フランクルの第4回 人生という「砂時計」 [2026年01月25日(Sun)]
ヴィクトール・フランクル
〜それでも人生には意味がある
第4回 人生という「砂時計」
〜(その1)過去は保存されている
「今、ここ」しかないという哲学との関係は?
テレビ放送の4回目がありました。フランクルと後期西田哲学の類似性(それは、SIMTとの類似性になります)を見ています。
「過去は永遠に保管される」という項で、解説の勝田芽生氏は、この4回では、「フランクルの独特の死生観が見られます。」(注1,p87)といいます。西田哲学から見れば、似たことをいいますので、フランクルの独特ではないかもしれません。ただし、「死生観」ではないかもしれません。
「亡くなった人は、残された人の心の中で生き続ける」という話は、よく見聞きするでしょう。しかし、フランクルは、亡くなった人の過去は、残された人の記憶とは「まったく関係なく存在している」と言うのです。ここに、
フランクルの独特の死生観が見られます。」(注1,p87)
「保存された「過去」には、私たちの学歴や仕事の業績、あらゆる出来事だけではなく、人を心から愛しんだ体験や、耐えがたいほどの苦痛など、すべての「過去」が書き込まれていきます。そして、死を迎えるときに初めてこの記録が完結するとフランクは言います。私たち一人ひとりの人生そのものが、大きな記録の中に取り込まれ、大切に保管されるというのです。」(注1,p89)
これは、「「喪の哀しみ」を生きる力に変える」(注1,p83)力があるでしょう。愛する人を失った悲しみによる「うつ病」のような苦悩を癒してくれるでしょう。
しかし、「つらい過去記憶」がフラッシバックして苦しむPTSD(心的外傷後ストレス障害)や残酷な犯罪の被害の記憶で苦しむひとに、このエピソードを誤解させるような説明をしてさらに苦しみを深めることにならないように注意しなければなりません。フランクルは精神療法者ですので、クライエントの精神疾患が何であるかによって、用いる手法が違ってくるでしょう。
(次の記事に続く)
(注1)NHKこころの時代 テキスト 『ヴィクトール・フランクル 〜それでも人生には意味がある』勝田芽生、NHK出版
(注5)フランクル『人間とは何か』山田邦男監訳、春秋社
https://blog.canpan.info/jitou/archive/5750
【目次】ヴィクトール・フランクルと後期西田哲学の実践論
〜それでも人生には意味がある
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過去は保存されている [2013年10月23日(Wed)]
過去は保存されている
=フランクルと西田幾多郎
ロゴセラピーを開発したオーストリアの精神科医で、その著作が
東日本大震災の被災地でもよく読まれているという、ヴィクトール・フランクル。
次の記事で、フランクルと西田幾多郎の哲学は似ているといいました。
通常は、現在から現在へと移りゆき、過去はない、というのが東洋的な哲学なのでしょうが、
「過去の実在」ということも言われます。フランクルも西田幾多郎も言っています。
過去がつらいとか、トラウマに苦しむ人は、「過去はない」ということが、解決のてがかりになります。
一方、まさに死に行くひとが、「死んだら全く無に帰すのは怖い、つらい」という人には、「いいえ、あなた
が生きたことは決してなくならない、この世界に保存される。」ということもフランクルはいいます。このことで苦悩から解放されるの
でしょう。同じようなことを西田幾多郎もいいます。
よく理解して、クライエントに応じて、援助しなければならないのでしょう。
昭和20年ころの、フランクルまで、マインドフルネスの要素があるといえるのでしょうか。
まず、フランクルの言葉です。
「過ぎ去ったものは過去の領域に「留まっている」のであり、過ぎ去ったにもかかわらず、ではなく、ま
さに過ぎ去ったがゆえに「留まっている」のである。・・・・
もし現在が蔵する可能性が過去の中で「永遠に」蔵される現実へと移されるならば、そのとき、瞬間は
永遠になるのである。これが、およそ何かを実現するということの意味に他ならない。・・・
実現されたものは、たとえそれが忘れられようとも、それどころか思いだされる可能性がーーーそれを
覚えている人間の死によってーーー完全になくなったとしても、実際に無に帰することは本来的にあ
りえない、ということが主張されうるのである。」(『人間とは何か』ヴィクトール・フランクル、春秋社、
163頁
個人が生きたということ、創造、体験したことは決してなくならない、世界に保存されているというのです。
この説明やこれを応用した心理的支援手法は、PTSD,トラウマに悩む人には、用いないほうがいいのではないでしょうか。
次に、西田幾多郎です。
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自己の良心に耳を傾ける力を磨くこ とを教育の重要な任務とするべき [2013年04月20日(Sat)]
フランクルの教育の使命論(4)
=自己の良心に耳を傾ける力を磨くこ とを教育の重要な任務とするべき
フランクルによれば、教育
者、専門家による還元主義的教育が若い人を実存的空虚に追い込むこ
とや全体主義、画一主義の若者や専門家を作ってしまうのです。
フランクルは、全体主義、画一主義に対抗でき、意味を発見できるのは
良心であるから、自己の良心に耳を傾ける力を磨くこ とを、教育のもっと
も重要な任務としまた使命とするべきであるというのです。
「意味を見つける道具、器官は」ただ一つしかありません。それが良心
なのです。ユニークな生の状況におけるユニークな意味を見つけさせるも
のは良心です。私たちは、ヨーロッパやアメリカ合衆国の多くの人々によ
って、十戒がその無条件的効力を喪失してしまった時代に生きています。
しかしながら、良心が何千何万のユニークな生の状況における、何千何万
の戒律に気づかせてくれるのです。」(「imago」現代思想2013 vol.41-4、
青土社、p46)
「今日、教育は、伝統や知識を伝えたりすることだけで満足したり、そ
れだけに自己満足してはいけません。自己の良心に耳を傾ける力を磨くこ
とを、教育のもっとも重要な任務としまた使命とするべきです。それで人
は、無意味感の漂う時代にもなお各々の生の状況のユニークな意味を見出
すことが可能となるのです。そしてさらに自己の良心に基づいて、全体主
義や画一主義に対抗できるのです。明晰で純化された良心によって、第一
に実存的空虚を、第二に画一主義を、そしてさらには全体主義を克服する
のです。」(フランクル、広岡義之訳「意味喪失時代における教育の使命
」 (同 p46)
これは、やはり、西田哲学と類似します。西田哲学によれば、意志的自
己よりも深い自己が叡智的自己である、その最も深いのが意的叡智的自己
(道徳的自己ともいう)であるというが、それは自己自身の悪を見る「良
心」であると言います。
「道徳的自己があるということは、自己を不完全としてどこまでも理想
を求めることであり、良心が鋭くなればなるほど、自己を悪と感ずるので
ある。」(『叡智的世界』)
良心が鋭ければ、自己の悪、全体主義、画一主義、還元主義の心も見抜
くことができる。良心があれば、同じ人格として尊重されるべきクラスメ
ートの自由を束縛したり、自殺においこむことはしない。
義務教育で軽視されていることが、「自己の良心に耳を傾ける力を磨くこ
と」である。こうした教育がされないままに(というよりも専門家さえもが全体主義、画一主義、還元主義で教育する)、社会人となるべき時期に、
意味を見出せなくなる大学生が多くなる。社会に出ても、パートナーを束
縛したり暴力を振るうような「良心」を欠く行為をする人間ともなる。
専門家のエゴイズムのほか、こうした苦悩が家庭で起きている。
フランクルのいう教育の使命は、現代の日本の問題を予見していたのであ
る。「心の教育」は、フランクルがいうように「自己の良心に耳を傾ける
力を磨くこ とを、教育のもっとも重要な任務としまた使命とするべきです
。」
フランクルは「ヨーロッパやアメリカ合衆国の多くの人々によ
って、十戒がその無条件的効力を喪失してしまった時代に生きています。」
といっています。伝統、つまりキリスト教が効力を失い良心を教えてくれなくなったというのです。日本で、これに類似する情況が、伝統の仏教のことでしょう。こうして、伝統のものが、
効力を失って、全体主義、画一主義、還元主義に対抗する良心を磨くことを教えてくれない状況になっているというのです。しかし、それでも、なお、人生は私たちをあきらめておらず、呼びかけているといいます。フランクルがいいたいことを西田幾多郎は、哲学として、論理的に説明しようとしたのです。ただ、哲学は説明であり、実際に働きだすのは個人の行動によってであるために、理解されても、実践されなければ、世界の創造に貢献しません。実践は、フランクルのいうように、創造、体験、態度によるといえるのでしょう。フランクルのいう「一人類教」こそ、西田哲学の「絶対無」でしょう。
<目次>フランクル、生きる意味、生きる価値、生きがい
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フランクルの教育の使命論(4) [2013年04月19日(Fri)]
フランクルの教育の使命論(4)
=フランクルの精神・哲学を医師・看護師・宗教者・心理職を育成する大学で教育を
3.11をきっかけにして、フランクルが読まれているそうで、ありがたいことです。
フランクルの精神や哲学は、西田哲学に通じるものがあって、フランクルのわかりにくいところを西田哲学の立場からみると、わかるような気がします。フランクルは、医者の領域と聖職(宗教)の領域を説明しつつ、医者は宗教の領域は扱えないことを強調しています。これも、西田哲学と通じます。両者には深い断絶があるのです。しかし、宗教の領域を必要とする人が、宗教者のもとにではなくて、医師のところ、病院に多数あつまっているのです。
そして、心理職のところにも。
心理職が学んだ手法や療法を、また全体主義、画一主義、還元主義の心になってしまってはいけないことも、フランクルから学ぶことができるはずです。クライエントのかかえる苦悩は浅いもの、病理、そして、心理レベル、精神レベル(自己存在)、宗教レベルまであるはずです。自分の学んだ療法が万能ではないはずです。そういうフランクルの精神を学んでおかないと、自分のスキルとは違う問題を「来談者中心」だと扱い続けると、ながびき、悲劇を招くこともあり、クライエントのためであるとはいえなくなるのではないでしょうか。端的に
いうと、薬物療法が全体主義、画一主義、還元主義になってもいけない、傾聴が全体主義、画一主義、還元主義でもいけない、マインドフルネス心理療法が全体主義、画一主義、還元主義になってもいけない、認知行動療法が全体主義、画一主義、還元主義になってもいけないというのが、フランクルの趣旨だと思います。
医師や看護師、心理職の育成の段階にもフランクルのいうことを教育するといいだろうにと思います。そして、宗教者を育成する大学の教育でもそうです。宗教が全体主義、画一主義、還元主義になっては、変動の激しい時代に必要とされる宗教であり続けることはできないのですから。宗教離れが進行していますが、根底の深い精神性を宗教者個人がつかみとり伝えないからだと思います。全体主義、画一主義、還元主義でなく、一人ひとりが自分のものをつかみとらないからだと思います。一つの宗教実践に還元される節があるが、その根底には他宗にも、人類に共通に通じる普遍的なものを開祖もいっているのだということを教育することも必要であると思います。
それでも宗教の立場(すべての人間の絶対的平等の立場)が人間存在の根本なのですから、
一般の人は宗教に期待するのです。もはや、これまでの専門家は後進にゆずって、自由に議論することを許すことが必要である時だと思います。金庫の中に開祖の宝が保管されているのを、若い世代の人に発掘してもらえばいいのではないでしょうか。フランクルも西田哲学も、宗教とそれ以前の区別を知りつつ、宗教のすばらしさ、つまり人間の苦悩を救済する援助ができる可能性を訴えています。宗教の専門家も宗教の大学も、そのように深い宗教を提供できる若者を育成しなければならないでしょう。
医療の領域と宗教の領域の違いを知り、宗教者もまた、宗教の限界を知り、医療にまかせるべきものを宗教で扱ってはならないでしょう。
(続)
<目次>フランクル、生きる意味、生きる価値、生きがい
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フランクルの教育の使命論(3)
[2013年04月18日(Thu)]
フランクルの教育の使命論(3)
フランクルによれば、教育
者、専門家による還元主義的教育が若い人を実存的空虚(これによってある種のうつ病、不安障害、自殺をもたらす)に追い込むこ
とや全体主義、画一主義の若者を作ってしまうことがあるのです。
複雑な人間のことをあまりに単純化した学説、学問で若者を教育する。自
分で考えることができない人間、個性のある仕事をできない人間、さまざ
まな要因を配慮しなければならない子ども、クライエントや患者の苦悩を画一主義、
還元主義の教えで扱
い続ける。古い時代に妥当であった伝統が死守されて、現代の新しい問題
を援助できなくなってしまう。
フランクルによれば、宗教や精神療法が、現代の人々の苦悩の解決支援をできるはずなのに、
いまでもこの警告が古びていないほど、遅れているようです。
宗教、教育、学問、医療、臨床心理、さまざまな援助活動、さまざまな産業活動にいて、全体主義、画一主義、還元主義が広まっているでしょう。その弊害が自覚されないままに。
「自分が何をしたいのか分からないままに、人は他の人々がおこなう通り
にしようとします。これが画一主義です。
あるいは他の人々が望むままに行動します。これが全体主義です。
」(フランクル、広岡義之訳「意味喪失時代における教育の使命」
(「imago」現代思想2013 vol.41-4、青土社、p40)
「今日、教育は、伝統や知識を伝えたりすることだけで満足したり、そ
れだけに自己満足してはいけません。自己の良心に耳を傾ける力を磨くこ
とを、教育のもっとも重要な任務としまた使命とするべきです。それで人
は、無意味感の漂う時代にもなお各々の生の状況のユニークな意味を見出
すことが可能となるのです。そしてさらに自己の良心に基づいて、全体主
義や画一主義に対抗できるのです。明晰で純化された良心によって、第一
に実存的空虚を、第二に画一主義を、そしてさらには全体主義を克服する
のです。」(p46)
これは、フランクルが日本の大学で行った講演です。専門家による還元主義、画一主義の教育は、昭和にも行われ
ていました。いまなお、そういう知識を声だかに押し付けて若者の個性を
うばうことがおきているかもしれません。教育者でさえそうであるならば
、おそるべきことです。これからの日本を担う人は、
そういう人間にならないように、良心を磨く教育をしなければならないの
です。小さく限定した教育を受けず、
自分の専門のことだけを絶対視せず、
広く他のことにも扉を開いていて、自由に行き来し、他を排斥せず受容
する広い精神、伝統に縛られず伝統の普遍的な真理は破壊せず、時代の要求に
あったものに応用すべきは応用しうる能力を持てるように教育するのがい
いのでしょう。
(続)
<目次>フランクル、生きる意味、生きる価値、生きがい
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フランクルの教育の使命論(2)
[2013年04月16日(Tue)]
フランクルの教育の使命論(2)
フランクルによれば、神経症には2つのタイプがあると言います。当時の「神経症」とは、現在のうつ病の一部、不安障害の一部、さらには、うつ病の診断基準にははいらないものも含まれるようです。なぜなら、うつ病であれば、意味が発見できたとしても、症状がすぐには回復しないからです。
フランクルによれば、タイプによって、治療法が違います。
「ヨーロッパ大陸諸国の精神因性神経症は、診療所で取り扱う神経症の全体の約二〇パーセントです。精神因性神経症はヌースつまり精神に起因します。そこでこれには精神的な療法つまりロゴセラピーが必要になります。」(フランクル、広岡義之訳「意味喪失時代における教育の使命」(「imago」現代思想2013 vol.41-4、青土社、p41)
「逆説志向は八十パーセントの心因性精神療法で使用され、二十パーセントの精神因性精神療法では厳密な意味でのロゴセラピーが使用されます。」(p42)
フランクルによって、よく言及されているのは、強迫、予期不安、および、生きる意味の喪失の苦しみです。問題によって、治療手法が違います。精神は心理よりも深いので、精神に原因がある精神因性の苦悩は、心理療法では改善が難しいという趣旨です。
現代人にも、過労によるうつ病、非定型うつ病、新型うつ病があり、さまざまな不安障害があります。ほかにも、さまざまな心の問題があり、画一主義の治療手法では解決できない人がいます。うつ病や不安障害は、ロゴセラピー、認知行動療法、マインドフルネス心理療法、日本で開発された森田療法、内観療法などが効果があると認められています。また、それぞれの療法は、効果のある問題が違うでしょう。
大学における心理学の教育でもそのように、精神の深さや多くの治療手法への扉があることを教育しておかなければならないでしょう。一つの見方のみを徹底的に教育されると、素直で責任感のあるカウンセラーは、クライエントの問題解決に効果がない問題にまで、同じ手法を使い続けてしまうおそれがあるのではないでしょうか。
フランクルがいうように、人は瞬間瞬間、生きる意味を選択していますが、うつ病の人はまさに、生きるか死ぬ(自殺)かの課題をつきつけられています。
不安障害がうつ病の併発にまで深刻化していない段階では、自殺のリスクはあまり大きくありません。希死念慮・自殺念慮が現れるのは、うつ病です(もちろん、他の障害、たとえば、依存症にもあります。)。
心の病気の人には、いつ悲劇が起きるかもしれない種類の苦痛があります。
被災地の方面の心の問題も、一つの手法ではいかないように思われます。スタッフの過労によるうつ病、当時の過酷な体験によるPTSDは、生きる意味の喪失によるものではない可能性があります。復帰すべき職場などをもっているが、症状の苦痛が大きい場合です。
逆説志向、認知行動療法やマインドフルネス心理療法が効果的であるかもしれません。一方、
住宅、仕事、愛する人を失ったことによる心の苦悩は、フランクルのいうロゴセラピー、そして、症状を回復する療法へのひきつぎが有効なのかもしれません。また、孤独になられた苦悩には、別の支援が有効なのでしょう。
被災地方面での心の苦しみはさまざまなものがあるでしょうから、一つの方法を絶対的に用いるわけにはいかないでしょう。自分の援助スキルの相対性と限界をも自覚していて、よく言われるのですが、まさに、他の支援組織との連携が必要なのでしょう。
(続)
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フランクルの教育論(1)
[2013年04月15日(Mon)]
フランクルの教育論(1)
科学や学問といっても、全体主義、画一主義、還元主義による偏向があることが多いことをフランクルが述べ
ています。私もこういうことを感じています。学問、科学のよそおいでも
って、仏教や心のこと、自己存在、人間を単純に一つだけに還元する専門
家がいます。だから、現代の複雑な人間の苦悩の解決を支援できないこと
になっていると思います。
次がこのことについて触れているフラン
クルの言葉です。
「以
前に私は実存的空虚には二つの原因があると述べました。しかしまた第三
の原因もあり、教育は若者たちの良心を磨く代わりに、逆に実存的空虚に
拍車をかけ、これを助長することがあります。還元主義は、一切のものを
一つに帰一させます。たとえば、人間は「裸の猿」以外のなにものでもな
いとか、人間はコンピューター以外のなにものでもないと主張するやり方
です。
私たちの神経組織をコンピューターにたとえて説明することは可能
です。しかし人間は無限にコンピューター以上の存在です。還元主義は科
学の専門化の産物なのです。
「木を見る者は森を見ず」という言葉をお聞きになったことが有るでし
ょう。専門家とは事実の木々のみを見て、真実の森を見ない人のことです
。しかし危険なのは科学者が専門家することではありません。多くの専門
家が一般化することが危険なのです。彼らはあまりにも一般的なものの言
い方をします。科学は常に一次元に限定されていることを、彼らは気づい
ていません(図参照)。
この(a)が科学の平面(次元)です。その中で彼らは個々の出来事(1-4)を
見出しますが、それらは完全に無関蓮な出来事です。たとえば、進化途上
の突然変異であったり、なんら究極的な意味のない偶発的事件にすぎませ
ん。ところがもう一つの別の次元(b)が存在します。そしてこの次元(b)で
は、個々の事件は関連しているかもしれないのです。この関連が別な平面
のより高くより深い意味なのです。」
(フランクル、広岡義之訳「意味喪失時代における教育の使命」(「imago
」現代思想2013 vol.41-4、青土社、p47)
西田哲学も、専門家が自分の浅い立場からしか見ずに、
それに合わないものを否定して、かえって人間の深い真実を知らないとい
うのです。こうした還元主義を強く学生に教育すると、学生や社会人まで偏向し
た見方を植え付けられます。
たとえば、初期の仏教ですと、苦の解決、縁起説、坐禅、悟り、無我、無常、他者の救済などさまざまな
ことが含まれていますが、
縁起説だけを切り取って、これこそ仏教だというと、坐禅をしなくなり、苦悩の解決、他者の救済などをしなくなります。坐禅こそ仏教の核心だというと、苦悩の解決、他者の救済などをしなくなります。悟りこそ仏教の核心だと強調すると、苦悩の解決、他者の救済などをしなくなります。
日本は仏教国であるために、多数の仏教宗派があり、学問的に何か一つを強調して教育する伝統があるために、一般の市民の苦悩の解決を強調する学問はほとんどみられません。
マインドフルネス心理療法が日本で開発されることができなかったのは、ここにあるのかも
しれません。フランクルのように、内在とか現存在のような深い自己につ
いていわれることがなく、あるひとつだけに還元しています。
西田哲学の
ように、対象、作用、作用するもの(自己自身)、根底の人格(人間存在)、世界との関係、人生の苦悩解決などについて
いわれることがなく、あるひとつだけに還元する傾向がありました。上記のようにフランクルの言葉です。
学問という装いで、複雑で広範なことを言及している文献の中から、専
門家が独断である一つだけを重視して、「何何はこれしかない」「これだ
けが仏教だ、何々の核心だ」と文献から、そのことについて触れたテキス
トを抽出します。学問的です。しかし、文献は多くのことについて触れて
いるので、よく検討してみると、フランクルのいうような、垂直の人間の
実相が観察されて、テキストのすべてが関連しあっていることを発見でき
ます。すべてのテキストを捨てずに、矛盾するようなことでも深い立場にたつと関連しているのであることを説明するのが学問のはずです。
しかし、そういう見方をしないのが還元主義であり、学問、科学に
もそれがあるというのです。還元主義でない専門家もいて、矛盾するよう
な複数の出来事が深いところではつながっていると指摘する人もいます。
こういう立場が、フランクルの言いたいこと、ほんとうに、人間存在の全
体をつかむ方向だというのです。教育も、こうした深い立場で考えること
ができる人を育てる教育をすべきだというのです。
全体主義、画一主義、還元主義の人を助長するような教育はおかしいわけ
です。そのような教育をすれば、時代、環境の変化に応じた新しい、独創
的な解決策を生み出す人が育ちません。
伝統のとおり、長老が強調するとおりのことだけを画一的にするような傾向になってしまい、時代的な、個性的な、創造的な、社会貢献的なことをしなくなる傾向を助長するというのです。
フランクルは、そういう人ではない若者を教育すべきだというのでしょう。教育者が全体主義、画一主義、還元主義であっては問題なのです。親、教師、長老、専門家がモデルです。人は親のするとおり、教師のするとおり、長老のするとおり、専門家のするとおりの人物になる傾向があります。
心理や精神、心のケアなどに関連する科学、手法、支援方法、心理療法は、日本の
独創はきわめて少ないのではないでしょうか。
ほとんどすべて欧米で開発されて、輸入されているのではありませんか。
(続)
フランクルのこと
セラピー(医療、心理療法)を超えて
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フランクル、西田幾多郎に学び宝を掘り起こす [2013年04月12日(Fri)]
価値実現のためには身体と心と精神が
=フランクル、西田幾多郎に学び宝を掘り起こす
フランクルは、3つの価値を提案した。
創造価値、体験価値、態度価値である。だが、創造価値、体験価値を持
っていたかにみえていた人が、さまざまな出来事によって、
うつ病や不安障害になり、身体の病気にもなり、自殺も起きている。
2つの価値の持続的な遂行のためには、何かが必要なのだ。
価値実現のために働くのは自己の身体、心、精神(心より深いもの)であろう。思いどおりに
ならないことが起きるのが人生であるが、その人生に意味を問われているという
。
うつ病になるということは、みつけていたと思っていた意味をとらえ
そこなっていたということだろうか。表面的な「心理」だけで価値をみていたせいだろうか。
フランクルは、身体と心の奥の「精神」
「内在」「現存在」を強調する。深い精神、内在、現存在を基礎にした、創造
価値、体験価値、態度価値でないと、価値実現の人生を持続させることは
難しいと言っているのだろう。
こういう深い精神については、日本では多くの人が教えてくれてきた。
日本的霊性をいい、表現し、行動してきたひとたちだ。
(⇒こちら)
それも「金庫」に保管されているから、現在の私たちも、触れることができる。そういう深く、長い(永遠)世界(=自己と一つ)について、論理的に説明したのが西田哲学である。他の人は、宗教経典、宗教者の救済実践(慈悲の実践)、茶道、絵画、詩、俳句などで表現してきた。
こういう視点から、ロゴセラピー、マインドフルネス心理療法、西田哲学との結合が見えてくる。表面の
心理現象の奥に、意志作用があり、その奥に意志するもの=意志的自己が
あり、その意志的自己のさらに奥に世界、叡智的世界(おそらくフランクルのいう「内在の部屋」)がある。叡智的世界は、フ
ランクルの内在に、現存在は、意志的自己、叡智的自己、人格的自己(用語が違うが、西田哲学では宗教的段階の自己)に相当するのではなかろうか。叡智的世界の最も奥が「良
心」だという。意的叡智的自己という。フランクルも良心をいう。
さらに、「精神」の奥があり、フランクルは「超意味の世界」というが、西田哲学でも、
良心、意的叡智的自己の奥に、宗教的世界があるという。
通常は、創造価値、体験価値を持って生きていく智慧、心があればいい
のだろう。だが、その2つではなくて、態度価値を生きる最期の瞬間まであるという、態度価値は、宗教的な意味を帯びてくるのではないか。「夜と霧」で紹介された、木と語る少女は、
宗教的世界を見たのではないか。死期が迫っているのに、深い世界を見て、感謝している。この苦悩にあわなかったら、このすばらしい深い世界をみることができなかったはずだから。
こうした、自己を深く洞察していく方法は、東洋にはあったと西田哲学はいう。だ
から、西田哲学は深い世界、自己を論理的に説明したのだ。方法は、仏教の実践にあ
ったようであるが、現代の人には見えなくなってしまったのだろう。
日本では、仏教の専門家よりも、芸術家が表現している。
過去にあったものは、現在もあるとフランクルはいう。西田哲学も、現在
に過去と未来があるという。過去の宝が保存されているが見えなくなっているのだ。それを発掘して、
現在に活用するようにと、フランクルも西田幾多郎も言っているのだろう。
欧米のマインドフルネス心理療法者が発掘し始めたようだ。マインドフルネス心理療法者は、フランクルの「発掘会社」と合弁事業ができるかもしれない。両方がある欧米でそれができるのではないだろうか。ロゴセラピーとマインドフルネス心理療法は、ともに、深い宗教的立場、すべての人の絶対平等までみすえているので、今後、欧米ですばらしい精神療法として、すべての人の生き方として、宗教(一神教が多い)を越える生き方の体系が構想されていくかもしれない。
(続く)
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MF総研/大田
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ヴィクトール・フランクル・マインドフルネス心理療法は臨床試験で効果が確認されている [2013年04月10日(Wed)]
ヴィクトール・フランクル
=日本にはフランクルに匹敵する西田哲学がある
次の記事でロゴセラピーの考え方に「苦悩の受容」をみました。
前の記事で
こう述べました。
「マインドフルネス心理療法にも、価値実現の意志作用という概念があ
ります。価値も重視します。ロゴセラピーもマインドフルネス心理療法も
類似します。
お互いに、他の療法に貢献できる可能性があります。
3.11によって、フランクルに期待があるそうです。ロゴセラピーの
普及も期待したいです。フランクルがいうように、一つを絶対視して他を
排斥するのではなく、類似する他を寛容で受け入れるべきです。他への扉
を開いておくべきです。
なにごとも、苦悩するクライエント、市民のためです。世界のためです。
世界を創造する市民のためです。自分の流派など消滅してもいいのです。
」
3.11以来、フランクルが見直されているようですが、日本にはフランクルに匹敵する西田哲学があることも忘れないようにしたいものです。
思想や哲学、宗教、心理療法(精神療法)・・・、過去あまたのものが考案されました。それが、どれほどすぐれていようとも、目前の現実の苦悩する人の苦しみ、悲しみを克服させてあげられるものでなければなりません。理屈がすばらしくても、この世で、この日本で、現実に実現できるものでなければなりません。苦悩や心の病気の改善の実現、改善できないのであれば受容できる心、それが実現されなければなりません。理論、思想、哲学を実行してみて、それが実現できたか、苦悩する人も実践し実現できたか、すなわち、市民ができる具体的な方法、臨床試験と、その実現割合です。フロイト、フランクル、西田幾多郎、道元、親鸞、イエスキリスト・・・、その理論、思想、哲学を、一般の苦悩する市民が、この世で、つまり、家庭、職場をおろそかにせず、どのように実践したら、その理論、思想、哲学を実現できるのか。
人は理論、価値、理想を知るだけでは満足できません。自分に獲得されないと満足できません。それに向かって、その実現に向かって行動する、すなわち意味、価値への意志と、その実現です。フランクルも西田もそれを強調するのでしょう。苦悩の多い、この人生、目前に現れる現実世界、これを逃げずに、よりよいものにしていく、できなければ受け入れる。「あの人の思想。哲学がすばらしい」それだけでは、いけません。絵に書いた餅ではおなかがふくれません。
人の苦しみは広く深くさまざまです。一つのカウンセリング手法、心理
療法がすべての問題に万能であるはずがありません。フランクルがいうよ
うに、一つを絶対現して他を
排斥するのではなく、類似する他を寛容で受
け入れるべきです。他への扉
を開いておくべきです。
すべてを受け入れる
ものがあるのですから、類似するが少し違う、独自のものを持つものを完
全排斥するのはおかしいです。クライエントによっては、他の心理療法が
向いている人もあります。他への扉を塞ぐと、救済される可能性を妨害します。
マインドフルネス心理療法は、瞑想が面倒ですので、やはり限界があります。
だから、薬物療法や認知行動療法が向いている人には、それをすすめます。
ロゴセラピーも選択肢の一つですね。とにかく、どれでもいいから、
治っていただくのが最も大切なことです。援助者の自己満足にしてはいけません。
マインドフルネス心理療法は、欧米での臨床試験で、うつ病やトラウマ
などに、薬物療法や認知行動療法よりも効果が高いことが確認されました
。もちろん、傾聴はうつ病の臨床試験は行われません。傾聴は、傾聴に向
いたクライエント、問題があるのでしょう。うつ病や不安障害(の一部)、脳神経
生理学的な問題が生じているようなので、その軽減の論理が必要になりま
す。
他の心理療法、他のカウンセリング手法のかたも、自分のもの、傾聴が、フランクルが最高だ、唯一だと絶対視せず、う
つ病や不安障害には、他の心理療法、認知行動療法やマインドフルネス心
理療法への扉も開いておいていただきたいと念願します。マインドフルネ
ス心理療法は、瞑想の手法が、苦痛の受容や絶対に触れる機会を高めるよ
うです。他の心理療法の方針に違背しないと思います。日本には、フランク
ルの哲学思想に匹敵する西田哲学があります。文学的、芸術的な表現では
ありませんが、論理的に説明していて、丹念に読むと説得的で理解可能で
す。課題は、それをいかにして、精神療法、心理療法にするかです。
フランクルは、「一人類教」を言います。おそらく、西田哲学の絶対無
がそれに対応するような気がします。ロゴセラピーの研究者が西田哲学を
参照していただきたいと思います。それぞれの心理療法も、すぐれた心理
療法ならば、その深いところで、共通の基礎がありうるとして、互いを排
斥せずに、受容しあうと、患者さんの選択肢が増えて、患者さんの囲いこ
みがなくなります。自殺も減少する可能性があります。
(続く)
フランクルのこと
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Posted by
MF総研/大田
at 19:56 |
フランクル |
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苦悩の受容 [2013年04月09日(Tue)]
苦悩の受容
=フランクルとマインドフルネス心理療法
次の記事でロゴセラピーの考え方をみました。
マインドフルネス心理療法と似たような概念に「受容」があります。
(D)です。
(D)「苦悩を志向し、有意味に苦悩することができるのは、何かのため 、
誰かのために苦悩するときだけなのです。つまり、苦悩は、意味で満た さ
れるためには、自己目的であってはならないのです。・・・
私たちは苦悩を受容することによって、苦悩を志向するだけではなく苦悩
を通り抜けて、苦悩と同一ではない何かを志向するのです。私たちは苦悩
を超越するのです。」(p86)
受容が類似します。マインドフルネス心理療法は、アクセプタンスとマ
インドフルネスが両輪のように2つが重視されています。人生には、苦悩
がつきものです。苦悩のアクセプタンスがない限り、いざという時に、役
にたちません。成功していたかに見える人が、うつ病、不安障害になり、
自殺が起きていますが、苦悩を受容できなかったからでしょう。
マインドフルネス心理療法は、苦悩(不快事象)を受容して、価値実現の行動をです。ロゴセラピーで「
苦悩
を通り抜けて、苦悩と同一ではない何かを志向するのです。」の局面が、マインドフルネスでしょう。哲学が、似ているのです。
外的状況の受容、内的感覚の受容とは違いがあるようです。前者は、思
考や思想、哲学で短期的に受容に導くことができる可能性があります。し
かし、うつ病や不安障害には、外的状況ではなく、慢性的な内的感覚に属
する「症状」(抑うつ症状、鉛様麻痺感、パニック発作、フラッシュバックなど)があります。これは、思考によっては短期的には、軽減しません。最近、脳神経
生理学的な変調が起きていることがわかってきました。
この苦痛は、長期的に持続します。この持続する苦痛を受容する心が必要
です。瞑想を用いて、長期的に持続する内的苦痛を受容しながら、意味、価値ある行動を
します。マインドフルネス心理療法にも、価値実現の意志作用という概念
があります。価値も重視します。ロゴセラピーもマインドフルネス心理療
法も類似します。
お互いに、他の療法に貢献できる可能性があります。
3.11によって、フランクルに期待があるそうです。ロゴセラピーの
普及も期待したいです。フランクルがいうように、一つを絶対視して他を
排斥するのではなく、類似する他を寛容で受け入れるべきです。他への扉
を開いておくべきです。
なにごとも、苦悩するクライエント、市民のためです。世界のためです。
世界を創造する市民のためです。よりよい治療法ができるならば、自分の流派など消滅してもいいのです。
(続く)
フランクルのこと
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Posted by
MF総研/大田
at 21:15 |
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