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(32)外出制限で高齢者の認知機能低下 [2020年08月08日(Sat)]
本日の新規感染者は、東京が429人、神奈川128人、埼玉84人、大阪178人、愛知177人、福岡150人。
数字を見て、「多いな、嫌だな」と評価する。そして、考えや個人的行動や公的行動に反映させる。自分も関係者も不幸にならなないように。

(32)外出制限で高齢者の認知機能低下

 新型コロナウイルス感染症の流行による外出制限のため、認知機能低下が心配されている。 広島大学が調査した。

https://www.asahi.com/articles/DA3S14575681.html
☆朝日新聞

https://this.kiji.is/655318321617486945
☆共同通信

 この対象は、介護関連施設の高齢者である。

 別の心配もある。私が10年ほど「マインドフルネス心の健康体操」を行ってきたデーサービス事業所が廃業になった。狭い会場だったためである。
 まだ要介護状態ではなくて、自立歩行できるが、昼、預かってもらいたい家庭の依頼でお預かりしていたところだ。ご家族のためにも、高齢者のためにもありがたいサービスだったと思う。 幾種類かのボランティアの人々がサービスを提供していた。私らは、マインドフルネスの心の健康体操で、呼吸法、脳トレーニング、フリフリグッパー体操などだった。この事業は、多分、30年ほど前から継続していた。それが、コロナで廃業になった。
 この施設が廃業になったので、このかたたちの居場所がなくなったので認知機能低下や抑うつ状態となり要介護状態にすすんでいく心配がある。、
 こうした状況は全国に起きているのではないだろうか。

 要介護状態のひとが増えると自治体でも心配がふえる。対策を考えていかねばならない。 高齢者へのデイサービスは、オンラインでは難しいだろう。対面でないと効果をあげにくいだろう。ご家族にも仕事があり、預かってもらいたいだろう。
 狭い会場だった事業所には自治体のもつ広い会場を安価で提供して、3密になることを防ぐ形で、デイサービスを提供できないだろうか。 


https://blog.canpan.info/jitou/archive/4583
【目次】 コロナと共に生きる生活の中でのマインドフルネス


 深いマインドフルネス、自己の観察は、フランクル哲学と西田哲学が類似する
Posted by MF総研/大田 at 18:52 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL
(31)後で覆るような解釈で学問的と主張するのか [2020年08月06日(Thu)]

(31)後で覆るような解釈で学問的と主張するのか

 前の記事の最後にこう記した。

 「なぜ、これまで多くの学者がそのような解釈を「学問」だとしてきたのだろうか? 」

 学問も、時代、国、環境に制約される。多分、仏教、禅の学問も日本と他国とでは違うだろう。そして、大乗仏教が指摘してきたのだが、人の意識作用は「心の闇」と言われる心理によって修飾される。 なかなか理解されにくいのだが、大乗仏教では煩悩、道元禅師が「己見我利我執」と言った闇の心理、西田哲学では、独断偏見という。他人には知られたくない恥かしい心理である。

 人間活動のあらゆる場面に現れるが、心理学的には、次の本がよく記述している。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3853
★多数決で「正しさをゴリ押しする人」(榎本博昭、角川新書)
☆認知的複雑性が乏しい各種の専門家の「ゴリ押し」
 =複雑性を理解できないでイライラして、深いものを否定

 仏教の学問や宗教実践の場合を考えてみよう。
 大乗仏教や道元禅師の核心にも、自内證(深い絶対無を体験で證明)、利他(苦悩する一般人の救済支援)、自己成長(自分のエゴイズムの観察を通して至誠の方向へ精進)があることを大竹晋氏が指摘した。以前から多くの学者が大乗仏教や禅の核心を理解しなかったことになるゆに見える。これまで、仏教の重要な部分を学生や一般人は教えられなかったことになる。
 昭和の初めから学問的な論争があり、自内證(悟り)ということを理解しないで否定する学者が多かった。利他も難しいが、それをしないですむ解釈もする。自分が煩悩の観察をしないから、それが重視されたと指摘しない。 そういう学問はおかしいと批判する禅僧や学者も昭和の時代には多くいた。それを批判するひともいた。これでは、一般の人は、どちらが学問的に真相をついているのかわからない。魅力を感じない仏教解釈に信頼性を低下させたであろう。

 仏教や禅は、膨大な文献があり、深いものもあり解釈がわかれる。深い論理や哲学を基礎にして自分の浅い(?)解釈を批判されると、理解できない場合不快になるだろう。イライラ、怒りの感情が起きるだろう。落ち着かせる行動に出るものもいるだろう。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3855
(2) ☆認知的複雑性が乏しい各種の専門家の「ゴリ押し」  =複雑性を理解できないでイライラ

 大竹晋氏が指摘するまでわからなかったのであれば、深い哲学のあることを理解できる人は少なかったわけである。3つの核心を理解せず、浅い解釈をするひとが多かった。そういうひとたちが多数派になると、どういうことになるか。榎本氏は次のことを指摘した。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3857
(3) ☆「正しさ」をゴリ押しする行動の背後にある心理とは?  =コンプレックス、欲求不満、攻撃

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3860
(4) ☆「正しさ」をゴリ押しする・時代の空気

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3861
(5) ☆正しさをゴリ押しする「危ない人にみられる特徴」(1)

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3863
(6) ☆正しさをゴリ押しする「危ない人にみられる特徴」(2)

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3864
(7) ☆「正義の人」が「危ない人」に変わる瞬間
 =アメリカから2つの新しい「仏教」が輸入された
  アメリカでは、仏教が現代の社会問題に活用されている。しかし、日本の仏教はそれが弱い。なぜなのか。

 榎本氏は、仏教や禅の学問について述べたわけではない。科学とか学問というところに広くみられるのだろう。

 大乗仏教や禅に関連することでは、次のような点が対立すれば不快になる学者がいるだろう。「学者」というが、オルテガがいったように、学問の舞台は大学だ。学問のかたよりも大学人がになう。

 仏教や禅にも、3つの核心があるとしよう。自内證、自己成長、利他。 自内證は、絶対無、悟りを体験するものであるが、これが最も重要だと言っているという学説を聞くと、不快になるひとがいる。
 自己成長、利他も同様であり、実践が伴う。エゴイズムを観察しなければならない、苦しむ人にあって臨床支援しなければならない。文字の研究と学生への講義ではない。こういうことができないと宗教者、学者として劣っていると思われるのは不快であると思う人がいる。「自分は専門家である。教育者である」。立場、面子、名誉にかわると思うのだろうか。 榎本氏の指摘がある。こういう厳しい批判をする人は少数派だ。少数派は組織内では尊重されない、著作のチャンスも少なくなる。少数派の意見解釈、深いものが一般に知られにくい。

 大乗仏教や道元禅師には、核心からそれているもの、文献的知識を厳しく批判した言葉もある。大乗仏教や道元の組織(当時の)では、知識や学識は重視されなかった。実践、体験、利他の現実行動を重視したものだ。当時の仏教を批判して、目標が衆生、人々の救済だったからだ。
 学者が、多数の経典を解釈できて講義できても、それは大乗仏教では重視されなかった。利他の現実行為をしないからである。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/560
★宮沢賢治の仏教は、力あるものの驕りを描く

 昭和の時代は、核心をとらえていない学問解釈がよしとされて多数派だったことになる。西田幾多郎も批判した。最近では、竹村牧男氏や大竹晋氏が指摘した。

 こうした浅いところで解釈して正しいと声の大きい人に強く主張されると、もっと深いものがあると気づいても、弱いひとは違う解釈を主張することは難しい。いじめ、排除をされる。どこでもこれがある。食べていくために家族もあり収入も必要だ、いじめられたり、排除されたくない、その組織では生きていくことがつらくなる。声の強いもの、力をもつものに従う。

大乗仏教では浅い解釈にとどまることを批判

 大乗仏教は、浅い解釈や、禅定にとどまることを批判した。そんなことをすると、自分のエゴイズムの心理を観察しないし、他者の救済(利他)をしないことを合理化するからである。
 唯識では、竹村牧男氏が指摘したように、学的解釈は世俗諦であり本物ではないとした。 体験がないから、体験的なものを教える(利他)ことができないからである。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3573
★世俗諦と勝義諦


 大乗仏教は、自己のエゴイズムの観察抑制(=自己成長)、利他(苦しむ一般人の臨床的な救済支援)を重視した。 こういうことは、権力者や専門家のエゴイズムに苦しめられる現代の人々が苦しんでいる状況であり、いよいよ重要性を増している。日本のマインドフルネスとしては、こういう「心の闇」を現在進行形で観察して、他者を苦しめず、自分を成長させていくことが重要であることが理解されるはずだ。宮沢賢治がいうように、みんなが幸福でありたい。そもそも、仏教という宗教の本質とは何であるのか。一般人から布施をいただいて生きていられる一般人の利他を考えず、坐禅する、文字の研究をすることなのだろうかという「宗教とは何なのか」という問題にかかわる。

 大乗仏教や道元禅師の言葉にしばしば見ることができるのは、闇の心理、エゴイズムの見方、考え方、欲望、行為に気づき抑制する方向の観察がある。自己洞察瞑想療法(SIMT)では、これをとりいれた。現代人にわかりやすいように、エゴイズムの心理を「本音」と名付けた。家庭、職場、学校、あらゆる場で他者を苦しめる、組織や社会を害するエゴイズムの心理を現在進行形で観察する。専門家が、近くの関係者の思想、学問の自由を奪い、人権を侵害し人格を否定することをする。 見る、考える、欲望を起こす、言葉を発する、行為する、あらゆる場面でうごめくエゴイズムを観察する。

 学校の義務教育でも、大学でも、社会教育でも、組織内の教育でも、こうした心の闇の観察、抑制ということが教育されない。教育は、社会で、ビジネス面で必要となる産業技術のみである。
 新型コロナウイルス感染症の流行によって、リモートワークが推進される。これからは、ITの技術の教育も加速される。いよいよ、心の教育をとりいれる余裕はなく、見捨てられていくのだろう。

 簡単には解決できない苦しみ、根本的な解決に向けてどうしたらいいのだろう。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/2171

https://blog.canpan.info/jitou/archive/2172

全く自我の都合のない立場からの学問

 深い心の探求に関係する人間哲学や仏教、禅の学問は、結局、全く自我の都合のない世界の立場からの解釈を学問的だろうと思っていないと、後世の学者から批判されることになるのではないかと思われる。
 どんな権力、権威にも組織にも迎合せず加担せず、利益を期待しない世界の立場に立つ解釈。

 「マインドフルネス」は新しい学問。始まったばかり。心の観察であるから、すでに似たことを研究してきた大乗仏教や禅、西田哲学を参考にしてほしい。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4583
【目次】 コロナと共に生きる生活の中でのマインドフルネス


 深いマインドフルネス、自己の観察は、フランクル哲学と西田哲学が類似する

Posted by MF総研/大田 at 20:56 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL
(30)ジョン・カバット・ジン氏もそのマインドフルネスは浅いと 認めるのだから留まらずにそれを越えたステップへ 認めるのだから固執してはいけない [2020年08月05日(Wed)]

(30)ジョン・カバット・ジン氏もそのマインドフルネスは浅いと 認めるのだから留まらずそれを越えたステップへ

 前の記事で、多くの専門家が独断偏見によって自己主張していることを批判する人たちがいることを知った。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4611
★専門家=叡智的自己は自分を奢り他者を苦しめる傾向

 ジョン・カバット・ジン氏の注意の言葉から、現実の人間、世界は非常に広く、深いことを理解するよすがとしたい。そして、どこでも「無評価」の観察だけが、科学であり、他の観察は宗教だから公教育の場でするようなものではないようなふうに誤解される風潮はやめてもらいたい。教育、ビジネス、医療、種々の場でエゴイズムで苦しめられる人がいる。自分の見かた、考え方、欲望、行動に無評価であってはならないのだ。自分の意識がエゴイズムでないかどうか観察し評価して抑制すべきであることが重要であることは良識ある人は理解するだろう。

 そして、氏が尊敬する道元禅師に”全体性”があることを認めているのだが、日本の仏教学は、道元禅師のこのこと(全体性)を指摘しなかった。西田幾多郎、井筒俊彦、鈴木大拙、竹村牧男氏などはこのことを指摘した(絶対的一、すべてを否定しすべてを生み出す根底)のに、多くの仏教学者は認めなかった。だが、また、大竹晋氏が指摘した。道元禅師の解釈を学者のように解釈すると大乗仏教ではなくなってしまうが、それでいいのだろうかという重大な問題をはらむことが明らかになった。  ジョン・カバット・ジン氏も道元禅師に坐禅だけではない深いもの(全体性)を認めているのだから、仏教や禅の学問がかなりおかしかったことになるのではないか、再検討を願いたい。そうでないと、日本の偉大な哲学者としての道元禅師を埋もれさせて、現代社会の問題に貢献できるかもしれない宝を活用できない。ジョン・カバット・ジン氏は、「「分裂した思考も、恐怖、弱さ、不安なども乗り越 え ることができる。絶望さえも乗り越えることができる」という。

 次の記事で、ジョン・カバット・ジン氏の注意を見た。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3085
★ジョン・カバット・ジン氏のMBSRは浅い、全体性(=人間の根底、真の自己の基礎)に入る扉の前にすぎない=ご自身が言っておら れる

 彼の言葉である。
     「「マインドフルネス瞑想法」のトレーニングは、一般的に行われ ているリラクセーション・テクニ ックやストレス対処テクニックとは 明らかに異なっています。最も大きな違いは、このプログラムが 、 ”全体性”を直に体験するための扉を提供しているという点です。」

     「”全体性”は、生まれたときからもっていたものです。つまり、 ”全体性”という視野をもつことで 、今までとは違ったとらえ方がで きるようになり、分裂した思考も、恐怖、弱さ、不安なども乗り越 え ることができるということです。絶望さえも乗り越えることができる のです。
     しかし、”全体性”や”内的な結びつき”を理解するのは、一生の 仕事です。瞑想トレーニング は、それらを理解するために意識的にふ みだした最初のステップにすぎないのです。」

     「これまで、多くの偉大な思想家たちが、”全体性”という概念や 、自分の人生の中で”全体性”をどのように認識していくか、という ことを追及してきました。スイスの偉大な心理学者ユングは、東洋の 瞑想の伝統を高く評価していました。彼は、「東洋の冒険的な思想家 たちは、この問題(”全体性”への到達)を二千年以上も追求してき た。この点、西洋の方法論や哲学理論などの業績は、東洋の業績を前 にすると色あせたものになってしまう」と書いています。ユングは明 らかに、瞑想と”全体性”の認識との関係を理解していたといえます 。」
 この注意で明らかになったジョン・カバット・ジン氏の考えはこうである。

◆1>最初のステップ= MBSRのマインドフルネス・プログラム 

(無評価で観察)で有名。
このプログラムが 、 ”全体性”を直に体験するための扉。
瞑想トレーニング は、それらを理解するために意識的にふ みだした最初のステップにすぎない。

◆2>一生かけてするステップ
 一生の 仕事になる。

◆3>最終のステップ? ”全体性”や”内的な結びつき”を理解する
”全体性”は、生まれたときからもっていたもの。 ”全体性”という視野をもつことで 、今までとは違ったとらえ方がで きるようになり、分裂した思考も、恐怖、弱さ、不安なども乗り越 え ることができる。絶望さえも乗り越えることができる。
”全体性”や”内的な結びつき”を理解するのは、一生の 仕事。

◆4>いや、もっと、先がある?

 東洋哲学には、一生かけてする仕事があるのだが、それは何か。氏は、決して、ここも「無評価」の観察といっているわけではない。彼は、この部分には、MBSRでは言及していない。

 この部分は、東洋、道元禅師というのだから、日本の宗教者や学者が研究すべきであろう。最初のサイは投げられた。あとは、我々がひきつぐべきだろう。日本では精神的な問題が多いのだ。ジョン・カバット・ジン氏は、「分裂した思考も、恐怖、弱さ、不安なども乗り越 え ることができる。絶望さえも乗り越えることができる。」というのだ。これを無評価、放置していいわけがない。 特に、マインドフルネスを日本に紹介してここまで推進している研究者にしてもらいたい。専門家でない学生、一般人には難しいだろうから。
 なお、西田哲学によれば、この直前まで、「宗教」的ではないから、公教育やビジネスの場でも問題ないだろう。知ってのとおり、セクハラ、パワハラ、自己保身、忖度、迎合、いじめ、改竄、誹謗中傷、暴力、虐待、不正などで他者を苦しめるエゴイズムの心理を観察し評価し抑制すべきというのは、宗教ではない。

 大切な注意点は、次のステップの観察について、彼は言及していない。次のステップは、「無評価の観察」であるかどうかは触れてはいない。だが、無評価の観察ではない可能性が高い。 観察する時が、ひとりで瞑想する、ヨーガ、ボディスキャン、歩く、食べる場面を出た時に、広がるはずであろうから。 大乗仏教や道元禅師は、独断、偏見、我利、我執を観察して抑制すべきことを強調していたから。

 大乗仏教の大智度論は、一つところに留まるな、禅定の喜びに留まるな、といったのである。大智度論は道元禅師が尊敬した龍樹の著作である。道元禅師を代弁しているとみてよいだろう。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/2425
大乗仏教の専門家の態度
大智度論の無住処涅槃
 =自己満足に留まらない

https://blog.canpan.info/jitou/archive/2427
<第2> 禅定の喜びにとどまらず他者支援の行動を

https://blog.canpan.info/jitou/archive/1983
<シリーズ>うつ病や不安障害がなぜ薬物療法だけでは治らないのか、自己洞察瞑想療法(SIMT)で治るのか
(こういう苦悩が宗教的ではないステップであろう。MBSRを越えているが「全体性」の深いステップではなく、中間である。中間でも、浅いほうである。 ジョン・カバット・ジン氏がいうように、これらは改善支援ができるだろう。氏がいうのは、これよりも深いものだから。 がん患者、ALS患者、高齢者の新型コロナウイルス感染症の患者が死と闘う苦悩が深いものと思う。)

 なぜ、これまで多くの学者がそのような解釈を「学問」だとしてきたのだろうか? 
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4583
【目次】 コロナと共に生きる生活の中でのマインドフルネス


 深いマインドフルネス、自己の観察は、フランクル哲学と西田哲学が類似する

Posted by MF総研/大田 at 13:30 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL
(29)専門家=叡智的自己は自分を奢り他者を苦しめる傾向 [2020年08月03日(Mon)]

(29)専門家=叡智的自己は自分を奢り他者を苦しめる傾向

 前の記事でこう述べています。

 このあと、宗教レベルの自愛他愛である。上記ですまない無自覚のエゴイズムの人、深い苦をかかえた人がいる。宗教的レベルの前に、叡智的自己はエゴイストになりやすいことを確認しなければならない。

 自分の仕事、ボランティア活動など自信をもって世のためになっていれば問題ないかというと2種の問題がある。一つは自己の価値を愛するあまりに過剰自愛となり他者を苦しめるエゴイストである。残念であるが、こういう人は自分は苦しまないので、宗教レベルの自己探求をしようとはしない。 専門家のエゴイズムである。これを指摘する幾人かの哲学者を見てきた。オルテガ、板橋勇仁氏が、この問題に切り込んでいる。
 ひとつは当為価値を実現できていながら、主体としての自己自身を責める自己を否定する人である。


https://blog.canpan.info/jitou/archive/3616
★専門家のエゴイズム

 学問の裏付けがあるべきなのに、ある組織では十分議論せずに浅いものが多数決で決められることがある。一つには深いものを理解できない。 これを指摘したのが和田秀樹氏、榎本博昭氏、フランクル、オルテガなどである。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3669
★ 「学者は平気でウソをつく」和田秀樹、新潮社

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3853
★多数決で「正しさをゴリ押しする人」(榎本博昭、角川新書)
    ☆認知的複雑性が乏しい各種の専門家の「ゴリ押し」
     =複雑性を理解できないでイライラして、深いものを否定


https://blog.canpan.info/jitou/archive/4100
★オルテガ「大衆の反逆」
 大学人、宗教者

 浅い者の多数派が深いものの少数派を否定する。学問の形をとる。ベックの認知療法でいう、「選択的抽出」の手法を用いることがある。膨大な量の文献から都合のよい箇所を抽出する。重要な難しい部分は表だってださない。
 このようなことは、西田哲学がいう「組織の不正」に該当すると思う。フランクルのいう、やさしい、一つに還元して、多数決で全体に押し付ける手法であると思う。それに批判することは力関係で難しい。メンバーの中に学問の自由がないと苦悩するひとがいる。
 それを教えられる外部の人々も不幸である。深い問題の解決がない。外部の者のかなり多数もそのことを感づいている。

 もう一つは、少し深いもので、いかにも学問的に真であるようにみえるが、もっと深いものがあるものもある。このようなことは、板橋勇仁氏が指摘した。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/2221
★専門家の我執>(治療者・専門家にも我執、エゴがある。 「技術の熟達と共に惰性化・粗雑化が起こる」)

 大乗仏教の3つの核心があったが、現実の仏教からは失われていると、大竹晋氏により指摘された。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3930
★大竹晋「大乗仏教非仏説を越えて」

 現在の仏教学が、3つの核心がない解釈をしている学問というのが、浅い解釈なのかもしれないのだ。実際には、3つの核心もあるのかもしれない。深いものを読み取れないのかもしれない。

 我々は新型コロナウイルス感染症の流行で、精神的にもおいつめられている。仏教やマインドフルネスの学問でのアドバイスはないのだろうか。大乗仏教には「利他」、他者の苦悩を救済することがあったというが、現代の仏教はどうなのだろうか。

 大竹晋氏の大乗仏教の解釈は、現代の「共生」の思想につながる。大智度論もそうであるそれなのに、現代仏教や禅の「専門家」による学問的解釈が、共生でないのだ。宗教者中心なのだ、衆生といった一般の人のことが希薄なのだ。現代でいえば、宗教者も学者も一般市民からの 布施、税金、大学学生の学費などのおかげで収入を得ているのであるが、そういうひとたちへの指針、利他にあたるものがない解釈をするのだ。そういうのが本当に仏教、禅の古人が主張したものだろうか。

 専門家のエゴイズムは続くだろう。西田幾多郎が指摘したように、世界には独断偏見が充満している。叡智的自己として専門家は「自分の」現状の地位、身分、権力、収入に満足している。現状の問題を解決していくのは、まだ、これらを得ていない若手であろう。だから、時間的には、相当長くかかる。30年、50年である。

 せっかく人生価値をもって活躍していたひとがおいつめられていく。無限の喜びを持った叡智的自己として活躍していたひとたちが苦しんでいる。精神的問題の専門家がアドバイスできないのだろうか。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4583
【目次】 コロナと共に生きる生活の中でのマインドフルネス


 深いマインドフルネス、自己の観察は、フランクル哲学と西田哲学が類似する

Posted by MF総研/大田 at 21:06 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL
(28)存在価値(2)自愛ーその2 [2020年08月02日(Sun)]
2日、東京は292人、少し減少のようです。宮崎、沖縄は多い。危機感ありと「評価」する。東京は、「きのうよりは いい」と評価します。しかし、まだまだ衝動的な反応はいたしません。長い目でみて「いい」という行動を決定します。(評価するマインドフルネス)
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4236
★第4世代の認知行動療法?

(28)存在価値(2)自愛ーその2

 前の記事の続きです。

 自分が家族から愛されているのに、当為価値で悩む人がいるだろう。 一方、愛されているのに、自己を愛することができない人もいるだろう。自己を肯定できない、自己を愛することができないのはつらいだろう。

 西田哲学にヒントを求める。西田は、自愛が他愛だという。 次の記事でみた。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/1935
★他愛が自愛、真の自愛が他愛
     「真の愛というのは自己自身を否定すること によって自己自身を肯定することである、自己に死することによって他に生きることである。」
     実は、これは、自己の絶対否定であるから、超越レベルの自愛他愛である。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/2455
★自愛と他愛  =真の自愛あるところには暴力はない

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3627
★大悲ゆえの当為 = 自愛は他愛・他愛から共生へ

 これは、超越(宗教的)レベルである。しかし、これをヒントにして、宗教以前の自愛はどうすればいいか考える。自愛のひとは、叡智的自己である。これは宗教レベルではない。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/2991
★叡智的自己

 自分が選んだ人生価値のために働いてそれを実現していくのが叡智的自己であり、無限の喜び、幸福である。叡智的自己は自己を愛する。
 従って、自愛できるようになるためには、宗教でないならば、人生価値を見つけてそれを実現してその価値を愛することでなければならない。人生価値は、(宗教的でないならば)対象的である。すなわち、仕事、ボランティア活動などがある。それが「他」である。価値が「他」である。他愛できれば、自愛となる。(超越でない場合であり、上記の西田のさすものではない)

 こうした西田哲学によれば、心の健康な人は、仕事などの当為価値を実現できて真に喜びを得るならば、自愛できる。

 心が健康であればという条件をつけたのは、当為価値があっても自愛できないことがあるかもしれない。上記の記事で触れているが、パーソナリティ障害や特別の事情があって、自己を肯定できない場合があるだろう。
 また、マインドフルネスSIMTで支援させていただいた経験からみると、当為価値の発見でも小さなものから始めていくことになる。自己肯定感がない人が、大変大きな当為価値をすぐ実現できることはまれだろう。

 実際には、小さなことで自分ができて他者のためになれることをみつけて行動する。それが「他」だ。そのことがきるようになると、喜びを得る。他愛だ。それをできると自分を肯定できるようになる。だから、多くの哲学者がいうのだ。何か見つける、人生価値をみつけると幸福になると。それが自愛となる。それでも、自愛できなければ、非常に深い精神療法や宗教的な方向がある。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4459
★幸福の哲学

新型コロナウイルス感染症の感染者の流行

 新型コロナウイルス感染症の流行で、喜んで提供していたこと、喜んで参加していたことが制限された。これは、不快だと評価する。うつ病になる人、虐待されるひとが増えるかもしれない。不快だと評価はするが、価値実現の反応をしていくのが、評価の世界の中でのマインドフルネスといえる。

 このあと、宗教レベルの自愛他愛である。上記ですまない無自覚のエゴイズムの人、深い苦をかかえた人がいる。宗教的レベルの前に、叡智的自己はエゴイストになりやすいことを確認しなければならない。

 自分の仕事、ボランティア活動など自信をもって世のためになっていれば問題ないかというと2種の問題がある。一つは自己の価値を愛するあまりに過剰自愛となり他者を苦しめるエゴイストである。残念であるが、こういう人は自分は苦しまないので、宗教レベルの自己探求をしようとはしない。 専門家のエゴイズムである。これを指摘する幾人かの哲学者を見てきた。オルテガ、板橋勇仁氏が、この問題に切り込んでいる。
 ひとつは当為価値を実現できていながら、主体としての自己自身を責める自己を否定する人である。


https://blog.canpan.info/jitou/archive/3616
★専門家のエゴイズム
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4583
【目次】 コロナと共に生きる生活の中でのマインドフルネス


 深いマインドフルネス、自己の観察は、フランクル哲学と西田哲学が類似する

Posted by MF総研/大田 at 16:32 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL
(27)存在価値(2)自愛ーその1 [2020年08月01日(Sat)]
1日、東京は472人。「悪い」と評価します。「嫌だな」と思い感情が起きる。しかし、衝動的な反応、価値崩壊の行動はしません。(評価するマインドフルネス)
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4236
★第4世代の認知行動療法?

(27)存在価値(2)自愛ーその1

 次の記事で、当為価値ではなく、存在価値をみた。家族を愛し、家族から愛されることは、存在価値であった。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4603
★存在価値(1)愛し愛される

 家族から愛されているという実感があれば、このうえもなく幸福感があり、生きている喜びがある。だが、それがない場合があるようだ。自分を愛することができない。(現在、暴力や虐待がある場合は、別に論じる必要がある)

 昔、暴力、虐待があり、今はそれから解放されているが、愛される存在がまだいない。そういうつらい過去はないが、虚無感、孤独感を感じて幸福だとは思えない。抑うつ状態が長く継続している、生き甲斐がなく自己を愛することができない、など色々な事情があるだろう。自分を愛する気持ちがない。それゆえ幸福とは思えない。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4459 (幸福に関する哲学)

 そこから抜け出すにはどうしたらいいだろうか。自己とは何かという探求になる。 ヒントを西田哲学に求める。西田哲学のうち、「実践哲学序論」の論文があり、これにそって実践していくことになる。

★自覚=自己意識
 自己が意識されるが、それは思考作用の対象ではない。 「自己の意識」を「自覚」という。常識的な意味とは違う定義である。思考された自己についての概念ではない。アクセプタンスコミットメントセラピー(ACT)でも、3種の自己について観察するという。(西田哲学とは違うところがある)

 小学生の頃、中学生のころ、あの頃の、自己意識と同じだ。だから、思考されたものではない。

★思考で考えられた自己(概念としての自己)
 自覚と思考された自己と混同して、誤解されて悩む。
 「自分はつまらないこういうものだ」というのを自分だと思って、それを嫌悪するかもしれない。それは勘違いである。 西田哲学によれば、思考作用も思考された内容もともにそれを包む場所がある。場所に思考内容が映っている。それは真の自己ではない。
 作用と内容と場所は、この記事にある。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3441

 考えた内容を自己だとみなして嫌悪するのは勘違いである。勘違いであるが、嫌悪の思考を起こすので、不快な感情が起こり、抑うつをもたらして苦痛を感じる。いよいよ、心の場所(対象側、ノエマ)に不快、嫌悪が充満して、自愛がなくなる。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3439
★自覚

 自己を意識するのは、「自己内容を思考すること」ではない。自己は作用を起こす主体であって、自己を思考していない時にも働いている。思考に没頭している時には、思考の内容が心の場所を占領しているからである。
 一方、ゆっくり冷静に、考えている時、同時に、自己が意識される。思考内容は自己についてではない。そういう自己を意識するのが自覚である。これを嫌悪することはできない。嫌悪の対象は思考された対象(ノエマ)である。思考レベルの階層である。その時にも自覚がある。それは対象的ではない、ノエシスである。

 自覚は、ゆっくり行動している時にもある。歩いている時、自覚がある。自己について考えていない。すなわち、自覚は思考の内容ではない。
 日本のマインドフルネスは、こうした観察をする。

(続く)


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【目次】 コロナと共に生きる生活の中でのマインドフルネス


 深いマインドフルネス、自己の観察は、フランクル哲学と西田哲学が類似する

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(26)感染症の流行によって、現実の社会では「評価」の連続であることが明白 [2020年07月31日(Fri)]

(26)感染症の流行によって、現実の社会では「評価」の連続であることが明白

 東京の新規感染者数は、463人で, 沖縄は71人である。 当たり前だが、現実の社会は、評価ばかりである。 ブームとなった「マインドフルネス」が「無評価」を強調してきたから、これの適用場所を再検討することが必要ではないかと思うからである。
 こういうことをいうと、「マインドフルネス」の推進者は、不快感をいだくろう。ほら、「評価」しておられるのだ。そういう批判は「嫌い」だという評価だ。そういういいかたは、「悪い」という評価をするから、不快感が起きる。

 「マインドフルネス」の推進者の一人である、アメリカのリネハン(2007)によれば、こうである。

 リネハンは、マインドフルネスの一つとされる弁証法的行動療法を開発した人である。マインドフルネス・スキルは、相互に関連する二つの集合から構成されるという。「何を(what)スキル」と「どのように(how)スキル」である。

「何をスキル」=マインドフルになるために、何をするか
「どのようにスキル」=そうした行動に、どの様に関わるか


「何をスキル」
 「何をスキル」は、次のスキルである。
(1)(個人の内外に)現在あるものを観察したり、それらに思いを致すこと、あるいはそれらに気づくこと。
(2)まさに今観察したことを、適切な言葉を用いて表現すること
(3)自己意識的な精神活動をやめ、行うべき行動(感じること、考えること、気づくこと、振る舞うこと)に十分に関わること、つまり、余計な言語化(例えば、言い訳、判断、評価)から解き放たれること、を含んでいる。これは、そうした活動(観察すること、叙述すること、関わること)のうち、人が一度に行えることは一つしかないという考え方に基づいている。

「どのようにスキル」
 「どのようにスキル」は、次のスキルである。
(1)無評価的になること、あるいは
 正しいー誤り、
 すべきーすべきでない、
 良いー悪い
といった判断を行わないこと  

(2)その瞬間の中で、注意を集中させる対象は一つだけとすること、
(3)個人の価値や人生の目的と一致する行動や活動にエネルギーを注ぐこと

 朱記の部分が、有名な「無評価」である。

 このように多数の感染者が発生する状況は「よくない」と評価する。 3密を守らないところを「悪い」と評価する。そういうところにはいくべきではないと思う。不要不急の外出を自粛すべきだという。当然の反応である。

 マスクをしていない人と対話するのは嫌だ。密接してマスクしないで対話するのは「悪い」。マスクをするべきだ。
 多くの県の人が、東京の人はくるべきではないと公言している。 岐阜県の人は、名古屋、愛知県にいくべきではないという。

 PCR検査数が少ないのは「よくない」「ふやすべきだ」というひともいる。こう主張するのは「悪い」のか。

 「隔離病床を増やすべきだ」

 旅行、エンターテインメントに参加できないのは嫌だ。そうではない「自粛すべきだ」

 こんな時期に、あった時に手をさしのべてくるひとがいる。もとは、親愛のあかしであったが、今は「悪い」行為、すべきでない行為だ、と思うひとは、嫌悪の感情を起こす。当然だ。
 コロナについての理解がない人は、そういう時に、思わず手をひっこめた人に、怒る。そんなことが起きる。

 とにかく、「嫌い」「よくない=悪い」の声が渦巻いている。「すべき」「すべきでない」という声が渦巻いている。それは当然ではないか。

 「評価」はするが、自己他者を不幸にしない言葉、行動をしていこうというのが筋ではないのか。

 医師や知事が、こうすべきだ、すべきでない、自粛すべきだと主張する。抑制しているが、内面には不満、怒りの感情がある。

 このような状況からわかるように、瞑想の場でない、現実の社会は「評価」の連続だ。評価しないと新型コロナウイルス感染症の感染をストップできない。

 評価は、コロナのことばかりではない。物サービスは品質のよい悪いが評価される。 顧客は、企業の品質やサービスが「悪い」と評価して苦情をいう。当然である。 スポーツ、芸能、芸術も評価される。上司は部下を評価する。教師は学生を評価する。 家庭でも職場でも、 色々な提案をするが、評価されて却下される。

 こういうふうにみると、MBSR,MBCTも含めて欧米の「無評価」の「マインドフルネス」は、治療したい人だけが、瞑想の場だけで行う観察だろうとみなしていいのだろうか。ビパッサナー瞑想、東南アジアの仏教の専門家も、無評価を認めるのだろうか。

 日本のマインドフルネスSIMT(自己洞察瞑想療法)は、行動時自己洞察瞑といって、瞑想でない時は、常に自分の感情の背景にある本音(嫌悪、執着、すべきすべきでないの基準)が何であるか観察する。現実の場では、必ず評価が起きる。だから、感情が起きている。
 感情を起こさないひとはいない。評価しているのだ。だが、その評価、本音のままに、即座に不満、不快、怒りを含んだ言葉や行動は抑制すべきだ。目的、価値を実現する反応はどうするかを瞬間的に評価して、表出すべきだ。
 そう、当たり前の反応のしかたの理論だ。しかし、理論どおりに実行している人は少ない。この当たり前のことを実行しないひとが多いのだ。セクハラ、パワハラ、差別、いじめ、権力への忖度、迎合、誹謗中傷、自分に批判的なひとの排除、・・・。
 被害者となって不幸になるひとがいる、自殺するひとがいる。
 社会には、やってはいけないことがある。「すべき」「すべきでない」ことを学習しなければならない。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4236
★第4世代の認知行動療法か? 評価する現場の評価する観察の研究も必要では?
 なぜ、広まらないか、そこにある本音は?

<文献>
マーシャM・リネハン(2007)『境界性パーソナリティ障害の弁証法的行動療法』大野裕監訳、誠信書房.


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Posted by MF総研/大田 at 22:10 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL
(25)コロナウイルス感染症のせいでうつ病、自殺の増加のおそれ=厚労省調査へ [2020年07月29日(Wed)]

(25)コロナウイルス感染症のせいでうつ病、自殺の増加のおそれ=厚労省調査へ

 新型コロナウイルス流行に伴う外出自粛や休業要請によって、うつ症状など精神的な 不調を訴える人がでているかもしれないと、厚生労働省がメンタルヘルスの全国調査を実施することになったという。

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO61932630X20C20A7CE0000/
★日経新聞

 実際、いくつかの都県で、6月は昨年同月比で自殺が増加した。

 警察庁の自殺者数の月別の推移をみたところ、 5月までは、ほぼすべての都道府県で同月比で、減少していた。これで推移すると、今年の自殺者数が2万人以下になると思われた。しかし、・・・

 東京都の自殺者数は、1月から5月までは、同月比で減少していたが、昨年6月は146人であったが、今年は182人であった。ほかに、50人以上の県で増加したのは、兵庫県、福岡県、千葉県であった。やはり、コロナによって苦悩する人がうつ病になって自殺なさったのかもしれない。

 新型コロナウイルス感染症の感染者はまた増加傾向にあるので、倒産、解雇などで悩む人が増える可能性があり、うつ病、自殺が増えるおそれがある。対策をとる必要がある。

 うつ病については、精神科や心療内科で薬を処方してもらって服用すれば軽くなる可能性があります。また、マインドフルネス瞑想療法士もアドバイスできるので、相談していただきたい。

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★相談できるところ

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4601
★死にたくなるのはうつ病のせいです。うつ病ならば治る可能性があります。


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Posted by MF総研/大田 at 21:36 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL
(24)現実の世界は評価の世界、そこで何をどう観察するか [2020年07月28日(Tue)]

(24)現実の世界は評価の世界、そこで何をどう観察するか

 欧米の「マインドフルネス」は、大体
(1)ひとりでいる時、
(2)主に感覚を、
(3)無評価で
観察するように、ジョン・カバット・ジン氏が定義した。MBCTの観察手法である。それで、最も効果をあげたのは「痛み」という感覚の病の軽減であった。一人でいる時にも起こるし、対人関係ではないので、ほかの複雑な意識を観察することは無用であるので、ひとりで実践する手法であった。ヨーガ瞑想、ボディスキャン、正座瞑想が中心である。痛みで苦しむひとが多いので、大変に大きな貢献をした。それは、それで多大な貢献であるが、古来、東洋,および、特に日本では、もっと広く深く自己を観察してきた歴史がある。

 東洋仏教、日本仏教が強調したのは、エゴイズムの心理の観察である。エゴイズムは、「痛み」だけではなく、社会の人々に広い苦悩をもたらす。現代の精神社会問題である、パワハラ、セクハラ、アカハラ、暴力、虐待、権力により支配抑圧、組織内の学問思想の抑圧、弱者少数者の差別、人命の軽視などなど数々の苦悩がある。みな、エゴイズムの心理から起きる。だから、大乗仏教や日本仏教がこういうエゴイズムの心理の観察抑制をするように仏教者に要請した。経典や語録では「煩悩」という。執着、嫌悪、偏見などが列挙されている。道元禅師は己見我利我執という。

 大乗仏教、道元の仏教、西田哲学などを基礎にした、日本的マインドフルネス、SIMTでは、こういうエゴイズム、煩悩を「本音」「本心」と名づけた。

 無評価のマインドフルネスを主張する専門家も、現実の世界では、必ず本音で「評価」している。感情がおきるところに評価がある。評価しないと生きてゆけない。現状に不満という評価をしなければ、社会での問題を改善する欲求も起こらない。

 ここでは、観察すべき、エゴイズム、執着、嫌悪、偏見などを発動する意識作用の階層でごく一部を概観する。西田哲学によれば、意識作用の浅いものから、判断、感覚、思考、行動(意志作用)、行為的直観、自覚的直観(創造的直観)となる。

 西田哲学によれば、すべての人は叡智的自己として行為的直観を用いている。継続的な人生価値をもっていてそれを実現する意識作用です。生産的な価値(仕事、物サービスなどの提供)と消費的な価値(衣食住サービスなどの消費、スポーツ芸能などのファン)がある。その継続的な人生価値を実現するために、短期の目的を設定して、意志作用を行使していく。
 こういうすべての意識作用を用いる時に、エゴイズム、本音の心理が発動されて、他者を苦しめる。うつ病に追い込むし、自殺にも追い込む。本音が自分に向かって、自分を苦しめることもある。

 そこで、大乗仏教、日本の仏教(特に道元禅師)は、本音に該当する心理を観察することを求めた。MBSRの定義にならうと、大体、次のようになるだろう。

(1)ひとりでいる時だけではなくて、生産、消費のすべての時に
(2)感覚だけではなくて、すべての意識作用を用いる時に、
(3)無評価ではなく、自分、他者を苦しめるようなエゴイズム、本音を発動させていることを観察。そして、他者、自己の価値(当為価値、存在価値)を崩壊しないような言葉、行為を発する。発語、行為を表出する瞬間の直前にエゴイズムの心理、本音を自覚して、瞬間的に表出を変更すべきである。道元禅師は己見我利我執を抑制するという。西田哲学の実践論では、至誠で行為するといい、物となって見、物となって考え、物となって働くという。

 感覚ばかりではなくて、思考内容、行為にもエゴイズムが発動される。行為的直観にもエゴイズム、本音が発動される。深く観察すれば、自覚されるものである。エゴイズム、本音には、感覚レベル、思考レベル、行動レベル、価値(行為的直観)レベル、人格(生命、存在価値)レベルがある。こういう階層において、各人に独特の執着、嫌悪、行動基準がある。 思考レベルは、偏見が典型的である。行為レベルは,〇〇ハラスメントが典型である。価値レベルでは、地位権力のあるものの弱者の抑圧、学問の形をとった見解の押し付け、学問的な批判をする人の排除などが典型ある。国籍、人種の違いによる差別、人命軽視、難病の人の生命軽視などが、人格レベルのエゴイズムの発動である。
 仏教にも、マインドフルネスにも多種の思想、価値の違いがある。ファンがそれぞれいるので、みな共生すればいいのに、多数派となって、少数派を差別、排除するエゴイズムを発動するものがいる。少数派のスキルでないと救済されない苦悩があるのに、排除されると、救済されるべき苦悩を持つ人の救済を妨害してしまう。社会的な損害になることを理解すべきである。  だから、こういう方針で「観察」するマインドフルネマインドフルネスも「科学的」「学問的」であるとして、研究すべきなのである。哲学的である。
 無評価の感覚の観察の研究はすすんだから、新しい領域の応用効果の発見は飽和状態に近いかもしれない。しかし、評価のマインドフルネスは、まったく研究がすすんでいない。うつ病の治癒(再発予防ではなく)やPTSD、パニック症、過食症、DV、虐待などの治癒のために臨床試験をやろうという精神医学者がまだおられない。自分の人生価値領域で試験してみようという専門家の実践はごく少数である。改善事例は多数報告されてきたが、臨床試験はまだである。無評価だけが欧米から紹介されるので、日本のものはとるにたらないと「評価」されているのであろう。現実の世界は評価の世界である。ポージェスがポリヴェーガル理論でも指摘したように、無評価の観察は、評価の現場にはふさわしくない。それを越えた観察を研究開発すべきである。
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 深いマインドフルネス、自己の観察は、フランクル哲学と西田哲学が類似する

Posted by MF総研/大田 at 20:29 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL
(23)〇〇警察=自分の評価基準で激しく反応する= 警察じゃあるまいし法律違反でもあるかのように攻める人 [2020年07月27日(Mon)]

(23)〇〇警察=自分の評価基準で激しく反応する
 =警察じゃあるまいし法律違反でもあるかのように攻める人

★感染防止に関する本音が加わった
 本音は、各個人が内面に持つ評価基準です。執着(好きでたまらない)、嫌悪、行動基準などです。現実の家庭、職場、学校、インターネットの世界、生活の場すべて、評価の世界です。最近、新型コロナウイルス感染症の流行のために、新しい本音が形成されました。

 家庭では、近所を歩く時は、買い物の場所では、飲食店ではとかすべての場所で、コロナの感染防止のために「こうすべきだ」「こうしてはいけない」という規範が発表されたので、各個人が内面に、その基準をもっています。ただ、かなり個人によって違いますし、強弱があります。自分や他者に厳しく要求するひとがいます。

★コロナウイルス感染症に関する本音
 たとえば、歩いている時に、向こうから人が歩いてきたが、マスクをしていません。それを見て、「嫌だな」と思って、少し離れてすれ違うなら本音があるわけです。感染防止の規範として、人が色々な評価基準を発動させることがわかったはずです。しかし、包容力のある人は、状況や自分が激しく反応した場合の影響、結果などを評価して、過激な反応はせずに、やりすごします。そうではなくて、どうしても注意したい時には、おだやかな言葉態度で依頼するでしょう。

 しかし、他者に対して、怒って、過剰に反応して他人を批難して、「こうしなさい」「そうするな」という過激な反応をする人がいるそうです。「〇〇警察」という用語が現れました。自粛警察、マスク警察、消毒警察、SD(ソーシャルディスタンス)警察などがあるそうです。 こういう評価基準によって影響された言葉や行為を過剰に反応して押し付ける人は、他者を苦しめます。住みにくい社会にしてしまいます。

 かといっても、決して無評価ではありません。誰もが必ず自分の本音で評価して、内面に感情を起こします。感情は起こすが、それによる言葉や行為はどうあるのが健全であるかを評価して、発出します。自分の感情にある本音は何かを観察してその影響を評価します。発出しようとする、または、してしまった言葉や行為の影響も評価します。そうして、他者を苦しめず、自分の価値も組織の価値も他者の価値も崩壊しないように、みんなが納得できるように、つまり「共生」ですね。 そういうふうな心を観察するのが、昔からあった、日本の「マインドフルネス」、自己洞察です。
 一人で呼吸法や瞑想、坐禅をする時には、無評価に近いありかたでよろしいです。しかし、厳密な方法もあります。

★本音の種類
 感染予防のための生活様式から形成される本音のほかに、色々な本音があります。日常生活一般の規範、家庭のルール、産業・仕事に要求される規範、学問的宗教的な規範、学習した知識、芸術、指導者、国籍、人種などから本音が形成されることがあります。それから、自分が正しいとする本音、自己中心的な傾向などです。こういう経験は、個人の人生に肯定的な影響を与えることもあるのですが、自分や他者を苦しめることもあります。〇〇ハラスメントは、みな迷惑な本音によります。 各人の育てられかた、経験のすべてから形成されます。みな違っていますので、対人関係において、本音が衝突して、感情を起こします。その反応のしかたが、過激であると、不和、離婚、いじめ、排除などに発展するきっかけにもなります。

 その個人の、とても重要な生きがい(価値領域)の場所で、本音と食い違うことが多くて、悩む思考を繰り返すと、うつ病になることがあります。

 欧米のマインドフルネスは、宗教ではなく、「科学的」だと「評価」するひとがおられるようですね。「公理」「定理」が「定義」がありますね。それに合う、合わないの「評価」がありますね。そして、「宗教」についての定義がありますね。その定義は、西田哲学やフランクルの定義とは違うようですね。

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無評価観察のマインドフルネスは、評価の場では両立しない
    =第3世代=安心安全な場所で、無評価の観察
  そこで、評価の場でのマインドフルネスは第4世代?


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