言われる。30年もかかるひともいるし、それでも体験しないひとが多い。無評価で観察のマインドフルネスには、見性はない。
 すぐに会得する瞑想、坐禅と宗教的な見性との中間にあるのが、マインドフルネス心理療法のうちでも、自己洞察瞑想療法(SIMT)である。宗教以前の種々の苦悩(人間関係や精神疾患など)の改善を目指すマインドフルネスである。多くのひとが、苦悩する領域である。他の精神療法(人認知行動療法など)と同様の領域を扱う観察法である。
 SIMTは、宗教的な問題ではなくて、うつ病や不安症などと同じ領域を扱う精神療法である。アメリカからはまだはいってこない。日本の大学でも病院でも用いられていない。「無評価で観察」する独居時ではなく、家族との対面、職場での対面時の心の観察である。この時に、苦悩が起きて、精神疾患にもなる。こういう対面時の観察手法によって、精神疾患などを治癒し、予防する。

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【目次】竹村牧男氏によるラジオNHK宗教の時間 〜 「鈴木大拙 願行に生きる」

Posted by MF総研/大田 at 20:10 | 深いマインドフルネス | この記事のURL
鈴木大拙「自由」とは [2023年05月14日(Sun)]

第2回=自由への気概 ー 禅に基づく自由論

 竹村牧男氏(東洋大学名誉教授、前学長)によるラジオ放送が4月から始まりました。

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 NHK宗教の時間 毎月第2日曜日、午前8:30−9:00

 テキスト「鈴木大拙 願行に生きる」(上)竹村牧男、NHK出版


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★第1回=大拙の生涯と西田との出会い

 今日は、第2回です。

 「禅による自由」が大拙によって、説かれます。こう生きたいひとが多いでしょうに。

 日本人も多くのひとが「自由」ではありません。一部の集団のトップのみが自由であり、多くのひとが「ハラスメント」により、自由を奪われています。犠牲を払っています。自由に主張すると排除されるので、忖度し「何もしないほうが得」・・・。

 (放送後に、また、おあいします。)

第2回=自由への気概 ー 禅に基づく自由論

 大拙の「自由」とは、大乗仏教者、とくに、深い禅の厳しいものです。

 「自由ということは、欲求的自我の意のままということではなく、より深く、その存在の本性ともいうべき絶対の自己に基づいての、その自己によることだったのです。」(p44)

 欲求にまかせてふるまうようなものではありません。

 そして、社会から超越して自分ひとり満足しているのではありません。静かな山寺にて静かに暮らすありかたではありません。それでは、慈悲の行動がありません。自由は他者との関係にあります。

 「Bそれは自性からはたらく妙用として発揮される、
ようなものなのです。その主体性は、霊性の自覚に基づくべきものなのであり、・・・
その妙用にはたらく主体性は、さらに、
Cそれ故、無功徳・無功用・無報酬の行為となり、
Dおのずから他者への慈悲行三昧となって展開する、
ものでもあるのです。そのような、大乗仏教の菩薩の根源的な主体性こそに、 自由は見出されるべきものなのです」(p50-51)

 一人でいるのでなく、家庭や職場で暮らす人の他者救済実践のはたらきです。他者の苦悩の解決のために働くが、見返りを期待しない、ボランティア的行動です。家庭、職場で、悩むひとのために行動する。無報酬で働く心のありさまです。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/5141
【目次】竹村牧男氏によるラジオNHK宗教の時間 〜 「鈴木大拙 願行に生きる」

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第1回=大拙の生涯と西田との出会い
Posted by MF総研/大田 at 06:44 | 深いマインドフルネス | この記事のURL
(7)末木氏の目指すところとマインドフルネス、仏教、そして学問のすべて [2022年02月25日(Fri)]
★どんな理由であれ、戦争反対。殺人です。

新刊本が印刷中です。3月に発売になります。
『「死」と向き合うためのマインドフルネス実践』

死者と霊性の哲学
(7)末木氏の目指すところとマインドフルネス、仏教、そして学問のすべて

 次の書籍についてみている。
『死者と霊性の哲学』末木文美士、朝日新書

(7)末木氏の目指すところとマインドフルネス、仏教、そして学問のすべて

 本書で、末木氏の研究しておられたことの核心部分を見ました。それをめざして日本の人は、実践したひとがいて、また、哲学的に言葉で表現しようとした人たちがたくさんいたのです。歴史的に長い間研究されて洗練されてきたのです。その思想、哲学と実践をこのブログで考察してきました。

 だから、末木氏が本書で言及したことは、このブログにかなり記述しています。それを関連づけてみます。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4932
★(1)政治の論理に任せると、力がすべてで、相互に敵対する構造の中に投げ込まれる。 それに理想を与え、長期的な希望をもたらすのは、宗教や霊性的な分野の仕事。

 この記事の中でこういう末木氏の言葉を見ました。

政治や科学にすすむべき理想、長期的な希望をもたらす宗教、霊性
 「もし政治の論理に任せると、それはポスト近代的な状況の中で、力がすべてで、相互に敵対する構造の中に投げ込まれるだけである。それに理想を与え、長期的な希望をもたらすのは、宗教や霊性的な分野の仕事である。」(p312)(4932-A)

 「特殊性を考慮しながらも、他者との共存を願い、地球的、宇宙的な視野でものを考えていかなければならない。力で争って滅亡へと向かうのか、それともより広い視座に立って、未来へ向かって希望と理想を取り戻すことができるのか。その選択はすでに待ったなしの状態である。」(p312) (4932-B)

★どんな理由であれ、戦争反対。殺人です。

 政治の論理で国家レベルでの力の行使で、戦争が起きて、多くの人が死にます。
    https://blog.canpan.info/jitou/archive/4893
    (戦争が最も悪質なエゴイズムです。多くの人を殺害します。同じ生命なのに、死ぬ人の無念さ、家族の苦しみを共感できないエゴイズム。そこまで直接の殺人でなくても、大小の組織で、支配欲の強いリーダー、および、忖度迎合して利益をもらう取り巻きたち によって、抑圧され、自由を奪われ、人生を狂わせられるひとがいます。ひどい場合、自殺させています。日本の大小の組織で起きています。)
 (政治や科学に)「理想を与え、長期的な希望をもたらす」とあります。 仏教やマインドフルネスならばそれを学び、実践する意味は何かという時に、理想や長期的な希望といってよいでしょう。

★仏教の長期的な希望も霊性の自内證、利他、自己成長では?

 仏教は大乗仏教ならば、 利他、自内證(根源の霊性を確認)、自己成長が核心であると大竹晋氏が解明しました。 だから、仏教者が戒律を守り、宗教実践(坐禅、念仏、阿字観など)をするのは、どういう方向なのかというと、すべての人間の絶対平等である根源の霊性を確認(それが自内證)して、利他(他者・社会問題の解決の支援)をすることと、自己完成(エゴイズムの抑制)をめざすのです。「利他」は、種々の苦悩をかかえたひとの救済ですが、根源の霊性を確認をしないと利他を十分にできないと大乗仏教はいうのです。だから、根源レベルの霊性を確認せよと大乗仏教は主張したわけです。このような共通な根源を基礎にしないと、表面的な違いで、我こそが正しいと争うからです。

 そして、自内證、利他、自己成長の、実際の実践、実際の臨床がないのです。檀家信者が苦悩するのに具体的な利他のアドバイスもなく、苦しみ続け、自殺もされます。

 人間は、自分の心の闇、自利、自己中心的な基準、エゴイズムで不快な感情を起こして、他者を排除、抑圧、ハラスメントなどの行為を行うから、それに気づき抑制していくことが「自己完成」でしょう。大学の学者でもアカデミック・ハラスメントをしたり、家族に暴力を振るうひとがいるではありませんか。大乗仏教は、そうしたエゴイズムの抑制や、「これが核心だ」と定義づけて満足して、苦しむひとがいるのに、利他や自己成長をやめてしまうことを戒めて、自己成長と利他の研究実践を生涯続けることを「自己成長」としているのでしょう。

★「マインドフルネス」も浅いところにとどまると社会貢献が限定される

 「マインドフルネス」ならば、ジョン・カバットジンがいうことの中で、 「全体性」がこの根源の霊性に該当するでしょう。彼の「マインドフルネス」は、「全体性への扉」といっているのですから、その扉をあけてみる中身が、理想の方向にあるもの「全体性」などしょう。だから、ジョン・カバットジンの「マインドフルネス」は、全体性への方向を向くものであるべきはずです。実際、深い霊性にあたるところに言及しているように見えるのが、テク・ナット・ハンやハリファックスです。彼らも「マインドフルネス」だと言っています。瞑想時、無評価でないところまで含む「マインドフルネス」です。

 自己他者を苦しめる心理を、仏教では煩悩といいますが、エゴイズム(ハラスメントもそうである)の心の探求(=自己成長にあたる)を大乗仏教はいうはずです。諸々の苦悩、問題を解決できるかもしれない根本的な、深い霊性の方向を「理想」とするならば、「瞑想」「無評価」「坐禅」に留まることはできないでしょう。

 だから、 ジョン・カバットジンのMBSRの7つの態度から一つだけの「無評価」だけにすると、「自己成長」にあたる、エゴイズムの抑制などの他の6つを捨てたことになり、「理想」の方向がわからなくなりませんか。自己とは何かということを、根源の霊性を基礎にするところまで、大乗仏教は探求したのですが、MBSRはそこまでは記述しないで、扉の中に、深い「全体性」があるとだけ述べているわけです。「自己」ということをも観察としたACTは、別の「自己」の哲学を取り入れて「文脈としての自己」といっています。

 末木氏は、世界に発信できるほどの哲学が日本にある、それを長い間探求してきた仏教の歴史と伝統にあるというのですね。 このように、仏教も「マインドフルネス」も、末木氏が紹介したような根源の霊性の方向を向いたほうが、もっと深い「理想」「長期的な希望」の途上になるはずでしょう。人々の苦悩や社会問題は無限にあるはずですから、専門家、学者を自認する人々が自己満足にとどまって、問題があるのを見て見ぬふりするはずがないではありませんか。

 末木氏の業績が広く知られて、社会全体が大学の学問がその方向に動いていくことを切に祈ります。

 無評価ではない観察のマインドフルネスによって、ある程度、慢性化したうつ病のひとが完治しています。自殺しないですむひとがいるのです。お願いですから、現場を知らない人が妨害しないでください。(下記注)
 そして、薬物療法で治らないうつ病のひとを治すことができる精神療法を(SIMTでなくてもいいですから)研究して、そのカウンセラーを、うつ病の多い地区に派遣してください。地方創生SDGsのターゲット3.4は世界に実行することを表明しているのですから、可能性のあることを国をあげて対策をとってください。
 精神医学関連の学会も精神療法を併用する仕組みを国と協議していただきたいです。


(注)学者が現場での新しい動きを邪魔

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4442
 研究室やグループの大将でありつづけて大学人が安全地帯から「あんたのものはここでは無用だ」という。
 「私が最も嫌悪するのは、生の安全で怠惰な継続が保証された環境において何にも 真剣に向き合わずヘラヘラと笑い、そうした安全地帯から、何かに必死で向き合うひ とを「お気の毒に」と嘲笑するひとびとである(とはいえ私は、そうした生き方をし ていることそれ自体が彼らあるいは彼女らに対する最大の「罰」だ、とも考えている のだが)。」(p267)

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4924
★大学におけるハラスメント 〜 閉鎖的な構造、対策は進まず
 それにより現場で起きている社会問題の解決が遅れる

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3928
★村木厚子さん
 学者の従来説、多数説にはまらないことが現場で起きている。まず、解決への行動をするのは現場を知るNPOだ。自分を批判する動きであろうと現場を知らない学者が邪魔をしないで欲しい。

【関連記事】

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★地方創生SDGs4(質の高い教育をみんなに)

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★深い仏教、禅、哲学、自己観察(マインドフルネス)が教育されていない、知らされていない

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4448
★日本にあるものを見ないで、外からの輸入ばかり

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4013
★志向するのは末木氏のご指摘のとおりであると思うが実現するのは大変難しい。 実現に向けて声をあげて動いていく若者がおられるのだろうか。今、指導的位置に立つ人たちは、現在の自分に満足しています。力を持っています。自分をゆるがすような動きを寛大な目で後援してくれません。アカデミック・ハラスメント(2月21日朝日新聞社説「人権侵し研究を阻む罪」)があります。
 一体、どのような人たちが深い霊性に基礎をおく行動をしていくのでしょうか。今のままではいけないと思う若手に、末木氏の声が届いているのでしょうか。
  地方創生SDGs4も「質の高い教育をみんなに」であるが、何を教育するかの決定の力を持つひとが自分の説を批判するものを教育するとは考えにくい。
 そして、届いていても、動けるのでしょうか。どうしたらいいのでしょうか。見て見ぬふり、知っても動けない。

【参考】
https://blog.canpan.info/jitou/archive/2787
★学者も独断の叡智的自己のエゴイストになりやすい、至誠の叡智的自己であれ、と仏教は教えているが。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3577
★ここに多数派説と少数説の例(少数説は現代にも貢献できる可能性があるが、ほとんど教えられない)

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3939
★(少数派)大乗仏教にあったもの・現代にもなお当てはまる=人間完成・利他=他害しないことも

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3159
★マインドフルネスには危険なことも
 MBSRは浅いとジョン・カバットジン氏がいうのに、それを超えた自己観察や、宗教的な深い観察を排除するのも危険なことであろう。共生の流れにそむくのではないだろうか。たとえば、発語や暴力行為、ハラスメント行為は、行為者自身に聞こえる見える。それを観察して(無評価ではなくて)ハラスメント行為や虐待であり、良くないと評価判断するような観察(=マインドフルネス)も、公益となり重要な領域であるから学問的に研究開発すべきでないだろうか。そして、さらに、末木氏が指摘されたように、日本には仏教や哲学があるのに、大学で深いものが教育されていないものがあり、その視点から従来、定説と言われたものをとらえ直すべきものがあるのではないか。学問的な検討を切に望みたい。

死者と霊性の哲学
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Posted by MF総研/大田 at 17:34 | 深いマインドフルネス | この記事のURL
世界観・人間観の哲学を確立して自分の力で考え信念を貫いて行動すること [2022年02月24日(Thu)]
新刊本が印刷中です。3月に発売になります。
『「死」と向き合うためのマインドフルネス実践』

死者と霊性の哲学(6)世界観・人間観の哲学を確立して自分の力で考え信念を貫いて行動すること

 次の書籍についてみている。
『死者と霊性の哲学』末木文美士、朝日新書

(6)世界観・人間観の哲学を確立して自分の力で考え信念を貫いて行動すること

 本書は、世界や自己の探求の歴史を紹介している。世界観や自己観についての深い哲学が、海外の「神智学」、および、日本の哲学に期待できるものがあるという。

 それなのに、欧米のものだけを輸入して、欧米の名前を出して自分の権威づけをしようということはもうやめようという。日本にあるのだから日本のものを捉え直して、自分の力で考え、信念を貫いて行動していこう(p319)、アメリカなどのものを基準にして、議論しないという態度をやめて、十分議論し自分の哲学を確立していくことを求めている。
 これが本書の最後の結論である。

 「何でも強者の後ろに付いて歩くことで、自分も威張れると思う「森の石松症候群」はもうやめようではないか。自分の力で考え、信念を貫いて行動することこそ、大事ではないか。そのためにも自己の世界観・人間観を十分に反省し、議論し、「哲学」をしっかり確立していくことは不可欠である。」(p319)

 「世界観」は、哲学の認識論であろう。対象的世界をどう観るかであり、無評価ではありえない。自分の価値の世界(叡智的世界)を高く評価し批判されることを嫌悪の評価をする。しかし、共生していかねばならない。
 「人間観」は、実在論に通じるであろう。自己とはどういうものであるか。浅い段階の自己から霊性に基づく人格的自己まである。ここに霊性の哲学が関係する。
 ところが仏教(*)やマインドフルネスには、この問題には全く応えられない解釈が多く、末木氏が紹介されたような深いものを学ぶことができる機会が少ない。SDGs4の課題である。マインドフルネスでいう自己(文脈としての自己など)を超えたものが日本の霊性の哲学にある。
    (*)霊性を言わない現在の多数の仏教解釈のこと(70年も前に西田が指摘)。自己成長、利他、根源の自内證が弱い仏教解釈。大竹晋氏が指摘した)
 また、「自分の力で考え、信念を貫いて行動すること」は、哲学の実践論、生き方に通じるが、仏教(深い霊性を言わない解釈の)やマインドフルネスは応えてくれないが、日本の哲学(末木氏が紹介したように多くの哲学者が探求してきた)に学ぶことができる。西田哲学では、「実践哲学序論」の論文がある。(これを具体化した一例がマインドフルネスSIMTである。霊性のレベルが3月刊行の著書である。これはほんの一部である。多くの人が他の領域の深い人間洞察=マインドフルネスを研究開発してほしい。)。
 末木氏はさらにこういう。

  「大国でも先進国でもなくてよい。物質的な幸福ではなく、人々が心の幸福に満たされた国こそあるべき国の姿ではないだろうか。長い歴史と伝統を踏まえながら、心の中に平和のとりでを築き、心の中に幸福の花を咲かせられる国、それこそが日本が目指す理想ではないだろうか。」(p319)

 「心の幸福」と言われているが、「幸福」の哲学(*)もいくつか見たが、瞑想の局面だけでなくやはり人生のすべてで幸福を感じるのであり、日本の霊性の哲学も参照できるだろう。
 仏教もマインドフルネスも、書籍でも大学でも、欧米の人のもので霊性的なレベルのものが紹介されているのに、日本のものが目立たないのは寂しい。仏教もマインドフルネス学も、日本のものがあるのだからそれを発掘し生かしてほしい。  自説を超えるものであるように見えるだろうから、実現は難しいが、これを指摘してくださる学者がおられたことは実にありがたい。実践者は指摘していたが、言葉での表現が難しくてあまり伝わってこなかった。少しずつ実現していってほしい。いい未来を作ってほしい。

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★地方創生SDGs4(質の高い教育をみんなに)

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★深い仏教、禅、哲学、自己観察(マインドフルネス)が教育されていない、知らされていない

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★志向するのは末木氏のご指摘のとおりであると思うが実現するのは大変難しい。 実現に向けて声をあげて動いていく若者がおられるのだろうか。今、指導的位置に立つ人たちは、現在の自分に満足しています。力を持っています。自分をゆるがすような動きを寛大な目で後援してくれません。アカデミック・ハラスメント(2月21日朝日新聞社説「人権侵し研究を阻む罪」)があります。
 一体、どのような人たちが深い霊性に基礎をおく行動をしていくのでしょうか。今のままではいけないと思う若手に、末木氏の声が届いているのでしょうか。
  地方創生SDGs4も「質の高い教育をみんなに」であるが、何を教育するかの決定の力を持つひとが自分の説を批判するものを教育するとは考えにくい。
 そして、届いていても、動けるのでしょうか。どうしたらいいのでしょうか。見て見ぬふり、知っても動けない。

【参考】
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★学者も独断の叡智的自己のエゴイストになりやすい、至誠の叡智的自己であれ、と仏教は教えているが。

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★ここに多数派説と少数説の例(少数説は現代にも貢献できる可能性があるが、ほとんど教えられない)

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★(少数派)大乗仏教にあったもの・現代にもなお当てはまる=人間完成・利他=他害しないことも

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★マインドフルネスには危険なことも
 MBSRは浅いとジョン・カバットジン氏がいうのに、それを超えた自己観察や、宗教的な深い観察を排除するのも危険なことであろう。共生の流れにそむくのではないだろうか。たとえば、発語や暴力行為、ハラスメント行為は、行為者自身に聞こえる見える。それを観察して(無評価ではなくて)ハラスメント行為や虐待であり、良くないと評価判断するような観察(=マインドフルネス)も、公益となり重要な領域であるから学問的に研究開発すべきでないだろうか。そして、さらに、末木氏が指摘されたように、日本には仏教や哲学があるのに、大学で深いものが教育されていないものがあり、その視点から従来、定説と言われたものをとらえ直すべきものがあるのではないか。学問的な検討を切に望みたい。

死者と霊性の哲学
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Posted by MF総研/大田 at 08:11 | 深いマインドフルネス | この記事のURL
(5)神智学も大乗仏教や西田哲学のように根源の探求 [2022年02月23日(Wed)]
新刊本が印刷中です。3月に発売になります。
『「死」と向き合うためのマインドフルネス実践』

死者と霊性の哲学(5)神智学も大乗仏教や西田哲学のように根源の探求

 次の書籍についてみている。
『死者と霊性の哲学』末木文美士、朝日新書

(5)世界や自己の共通の根源を探求する神智学

 本書は、世界や自己の探求の歴史を紹介している。  海外の「神智学」、および、日本の哲学に期待できるものがあるというが、「神智学」とは、どういう哲学であるのか。

 様々な集団がある。人は他者と関係しながら生きていく。そこに倫理、ルール、がなければ、無秩序の混乱に陥るであろう(p260)。
 「他者はどのように現れてくるか分からない。善意であるか、悪意であるか、天使であるか、悪魔であるか。・・・ 何が善で、何が悪であるかを決める原則自体が一義的に決定できないので、異なった原則のシステムが複数拮抗することになる。」(p260)

 「他者の問題が個対個の問題に限られず、そこに集団の問題が関わってくることである。その集団も、家族レベルから次第に規模を拡大し、国家や民族の問題になると、きわめて厄介な事態が大規模に生じる危険が大きくなる。・・・
暴力は過激化し、しばしば残忍な結果が引き起こされる。」(p261)

 「集団の倫理は、個人の倫理以上に複雑な要因が絡み、単一の倫理では測りきれない。 あるいはそもそも、そこに普遍的に成り立つ倫理的な原理があり得るのかどうかさえ問題とされることになる。単純に国家を単位とすることはきわめて危険である。」(p262)

 国家、民族、宗教、哲学などが行動原理、倫理的な原理を問題とする。「神智学」は、そういうものに共通するものはないのか、解明しようとした。

 「諸宗教が根本において一致するという捉え方は、十分に値するように思われる。それも単なる表面上の一致ではなく、もっと深く潜在的レベルまで沈潜した時に、いずれの宗教にも共通する根源的なものが露わになるというのである。だからこそ、それは「顕教」ではなく、「秘教」なのである。」(p147)

 「その根本は、宗教の表面的な「顕教」の相違に捉われずに、それらの本質に当たる「秘教」を掘り下げることで、あらゆる宗教や哲学に共通する霊性の真実を解明するところにあった。」(p263)

 「神智学がすべての宗教の根底を掘り下げていくことを目指し、その根底に共通する構造を見出そうとしたことも事実であり、その普遍性の志向を無視するのは適当でない。 西田幾多郎や井筒俊彦などの哲学者も、同じように諸宗教の根本の普遍構造を取り出そうと苦闘しており、そのような努力が無意味とは思われない。本書も不十分ながら、その志向を受け継いでいることは、前章までお読みいただければ分かっていただけるであろう。」(p269)

 「神智学」も一枚岩ではなくて、対立分裂を繰り返した(p286)。神智学はインドを中心にかなり広い支持を集めた(p284)。

 「霊性のあり方はそれぞれの文化、民族で大きく異なる。日本には日本なりの霊性的な活動が連綿と続いてきたことは、本書でこれまで論じてきた」とおり」である。それを封ずるのではなく、それを生かすところにこれからの日本のあるべき方向があるのではないだろうか。」(p287)

 こうして末木氏は、西田、鈴木、井筒のほか、内村鑑三、矢内原忠雄、武者小路実篤、有島武郎などを紹介している。

 欧米の「マインドフルネス」には、自己の観察、自己とは何かのごく初歩の段階が活用されている。 ハラスメント、エゴイズムの観察が不十分である。 仏教は、自己洞察実践の長い歴史があるが、末木氏がいうような根源的なものを探求してきたのだから、「宗教を排除」したものがよいように聞こえる言い方はやめるべきだろう。宗教の自己洞察実践のなかから、現代の問題の解決のヒントになるものが含まれている。さらにその先が霊性の領域になるので、宗教の禅、さらに共通の根源を生かした「深いマインドフルネス」は、日本にあるものを検討することで開発できそうな予測が働かないだろうか。日本の仏教や哲学を活かしたいものである。

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★志向するのは末木氏のご指摘のとおりであると思うが実現するのは大変難しい。 実現に向けて声をあげて動いていく若者がおられるのだろうか。今、指導的位置に立つ人たちは、現在の自分に満足しています。一体、どのような人たちが深い霊性に基礎をおく行動をしていくのでしょうか。今のままではいけないと思う若手に、末木氏の声が届いているのでしょうか。そして、届いていても、動けるのでしょうか。どうしたらいいのでしょうか。見て見ぬふり、知っても動けない社会。

【参考】
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★学者も独断の叡智的自己のエゴイストになりやすい、至誠の叡智的自己であれ、と仏教は教えているが。

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★ここに多数派説と少数説の例(少数説は現代にも貢献できる可能性があるが、ほとんど教えられない)

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★日本にあるものを見ないで、外からの輸入ばかり

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★(少数派)大乗仏教にあったもの・現代にもなお当てはまる=人間完成・利他=他害しないことも

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★マインドフルネスには危険なことも
 MBSRは浅いとジョン・カバットジン氏がいうのに、それを超えた自己観察や、宗教的な深い観察を排除するのも危険なことであろう。共生の流れにそむくのではないだろうか。たとえば、発語や暴力行為、ハラスメント行為は、行為者自身に聞こえる見える。それを観察して(無評価ではなくて)ハラスメント行為や虐待であり、良くないと評価判断するような観察(=マインドフルネス)も、公益となり重要な領域であるから学問的に研究開発すべきでないだろうか。そして、さらに、末木氏が指摘されたように、日本には仏教や哲学があるのに、大学で深いものが教育されていないものがあり、その視点から従来、定説と言われたものをとらえ直すべきものがあるのではないか。学問的な検討を切に望みたい。

(続く)

死者と霊性の哲学
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Posted by MF総研/大田 at 07:57 | 深いマインドフルネス | この記事のURL
死者と霊性の哲学(4)同化、排除でなく相互理解、共存共生 [2022年02月22日(Tue)]
新刊本が印刷中です。3月に発売になります。
『「死」と向き合うためのマインドフルネス実践』

死者と霊性の哲学(4)同化、排除でなく相互理解、共存共生

 次の書籍についてみている。
『死者と霊性の哲学』末木文美士、朝日新書

(4)同化、排除でなく相互理解、共存共生

 本書は、世界や自己の探求の歴史を紹介している。従来は、「仏教」が探求してきた テーマである。

 著者の末木氏は、日本の哲学の中にも、世界的、普遍的として、世界に発信できるものがあるという。

 海外の「神智学」、および、日本の哲学に期待できるものがあるという。本書の終わり近くにこういうことが言われる。

 同化、排除でないこと(p318)、相互理解(p318)、地球的、共存(p312)であるべき。
 「何でも強者の後ろに付いて歩くことで、自分も威張れると思う「森の石松症候群」はもうやめようではないか」(p319)
 外国への追随だけはやめよう、自分の力で考え、信念を貫いて行動すること(p319)、十分議論し「哲学」を確立していくこと(p319)など。いくつか詳細に紹介する。

★同化、排除でなく相互理解、共存共生
 「さまざまに相違する世界観・人間観を重ね合わせることで、他者を単純に同化したり排除したりするのではなく、相違を認めながら、相互理解を深めていく道を探ることができるのではないか。 それは、近代的な普遍の中にすべての相違を解消してしまうのとも異なり、かといって、ポスト近代的に他者を排除した優越を力で確立しようというのとも異なる。自己認識が他者理解に通ずる道を切り開いていくのである。」(p318)

 そう、このことは、西田哲学、鈴木禅哲学でも指摘されていた。だがら、このような方針で、これに違反するようなことをしていないか、自己の見方考え、発語行為を「評価*」観察して対人関係、仕事をしていくのが、日本の「マインドフルネス」であると、3月刊行の本でも、がん患者に、似た生き方を提案している。
    (*)たとえば、こう考えた、こう発言しようとしている、こう行為しよとしているが、差別でないか、ハラスメントではないか、倫理に反していないか、など評価判断すべきなのだ。対人関係では評価は常識である。ポージェスのポリヴェーガル理論でも指摘された。
 そして、実は、これはすべての人が実践すべきなのである。「マインドフルネス」でも無評価ではない、瞑想時だけではなく対人場面での「マインドフルネス」である。 日本では、古くから西田、鈴木などが教示したのだが、広くは知られていない。 末木氏は、仏教にこういう崇高な、現代こそ活かされるべきはずの精神が、仏教にあるというのだが、多くの人がそういうことを大学で学ぶことがないのではないか。多くの人が、おそらく、初期仏教の縁起(*)とか道元はただ坐禅するだけだという仏教が教えられるだろう。仏教に、「同化、排除でなく相互理解、共存共生」の崇高な精神があるということは教えられていないのではないか。こういう重要なことが、 大学でさえも実行されていない。アカデミック・ハラスメントが多い。末木氏の提案も似ているから、「神智学や仏教」にある崇高な精神の実現は大学でさえもとても困難だろう。
(*) 初期仏教の縁起説は大乗仏教から否定された。大乗仏教や現代の日本哲学が尊重する霊性がない。

 大学や種々のコミュニティでも、批判者、少数派を力で排除することが起きているように見える。仏教、哲学にある崇高な指針が、大学の中にさえも実現していないのではないのか。アカデミック・ハラスメント、弱い立場の人の排除、そういうことが広くおきているのではないか。そうだとしたら、リーダーシップをとっていることを期待される大学がそうであれば、他の国民は、どこから末木氏が提案していることを学ぶことができるのか。教師の解釈だけが教えられることが多い大学教育だが、地方創生SDGsのゴール4(質の高い教育をみんなに)をどのように実現するのか。

 何でも、そうだが、問題点の分析はまだやさしい。その問題解決は、何千倍も難しいのだ。 問題分析はやさしいが解決実現は難しいというのはどこかで読んだ言葉だ。(どこだったか、思い出したら紹介します)。 アカハラはいけない、といってもなくならない。画一主義、還元主義、全体主義の学問はいけない(フランクル)というのに、繰り返される。SDGsの各種のゴールの実現も非常に難しい。
 うつ病、依存症、PTSDなどが治らずに、何十年もひきこもりが続く、治らず追い込まれて自殺していくひとがいる。 心理慮法を併用すればいいというのはわかっているが、実現しない。問題解決は実に困難である。

(編集中です)



【参考】
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★学者も独断の叡智的自己のエゴイストになりやすい、至誠の叡智的自己であれ、と仏教は教えているが。

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★ここに多数派説と少数説の例(少数説は現代にも貢献できる可能性があるが、ほとんど教えられない)

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★マインドフルネスには危険なことも
 MBSRは浅いとジョン・カバットジン氏がいうのに、それを超えた自己観察や、宗教的な深い観察を排除するのも危険なことであろう。共生の流れにそむくのではないだろうか。たとえば、発語や暴力行為、ハラスメント行為は、行為者自身に聞こえる見える。それを観察して(無評価ではなくて)ハラスメント行為や虐待であり、良くないと評価判断するような観察(=マインドフルネス)も、公益となり重要な領域であるから学問的に研究開発すべきでないだろうか。そして、さらに、末木氏が指摘されたように、日本には仏教や哲学があるのに、大学で深いものが教育されていないものがあり、その視点から従来、定説と言われたものをとらえ直すべきものがあるのではないか。学問的な検討を切に望みたい。

(続く)

死者と霊性の哲学
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Posted by MF総研/大田 at 06:54 | 深いマインドフルネス | この記事のURL
死者と霊性の哲学(3) [2022年02月21日(Mon)]
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死者と霊性の哲学(3)

 次の書籍についてみている。
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(3)哲学とは、霊性とは。海外の「神智学」や日本の哲学にみるべきものが

 本書は、世界や自己の探求の歴史を紹介している。従来は、「仏教」が探求してきた テーマである。

 著者の末木氏は、日本の哲学の中にも、世界的、普遍的として、世界に発信できるものがあるという。

 「哲学」とは何か、「霊性」とは何か。なぜ、日本仏教、日本哲学がこれからの世界に重要な意味を持つのか。

◆哲学とは
 「もし「哲学」をあえて定義するとすれば、世界観・人間観を、行為や実践のレベルから知のレベルに投影し、反省し、理解しようとする営み、とでもいうことができようか。そう捉えることが許されるならば、日本の伝統思想もまた、哲学の枠組みの中で新しい目で見直し、活用することも可能となるのではないだろうか。死者や神仏の明代は、日本の伝統の中で親しまれてきた。それを哲学として捉え直すことで、きわめて特殊な日本的な発想と思われていたものが、かえって従来 普遍的と思われてきた「哲学」を反省し、捉え直す手掛かりとなるのである。」(p317)

 「さまざまに相違する世界観・人間観を重ね合わせることで、他者を単純に同化したり排除したりするのではなく、相違を認めながら、相互理解を深めていく道を探ることができるのではないか。」(p318)

◆霊性とは
 「霊性」とは、人間とか世界とか宗教の共通の根源ということについての哲学的な見方であり、哲学的に議論、記述できる領域であろう。 末木氏は多くのページを割いているのだが、短い文を引用するとすれば。
 「仏教的に言えば、法身、法界などと呼ばれる領域に相当するであろう。瞑想の中で入りこんで いく世界であり、それを奥深くまで探求していくことが可能な世界である。そのような領域をひとまず「霊性」の領域と呼ぶことにしたい。」(p123)

 仏教の最も深化した華厳経では「事事無礙法界」というものだろう。真言宗は曼陀羅でそれを表現しているだろう。フランクルが「一人類教」といった、すべての宗教を超えた共通の根源(対象的な共通点ではない)、これらを哲学的に表現しようとしてきたひとたちが日本には多かった。西田幾多郎、鈴木大拙、井筒俊彦などの業績を本書で紹介している。また、竹村牧男氏の著書『唯識・華厳・空海・西田』が詳しい。海外では「神智学」の人たちが、表現しようとしてきたと末木氏が本書で紹介している。
 日本にもすぐれた哲学があるのだから、輸入ばかりではなくて、日本のものを捉え直すべきだと末木氏は言っていると思われる。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4512
★参考までに、稲垣氏も、日本の哲学に深いものがあると認めている。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4448
★日本にあるものを見ないで、外からの輸入ばかり

【参考】
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★マインドフルネスには危険なことも
 MBSRは浅いとジョン・カバットジン氏がいうのに、それを超えた自己観察や、宗教的な深い観察を排除するのも危険なことであろう。共生の流れにそむくのではないだろうか。たとえば、発語や暴力行為、ハラスメント行為は、行為者自身に聞こえる見える。それを観察して(無評価ではなくて)ハラスメント行為や虐待であり、良くないと評価判断するような観察(=マインドフルネス)も、公益となり重要な領域であるから学問的に研究開発すべきでないだろうか。そして、さらに、末木氏が指摘されたように、日本には仏教や哲学があるのに、大学で深いものが教育されていないものがあり、その視点から従来、定説と言われたものをとらえ直すべきものがあるのではないか。学問的な検討を切に望みたい。

(続く)

死者と霊性の哲学
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Posted by MF総研/大田 at 08:04 | 深いマインドフルネス | この記事のURL
死者と霊性の哲学(2) [2022年02月20日(Sun)]
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死者と霊性の哲学(2)

(2)日本の伝統思想も新しい目で見直し、活用することも可能となる

 次の書籍についてみている。
『死者と霊性の哲学』末木文美士、朝日新書

 本書は、世界や自己の探求の歴史を紹介している。従来は、「仏教」が探求してきた テーマである。最近では、「マインドフルネス」のACT、弁証法的行動療法でも自己はこういうものだということを記述している。だが、それだけでいいのだろうか。
 そういうテーマは仏教や日本の哲学が深く探求してきた。そして、本書では、欧米で「神智学」という人たちによって、研究されてきたという。日本には、仏教の中に、深い哲学があることを研究してきた人たちを概観している。

 著者の末木氏は、日本の哲学の中にも、世界的、普遍的として、世界に発信できるものがあるという。

 「近年、日本哲学が海外でも次第にまじめに考えられるようになってきた。もちろん京都学派のように、西洋の哲学を受容して形成された近代日本の哲学であれば、それを「日本哲学」と呼んでも問題ない。・・・
今日では、「哲学」の概念を拡張することで、伝統的な日本思想をも含めて「日本哲学」として捉えようとする傾向が強くなっている。」(p316)

 「日本の伝統思想もまた、哲学の枠組みの中で新しい目で見直し、活用することも可能となるのではないだろうか。死者や神仏の問題は、日本の伝統の中で親しまれてきた。それを哲学として捉え直すことで、きわめて特殊な日本的な発想と思われていたものが、かえって従来普遍的と思われてきた「哲学」を反省し、捉え直す手掛かりとなるであろう。」(p317)

 このように、自己の探求は、日本仏教に深いものがあるのに、「マインドフルネス」の解釈が仏教とかけ離れたものであったり、日本の仏教や哲学を手掛かりにしたものを排除することがあってよいのだろうか。末木氏がいうように、日本の仏教、哲学はすぐれたものが含まれているのだ。「宗教を排除した」という命題には、昔からの繰り返される、知らずに犯す偏見のにおいがしないだろうか。そういう態度が、ずっと続く伝統説の多数派説の弱点をカバーしたい新説、少数説を排除して社会問題の解決を妨害することになることに気づかないことが持続することになってしまう。

 哲学者から見れば、日本にはすぐれたものがあるのに、「マインドフルネス」が学問なのであれば、欧米のものだけがよしとか、議論無用とするのではなくて、従来の学問がカバーできていないところで苦しむ問題の解決という公益のために学問的な議論を深めてほしい、日本の仏教、哲学も参照して、すぐれたものにしていってほしい。

【参考】
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★マインドフルネスには危険なことも
 MBSRは浅いとジョン・カバットジン氏がいうのに、それを超えた自己観察や、宗教的な深い観察を排除するのも危険なことであろう。共生の流れにそむくのではないだろうか。たとえば、発語や暴力行為、ハラスメント行為は、行為者自身に聞こえる見える。それを観察して(無評価ではなくて)ハラスメント行為や虐待であり、良くないと評価判断するような観察(=マインドフルネス)も、公益となり重要な領域であるから学問的に研究開発すべきでないだろうか。そして、さらに、末木氏が指摘されたように、日本には仏教や哲学があるのに、大学で深いものが教育されていないものがあり、その視点から従来、定説と言われたものをとらえ直すべきものがあるのではないか。学問的な検討を切に望みたい。

(続く)

死者と霊性の哲学
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Posted by MF総研/大田 at 20:27 | 深いマインドフルネス | この記事のURL
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