• もっと見る
« 人が怖い | Main | 新型うつ病»
日本には深い人間哲学があります  〜心の泉を知らない不幸 [2026年06月03日(Wed)]

日本には深い人間哲学があります  〜心の泉を知らない不幸

https://blog.canpan.info/jitou/archive/2565
★東山魁夷画伯
 日本文化の背景にあるもの
 心の泉を知らない不幸

https://blog.canpan.info/jitou/archive/5815
★精神社会問題が充満する日本

 東山魁夷画伯は、芸術家ですが、深い人間哲学を感じています。日本には、こういう深い人間哲学を教える芸術家、小説家などが昭和の時代にはたくさんいました。
 「新しき村」を提唱した、武者小路実篤もいました。この村も住民が少ないとの報道が最近ありました。この小説家も深い人間哲学を伝えています。

 自己とは何か、自己の意識の働き、心理作用を深く観察していくことになります。アメリカの人は最近になってようやく、そういう自己の観察の有効性を「評価」し始めたのです。
 「マインドフルネス」(第一世代、無評価で観察)が、提案されて、うつ病、PTSD、パーソナリティ障害などの治療法になるかどうか、臨床試験まで行われました。
 しかし、結果は、かんばしくありません。

 日本には、東山魁夷画伯の記事で述べたように、深い自己表現があります。西田哲学が、場所の論理を用いて、自己の深さを論理的に説明しました。その実際への応用がご子孫によって期待されましたが、未だに実現していません。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/2367
★西田哲学は読まれるだけでは価値がない
 =西田幾多郎の孫、上田薫氏

https://blog.canpan.info/jitou/archive/2476
★西田哲学は「観想主義」ではない、現実の社会での行為

 日本の宝が活用されていないのです。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/5450
★西田哲学は先細り

 こんなに残念な状況です。
 日本人でも、西田哲学の内容を理解していないのではないでしょうか。実に残念です。

 「マインドフルネス」は、第1世代は、倫理的な批判が起きています。 無評価観察のマインドフルネスは、子ども、学生には教えないほうがいいのではないと「評価」が起きています。
 しかし、うつ病の精神療法は世界的な課題です。精神療法の研究が求められます。 アメリカのひとは、もっと効果的な自己観察を模索すると思います。また、日本は、外国から輸入するのでしょうか。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/2062
★再発防止のために生涯自己洞察 (2010/11/14)

https://blog.canpan.info/jitou/archive/5876
★日本における「学問」に疑問

Posted by MF総研/大田 at 08:04 | マインドフルネス心理療法 | この記事のURL
人生における「意味」と「価値」(2) [2026年03月17日(Tue)]
https://blog.canpan.info/jitou/archive/2270
◆震災後、数年続く、うつ病、PTSD、自殺
https://blog.canpan.info/jitou/archive/5866
◆非定型うつ病が薬物療法だけでは治りにくい
https://blog.canpan.info/jitou/archive/1891
◆深刻なうつ病が治りました

ヴィクトール・フランクル
〜それでも人生には意味がある
〜人生における「意味」と「価値」(2)

 テレビ放送の3回目のところで、フランクルの思想の「意味」を見ました。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/5788
◆豊かさの中の「空虚」 〜「意味」とは

 フランクルの理論を、次のように紹介しています。

 「精神的次元の力を使って「意味ある行動」ができれば、 私たちの気持ちは満たされ、生きる意味を感じられるようになります。」(注1,p71)
 「自分にとってだけ価値があることではなく、普遍的に、人類全体にとって価値のあることでなければ、ロゴセラピーにおける「意味」とは言えないのです。」(注1,p71)

 西田哲学が同様のことをいう言葉を紹介しています。

西田哲学における「意味」と「価値」

 第4世代の認知行動療法として位置づける「自己洞察瞑想療法」(SIMT)は、人生を生きていく上でつらい出来事、不快な出来事が起きるのは避けることができないから、そういうことが起きても、「価値崩壊の行動」をせずに、「価値実現の行動」を選択するように、その精神作用のトレーニングをします。そのように構成した実践を一年近く実践していると、うつ病、不安症、PTSDなどが完治する人がいます。SIMTの背景にあるのは、後期西田哲学の実践論ですが、それを具体化したものです。

 西田哲学(後期)では、すべて人は、次の精神作用を用いるといいます。場所の論理で説明しています。浅い作用から順に、判断作用、感覚、思考(思惟)、意志作用、行為的直観、自覚的直観です。行為的直観まで宗教的でなく、すべてのひとが行使しています。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/5807
【目次】図解〜自己の意識の働き(作用)

 感覚、思考、意志作用は、総称して「意識」「意識作用」です。

 西田哲学の原文をもう一つを紹介します。

 「それでは価値的実在の世界とはいかなるものであるか。私はそれを行為の世界と考えることができると思う。意志の客観化せられたものが行為である、意志の対象となるものは行為そのものである、意志は行為そのものを目的とするのである、単なる客観的事実を目的とするのではない。意志が客観化せられるということは、意志の内容が叡智的自己の内容となることである。意識的自己は叡智的自己の影を映すものであり、意志に於いてはその根底に於いて既に叡智的自己が見られなければならぬ。しかし意志に於いては、なお、意識的自己の立場を脱せないが、行為に於いては、意識的自己が自己自身を失って叡智的自己の立場に入るのである。故に行為の内容と考えられるものは、すでに叡智的ノエマの内容でなければならぬ、それが価値意識の対象と考えられえるゆえんである。」(『自覚的一般者に於いてあるもの及それとその背後にあるものとの関係』西田哲学旧全集5巻p338、岩波書店)

 フランクルと西田哲学は類似します。フランクルは、精神の働きで、その人独自の「意味ある行動」をとります。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/5791
★精神、意味ある行動

 西田哲学では、「意味ある行動」のことを「価値実現の行動」といいます。同じことを言っているようです。「価値実現の行動」をする作用を西田哲学では「行為的直観」といいます。この時には、その行動の内容に専念するので、遂行している「自己」が意識されません。このことを、フランクルは「精神的無意識」といいます。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3194
★フランクルの「精神的無意識」

 「無意識」というと、失神しているような響きがありますが、全く違います。人の働きには、3つの局面が議論されます。

1)働き(作用)=働き、そのもの。見る、聞く、考える、など。
2)内容(対象)=働きが作りだすもの。映像、音、思考が作る概念・思想など。
3)主体=作用を起こすもの。通常、「自己」という意識。

 ゆっくりと、見たり、聞いたり、行動したりしている時に、「自分」がそうしているかのように意識されますが、それが「主体」です。
 しばしば「自分が生きているような」感じをすることができます。主体です。自分が生きている、見ている、聞いている、という感じ。
 行為的直観(フランクルの「精神作用」)の真っ最中は、「自己」「自分」が意識されない、というのが、人間共通のありさまだということです。これをフランクルは「精神的無意識」というのです。
 「死」の不安、「死」の恐怖は、この「生きているという感じ」がしている主体が消滅するのだということです。初期仏教の六道輪廻や現代のカルトが脅かすのは、この意識される「自己」を「魂」といい、肉体が死んでも「魂」は、地獄や天国にいくという思想です。西田哲学には、そのようなものはありません。

 以上のことを前提にして、上記の西田哲学の文を読むと、次のような趣旨です。

 価値実在の世界は、自己が行為する世界である。この行為は、価値への行為。意志は、自己が欲求を起こして「目的」を達成するために行動する。目的が達成されると、世界にその状況が出現する。そのことを「意志の客観化されたもの」といっている。
 「意志の客観化」せられたものが行為である、意志の対象となるものは行為そのものである、意志は行為そのものを目的とするのである、単なる客観的事実を目的とするのではない。
 「単なる客観的事実を目的とするのではない」というのは、自分が価値あるとみなして欲求の対象となったもの。自分の関係ない事実ではない。
 価値への行為に移ると、「意識的自己が自己自身を失って」、すなわち、行為そのことに専念するので、行為につれて変化していく内容・対象だけを意識していて、「作用」も自己も意識されない。そういう行為を行為的直観という。その行為が終ったあと、反省すると、「今の行為は自分」が行為したものだという感じがする。それを「叡智的自己」という。
 そのような、自分が選択した人生の価値への行為の内容を「叡智的ノエマ」という。つまり、行為のまっさい中は、仕事そのものなど(ノエマ)だけが意識されており、作用(行為的直観)も自己(主体)も意識されない。

 「価値」は自分が選択した仕事や家族(配偶者)などを遂行していくことで、満足、幸福を得るものです。だから、精神療法としては、次のことがいえます。
 患者が、何かのきっかけで「価値実現の行為」ができない精神状態になっているのです。
    (そこには、脳神経生理学などで説明出来るような事態(たとえば、前頭前野の機能低下など)も起きているかもしれない。外から観察される状態としては、価値の実現を妨げる症状、回避、逃避、自傷、依存、希死念慮などがみられる。本人は、苦痛を感じている。)
 うつ病や不安症などを「治療」する精神療法として、認知行動療法(CBT)があるが、認知のしかた、行動のしかたを変えることによって、症状や価値崩壊行動が改善するのです。

 SIMTの場合には、西田哲学の「価値実現への行為」、すなわち、行為的直観へのしかたを習得できるようにトレーニングを構成して、患者に実践するように指導したところ、症状や問題行動が改善したのです。この日々の繰り返しの実践が脳神経に影響したのだと推測しています。価値崩壊の行動ではなくて、価値実現の行動をとることを前面にした、どちらかというと「行動を変える」ことを中核にした「行動療法」になると思います。
 「無評価で観察のマインドフルネス」をとりいれた認知行動療法(CBT)を、第3世代の認知行動療法(CBT)といいましたが、SIMTは、それを超えた認知行動療法ですので、第4世代認知行動療法(CBT)に位置づけます。第4世代CBTは、SIMTに限りません。アメリカの精神科医は、第2世代までの認知行動療法では治らない精神疾患が多いので、「マインドフルネス」に期待したのです。開発されたものを第3世代CBTと総称しましたが、アメリカの人たちも第3世代のCBTの限界と欠点がわかり、批判も起っているので、第4世代のCBTを模索中でしょう。
 ここでも、「マインドフルネス」の視点からは、日本は遅れるのでしょうか。

◆ロゴセラピーの専門家にお願い
 フランクルの哲学と西田哲学はほぼ同じですが、ロゴセラピーと自己洞察瞑想療法SIMTは、精神療法としては異なる様相をみせています。日本ではフランクルのロゴセラピーの専門家が多いようですから、ロゴセラピーとSIMTを融合させれば、自殺をもたらすうつ病について、非常に治療効果の高い精神療法ができるかもしれません。SIMTの専門家は非常に少ないので、ロゴセラピーの専門家にも研究開発していただきたいです。うつ病の治療法が十分でないことは、世界的な問題ですから。

【注】

(注6)SIMT=Self Insight Meditation Therapy。自己洞察瞑想療法。 公刊された書籍は、3つです。ほかに、マインドフルネス瞑想療法士の 講座に使用されるテキスト が多数あります。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/5348
★自己洞察瞑想療法、SIMT ブームになった「マインドフルネス」(第1世代マインドフルネス)とは、違います

(注7)ブームの「マインドフルネス」は、各人の意味、価値の場面での観察ではありません。「無評価」ですむ、瞑想時、歩く時、食べる時です。「身体」レベルの浅い意識の「自己距離化」です。「自己超越」の場面が多い人生局面では、できません。外国では、社会問題の見てみぬふりの助長など批判が起きています。この放送の第3回目のロゴセラピーの説明(自分を見すぎるな)を見ても、そのような印象を受けます。それを知ったうえで、限定した場面だけで行うべきです。



https://blog.canpan.info/jitou/archive/5750
【目次】ヴィクトール・フランクルと後期西田哲学の実践論
 〜それでも人生には意味がある
Posted by MF総研/大田 at 16:18 | マインドフルネス心理療法 | この記事のURL
人生における「意味」と「価値」 [2026年03月15日(Sun)]

ヴィクトール・フランクル
 〜それでも人生には意味がある
 〜人生における「意味」と「価値」

 テレビ放送の3回目のところで、フランクルの思想の「意味」を見ました。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/5788
◆豊かさの中の「空虚」 〜「意味」とは

 フランクルは、「心理的」ではなくて、「精神的」な力により、「意味ある行動」ができれば、生きていくことができる、すなわち、自殺しないといいます。

 「本能的な欲求から自由になった精神的次元の力を使って「意味ある行動」ができれば、 私たちの気持ちは満たされ、生きる意味を感じられるようになります。」(注1,p71)

 意味ある行動ができれば、満足感という快、陽性の感情が起きるので、生きている満足感が得られると言うのです。自殺と無関係になります。

 「意味」とは、何でしょうか。

 「意味とは、「私は今、この状況で何を求められているのか」あるいは「今、この世界に対して自分は何ができるのか」という問いへの答えです。 その答えは、いつの時代の誰にとっても価値のあることでなければなりません。」(注1,p71)
 「自分にとってだけ価値があることではなく、普遍的に、人類全体にとって価値のあることでなければ、ロゴセラピーにおける「意味」とは言えないのです。」(注1,p71)

 これが「意味」ですから、その瞬間に、職業としていることや家族のために行動すること、ボランティア活動、といわれるもの、一般的に「価値」といわれるもののためにできること、にあたります。(このことは、西田哲学でも同様です。あとで述べます。

 こう述べていましたが、西田哲学が同様のことをいう言葉を紹介します。

西田哲学における「意味」と「価値」

 「自由意志は歴史的限定を越えたものである、歴史的世界の外に、我々は自由なる人格の世界を有つのである。歴史的実在は意味を有つであろう、しかしそれは意味的実在である、価値を有った実在ではない、イデヤ的実在ではない。」(『自覚的一般者に於いてあるもの及それとその背後にあるものとの関係』西田哲学旧全集5巻p336、岩波書店)

 「歴史の根底には非価値的なるものがなければならぬ、歴史的事実は意味を有って居るが、価値は有っていない。若し歴史的世界の背後に神意という如きものを置くならば、それは一種の神学であって歴史ではない。我々は自然界に反して意識界を有つ如く、歴史的世界に反して価値実現の世界を有つ、叡智的自己の具体的ノエマ面を有つのである。」(同、p337)

 (自己洞察瞑想療法、SIMTは、「価値崩壊の反応」をせずに「価値実現の反応」をするように実践をアドバイスして、うつ病などを治すといいます。西田哲学の原文に、「価値実現」の言葉がみられます。)

 フランクルと西田哲学は同じことをいっていますが、「用語」が違うだけのように見えます。上記が西田哲学ですが、解説を加えます。

 「自由意志は歴史的限定を越えたものである、歴史的世界の外に、我々は自由なる人格の世界をもつのである。歴史的実在は意味をもつであろう、しかしそれは意味的実在である、価値をもった実在ではない、イデヤ的実在ではない。」(『自覚的一般者に於いてあるもの及それとその背後にあるものとの関係』西田哲学旧全集5巻p336、岩波書店)

 人はみな同じような精神の作用を行使しています。 フランクルは、身体次元、心理的次元、精神的次元といいますが、西田哲学では、浅い作用から深い作用の順にいうと、判断作用、意識作用、行為的直観などです。意識の作用は、感覚の働き、思考作用、意志作用(欲求を起こして目的を設定して行動する)に分類できます。さらにそれよりも深い行為的直観があります。人はみなこれを用いています。哲学をしらなくても、これを用いています。

 判断作用が対象とするのは、「自然の世界」「自然界」です。
 意識の作用が対象とするのは「歴史の世界」「歴史的世界」です。広く種々の「意味」を持つ世界です。各人から選択を待っている「意味」がある世界です。その種々の内容(「意味」)は、自分にとっての人生の現実ではないので、自分の「価値をもった実在」ではありません。
 行為的直観が作用するのは「叡智的世界」です。人はみな歴史的世界の中の「意味」のうちから、自由意志を行使して、ごくごく狭い領域(意味)を選択してそこに生命をかけて、人生をかけます。すると、それは、自分にとって「価値」となります。その狭い世界が「叡智的世界」です。自分独自の「価値実現の世界」です。
 家族の世界と、少数の職業の世界と、人によっては趣味の世界があります。それらは、歴史世界にある無数の「意味」から選択したものです。自分の「価値」になります。人はみな、自分の価値の世界しか生命、人生をかけません。他の世界は、無視、傍観です。
 世界には、無数の職業の可能性(意味)があるが、それらは歴史の世界であり、その無数の意味の中から、一つか2つの意味を選択して、現実に自分の生きがいの世界(叡智的世界)とします。この各人の世界は、ごく狭くて(たとえば、医師の職)、他の広い意味の世界(学問、芸術、農業、ビジネス、政治、国際状況)が全く見えていません。

 こういう自然界、歴史の世界、叡智的世界がありますが、ひとはみな、各人が選択した価値を実現しようとして、ごくごく狭い叡智的世界で、5,60年から百年ほどの人生を生きているのです。その個人が作るもの、価値を「叡智的なノエマ」といいます。その働きのほう(ノエシス)を「行為的直観」といいます。そのような主体を「叡智的自己」といいます。

 西田の別の原文です。

 「歴史の根底には非価値的なるものがなければならぬ、歴史的事実は意味をもって居るが、価値はもっていない。もし歴史的世界の背後に神意という如きものを置くならば、それは一種の神学であって歴史ではない。我々は自然界に反して意識界をもつ如く、歴史的世界に反して価値実現の世界をもつ、叡智的自己の具体的ノエマ面をもつのである。」(同、p337)

 自己洞察瞑想療法、SIMTは、このような西田哲学の実践論を、具体的な観察と行為のしかたを「精神療法」として、構成したものです。ひとことで、いうと、長い人生にはつらい出来事があるが、「価値崩壊の反応」をせずに「価値実現の反応」をするように生きていくということです。
 支援者は、そのような生き方の哲学と実践方法をやさしくアドバイスして、うつ病などを治す支援をするのです。人はみな自分の価値が実現すると「幸福」だという感情が生じます。だから、他の人の人生を不幸にしてはいけません。「価値実現の行為」は、自己と他者の価値を崩壊させないような行為でなければなりません。ここに、「倫理的要請」が含まれています。
 第1世代の「マインドフルネス」は、そのような「倫理的な配慮がない」と批判されています。しかし、西田哲学の実践は、世界中の人類が「共生」していこうという壮大深遠な哲学があるのです。日本には、深いマインドフルネスの哲学があるのです。

 このような哲学は、フランクルの哲学に類似します。舶来ものだけを重視せずに、日本にある宝、西田哲学や鈴木禅哲学を生かしていただきたいものです。

 もう少し、続けます。

【関連記事】
https://blog.canpan.info/jitou/archive/1954
★フランクルの「精神次元」が、西田哲学の「行為的直観」
 〜これが、日本のうつ病を治し自殺防止に貢献できる
  だが理解する専門家はいなかったが、、、、。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4902
★鈴木大拙の「禅者の共生」の思想

https://blog.canpan.info/jitou/archive/2325
★深い自己の哲学がある「仏教」「禅」のはずが

https://blog.canpan.info/jitou/archive/5450
★西田哲学も先細り

【注】

(注1)NHKこころの時代 テキスト 『ヴィクトール・フランクル 〜それでも人生には意味がある』勝田芽生、NHK出版

(注2)大田健次郎 『うつ・不安障害を治すマインドフルネス』佼成出版社

(注3)フランクル『夜と霧』池田香代子訳、みすず書房

(注4)テキストの第5回で「品格のある人間」「ない人間」がもう少し詳しく述べられます。やはり、フラ ンクルと西田哲学は類似することがわかります。

(注5)フランクル『人間とは何か』山田邦男監訳、春秋社

(注6)SIMT=Self Insight Meditation Therapy。自己洞察瞑想療法。 公刊された書籍は、3つです。ほかに、マインドフルネス瞑想療法士の 講座に使用されるテキスト が多数あります。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/5348
★自己洞察瞑想療法、SIMT ブームになった「マインドフルネス」(第1世代マインドフルネス)とは、違います

(注7)ブームの「マインドフルネス」は、各人の意味、価値の場面での観察ではありません。「無評価」ですむ、瞑想時、歩く時、食べる時です。「身体」レベルの浅い意識の「自己距離化」です。「自己超越」の場面が多い人生局面では、できません。外国では、社会問題の見てみぬふりの助長など批判が起きています。この放送の第3回目のロゴセラピーの説明(自分を見すぎるな)を見ても、そのような印象を受けます。それを知ったうえで、限定した場面だけで行うべきです。



https://blog.canpan.info/jitou/archive/5750
【目次】ヴィクトール・フランクルと後期西田哲学の実践論
 〜それでも人生には意味がある
Posted by MF総研/大田 at 22:24 | マインドフルネス心理療法 | この記事のURL
家族の愛の特別なありかた(3) [2026年03月10日(Tue)]

ヴィクトール・フランクル
 〜それでも人生には意味がある

第6回 人生の中の出逢い
 〜 家族の愛の特別なありかた(3)

 3月22日、フランクルのテレビ放送の第6回は「人生の中の出逢い」です。

 この回のテーマは、夫婦の「愛」です。

 前の記事で見たように、フランクルは、夫婦の「愛」は、相手の死後も続くといいます。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/5839
★愛は死後も続く

 ここで見たように、次の言葉があります。

 「愛は単なる感情状態より以上のものである。愛は志向的行為なのである。愛が志向するのは他者 の相在である。この相在――この他者の本質――は、(すべての相在と同じく)究極的に現存在から 独立している。つまり、それは「存在」 (exisistentia)には依存しない「本質」(essentia)であり、 そのかぎり存在を超越しているのである。こうしてのみ、愛が愛される人間の死をも越えて持続する ということが理解されうるのであり、ここから初めて、愛が死よりも、すなわち愛される人間の存在 の無化よりも、「強い」ということが理解されるのである。」(注5,p228)

◆「愛の理念」

 「愛される人間の現存在はなるほど死によって無化されるとしても、その相在は死によっても無くなることはない。その人の無比の本質は、すべての真に本質的なものと同じく、時間を超えたものであり、そのかぎり過ぎさることのないものである。このような人間の「理念」――まさに愛する人間が直観するような「理念」――は超時間的な領域に属している。」(p229)

 フランクルが「愛」の特殊さを述べたことを、この記事に引用しました。フランクルも「愛」の志向するのは、愛する人の「存在」であるといっています。「現存在」の「相在=本質」です(注8)。愛したのは、創造行為でも体験行為でもありません。そいういう「当為価値」でなくて、「存在価値」です。その相在=本質は、現存在が亡くなったからといって、消えるわけではありません。
 フランクルは、 「愛」は「体験価値」の特別のあり方としましたが、この言葉のように、「精神次元」の愛ならば、「存在価値」の意味もあると言っています。
 「身体」次元の愛ならば、若い頃と違って、老いてくれば「現存在」、すなわち、容貌が変化して「愛」がなくなるはずです。しかし、「精神次元」の愛ならば、年老いても愛はなくなりません。このことも、フランクルの言葉の事実を裏付けているでしょう。
 また、夫婦には、子どもが生まれることがありますが、親は子を愛します。この場合も、親は子どもの創造行為、体験を愛するわけではないでしょう。親は子どもの現存在もですが、そもそも相在=本質を愛しているのです。
 家族は、眼前にいなくても、単身赴任して遠くに住む家族を愛しています。

 このように、愛した家族は、特別の存在ですから、愛する人を亡くすことは、遺族にとって、非常に厳しい危機的事態です。遺族の一部が、うつ病になるのもこの故です。そのような人は、薬物療法では治りにくいでしょう。自殺も起きるでしょう。

◆愛するひとを亡くした遺族のうつ病を治し、自殺を防止

 日本でも、高齢者の自殺が多いのですが、愛する配偶者を亡くした人も危ないですから、うつ病、自殺防止対策の精神療法的支援の方法を開発しなければなりません。
 うつ病になった人の脳内の価値実現の行為をする領域(眼窩前頭皮質、背外側前頭前野、前部帯状回など)に炎症が生じているはずですから、一度的支援ではなく、治るまで継続的な精神療法を提供しなければなりません。
 上記のような、愛したひとの相在=本質はなくならないこと、そして、自身の創造価値、体験価値を再び確認して、それに生きていくように見守ることになります。そのことが、その人の「価値実現」の脳の回路を動かすように作用して、症状が改善していくでしょう。

 以上のように、フランクルは、夫婦の「愛」をすばらしい「価値」というのですが、一方、結婚しなくてももっと強い「価値」があるともフランクルは言っています。これも重要な指摘です。

(注8)現存在と相在
 「存在論の用語で、現存在(Dasein)が一般に「有ること」(「がある」)を示すのに対して、相在(so-sein)は一定の性質およびそれをもつ存在(「である」)を指す。ここから両者は、フランクルがここで述べているような「存在」(exisistentia)と「本質」(essentia)という意味に用いられることもある。」(フランクル『人間とは何か』p373)

【注】

(注1)NHKこころの時代 テキスト 『ヴィクトール・フランクル 〜それでも人生には意味がある』勝田芽生、NHK出版

(注2)大田健次郎(2013)『うつ・不安障害を治すマインドフルネス』佼成出版社
SIMT:Self Insight Meditation Therapy(SIMT)、自己洞察瞑想療法

(注3)大田健次郎『「死」と向き合うためのマインドフルネス実践』佼成出版社

(注4)NHK E テレビ「100 分 de 名著」、『ヤスパース哲学入門』戸谷洋志

(注5)フランクル『人間とは何か』山田邦男監訳、春秋社

(注6)山口尚『幸福と人生の意味の哲学』トランスビュー

(注10)フランクル『識られざる神』佐野利勝・木村敏訳、みすず書房

(注11)竹内綱史「ニーチェ哲学における良心という問題」(『宗教哲学研究(第20号)』北樹出版

(注12)後期に属する西田哲学の論文が「実践哲学序論」、および、「ポイエシスとプラクシス」にまとめられている。 →
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3582
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3329
★後期西田哲学の実践論

(注13)フランクル『意味への意志』 山田邦男監訳、春秋社

https://blog.canpan.info/jitou/archive/5750
【目次】ヴィクトール・フランクルと後期西田哲学の実践論
 〜それでも人生には意味がある
Posted by MF総研/大田 at 21:26 | マインドフルネス心理療法 | この記事のURL
家族の愛の特別なありかた(2) [2026年03月09日(Mon)]

ヴィクトール・フランクル
 〜それでも人生には意味がある

第6回 人生の中の出逢い
 〜 家族の愛の特別なありかた(2)

 3月22日、フランクルのテレビ放送の第6回は「人生の中の出逢い」です。

 この回のテーマは、夫婦の「愛」です。

 フランクルは、夫婦の愛は「体験価値」の特別のありかたとしました。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/5784
家族の「愛」とは3つの価値のうち体験価値の特別のありかた

 「愛」は心理的次元ではなく、「精神次元」です。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/5785
★3層の「愛」がある
 〜身体的次元、心理的次元、精神的次元

 「愛」は、相手の死後も続くといいます。これを理解しておけば、「愛」するひとが亡くなって、残された遺族がうつ病になったり、後追い自殺を予防できるはずです。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/5839
★愛は死後も続く

 「愛」は「体験価値」の特別のあり方としましたが、「存在価値」の意味もあると言っています。だから、愛する人を亡くすことは、遺族にとって、非常に厳しい危機的事態です。遺族が、うつ病になるのもこの故です。
 フランクルが「愛」の特殊さを述べたことを、この記事に引用しました。フランクルも「愛」の志向するのは、愛する人の「存在」です。「現存在」の「本質」です。創造行為でも体験行為でもありません。それらは「当為価値」であり「存在価値」ではありません。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/5787
★高齢者の自殺 愛する配偶者がいても、いなくても

 日本でも、高齢者の自殺が多いのですが、愛する配偶者を亡くした人も危ないですから、うつ病、自殺防止対策になるように、フランクルの哲学をよく理解したいと思います。

 (続く)

【注】

(注1)NHKこころの時代 テキスト 『ヴィクトール・フランクル 〜それでも人生には意味がある』勝田芽生、NHK出版

(注2)大田健次郎(2013)『うつ・不安障害を治すマインドフルネス』佼成出版社
SIMT:Self Insight Meditation Therapy(SIMT)、自己洞察瞑想療法

(注3)大田健次郎『「死」と向き合うためのマインドフルネス実践』佼成出版社

(注4)NHK E テレビ「100 分 de 名著」、『ヤスパース哲学入門』戸谷洋志

(注5)フランクル『人間とは何か』山田邦男監訳、春秋社

(注6)山口尚『幸福と人生の意味の哲学』トランスビュー

(注10)フランクル『識られざる神』佐野利勝・木村敏訳、みすず書房

(注11)竹内綱史「ニーチェ哲学における良心という問題」(『宗教哲学研究(第20号)』北樹出版

(注12)後期に属する西田哲学の論文が「実践哲学序論」、および、「ポイエシスとプラクシス」にまとめられている。 →
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3582
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3329
★後期西田哲学の実践論

(注13)フランクル『意味への意志』 山田邦男監訳、春秋社

https://blog.canpan.info/jitou/archive/5750
【目次】ヴィクトール・フランクルと後期西田哲学の実践論
 〜それでも人生には意味がある
Posted by MF総研/大田 at 20:06 | マインドフルネス心理療法 | この記事のURL
家族の愛の特別なありかた [2026年03月05日(Thu)]

ヴィクトール・フランクル
 〜それでも人生には意味がある

第6回 人生の中の出逢い
 〜 家族の愛の特別なありかた

 3月22日、フランクルのテレビ放送の第6回は「人生の中の出逢い」です。

 この最終回の主なテーマは、夫婦の「愛」です。人間同士の「愛」にも、3つの次元があるという教えです。

◆身体次元の愛、心理的次元の愛

 「ロゴセラピーの理論で言えば、愛もまた、心と体と精神の3つの次元に分類されます。 身体的次元の愛は、肉体関係だけに満足を求めるもの。心理的次元の愛は、「話していて楽しい」とか「遊んでいて面白い」などという快楽だけを満足させるためのものです。この二つの愛は、相手の心と体がなくなれば、消えてしまいます。」(注1,p148)

◆精神的次元の愛

 「それに対して、精神的次元の愛は、相手の人格に対する尊敬があり、相手の存在じたいに感謝するものです。たとえ相手が死んでしまっても、心と体が消え失せても、相手に対する感謝や尊敬は、変わることなくあり続けます。それが「精神的な愛」というものです。」((注1,p149)

◆死後も続く

 愛する、愛されるということは、人生において特別の価値を持つものであり、愛する人が亡くなった時に、遺族は精神的な危機におそわれます。うつ病を発症する人がいます。あとを追うように自殺もあります。その危機を乗り越えてもらうことをロゴセラピーのひとは支援するのです。テキストでは、次のことが述べられています。

 「愛する人が物理的に存在しなくなっても、愛は「その人の死をも超えて存続する」というのです。というのも、遺された人の心が、自分の愛した相手の人格の素晴らしさに満たされているならば、喪の深い哀しみが過ぎたあとでは、「相手がまだ生きているかどうか」、その身体性はほとんど問題にされなくなるからなのです。」(注1,p159)

 「ロゴセラピーの理論で言えば、愛もまた、心と体と精神の三つの次元に分類される」(注1,p159)ということによるといいます。

 このような、「精神次元の愛」ならば、愛する人が亡くなっても、感謝の思いを持ちつつ生きていくでしょう。
 こういうことが「愛」であるならば、亡くなってからセラピストに教えてもらうのではなくて、夫婦が存命中に、こういう哲学を学べば、生前中に、二人の生活がもっと違うものになるのではないでしょうか。

 すべて、人は各人が人生をかけて行為していく「価値」を持っています。ロゴセラピーでは、「創造価値」「体験価値」「態度価値」に分類しています。
    (後期西田哲学の叡智的自己ならば、行為的直観で自分の選択した「価値」を生きていくことになります。世界中の無数の人間の中から選択した唯一の相手と幸福な共同体を作っていくことが一つの「人生価値」です。さらに、その共同体で学問、産業、芸術などで世界に貢献していきます。)
 おおよそ、どの価値も世界のため、社会のために、貢献しています。しかし、「愛」は、「あなたのため」が前面にあるものです。もちろん、夫婦の共同体として、世界、社会のために共同で貢献していきますが、それに加えて、ほかでもない「あなたのため」に人生をかけているのです。どこにもいません。夫婦になってくれた相手だけです。それを生前に納得すれば、亡くなってからの感謝にもまして、生前から感謝の思いが強く、生前におけるふたりの生活がちがってくるかもしれません。

 日本の西田哲学(後期)の実践論は、場所の論理で「愛」の担い手の存在のすばらしさを学ぶでしょう。

 誠実でない「宗教」で夫婦の愛さえも破壊するカルトもあります。カルトによって家庭が崩壊していくことが多いですから、フランクルのロゴセラピーや西田哲学(後期)の人間哲学の教育の必要性を感じます。
 学校で教育が難しいのであれば、社会教育を充実させていただきたいものです。

【注】

(注1)NHKこころの時代 テキスト 『ヴィクトール・フランクル 〜それでも人生には意味がある』勝田芽生、NHK出版

(注2)大田健次郎(2013)『うつ・不安障害を治すマインドフルネス』佼成出版社
SIMT:Self Insight Meditation Therapy(SIMT)、自己洞察瞑想療法

(注3)大田健次郎『「死」と向き合うためのマインドフルネス実践』佼成出版社

(注4)NHK E テレビ「100 分 de 名著」、『ヤスパース哲学入門』戸谷洋志

(注5)フランクル『人間とは何か』山田邦男監訳、春秋社

(注6)山口尚『幸福と人生の意味の哲学』トランスビュー

(注10)フランクル『識られざる神』佐野利勝・木村敏訳、みすず書房

(注11)竹内綱史「ニーチェ哲学における良心という問題」(『宗教哲学研究(第20号)』北樹出版

(注12)後期に属する西田哲学の論文が「実践哲学序論」、および、「ポイエシスとプラクシス」にまとめられている。 →
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3582
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3329
★後期西田哲学の実践論

(注13)フランクル『意味への意志』 山田邦男監訳、春秋社

https://blog.canpan.info/jitou/archive/5750
【目次】ヴィクトール・フランクルと後期西田哲学の実践論
 〜それでも人生には意味がある
Posted by MF総研/大田 at 08:58 | マインドフルネス心理療法 | この記事のURL
ヴィクトール・フランクル 〜 家族の愛 [2026年03月04日(Wed)]

ヴィクトール・フランクル
 〜それでも人生には意味がある

第6回 人生の中の出逢い  〜 家族の愛

 3月22日、フランクルのテレビ放送の第6回は「人生の中の出逢い」です。

 この最終回の主なテーマは、夫婦の「愛」です。人間同士の「愛」にも、3つの次元があるという教えです。

 「ロゴセラピーの理論で言えば、愛もまた、心と体と精神の3つの次元に分類されます。 身体的次元の愛は、肉体関係だけに満足を求めるもの。心理的次元の愛は、「話していて楽しい」とか「遊んでいて面白い」などという快楽だけを満足させるためのものです。この二つの愛は、相手の心と体がなくなれば、消えてしまいます。」(注1,p148)

 フランクルのロゴセラピーでは、夫婦の愛の尊さ、力強さを教えてくれます。それに対して、日本の哲学ではどう教えているのでしょうか。これを西田哲学(後期)的に、整理する必要があると感じています。

 後期西田哲学では、自己の作用には、判断作用、意志作用、行為的直観、自覚的直観の次元があります。自己の階層では、判断的自己、意志的自己、叡智的自己、創造的自己の階層です。

 宗教者同士ならば、夫婦の愛は、互いが根底に超越(絶対)を持つ、絶対の他でありながら、「この私を愛する唯一の人間」です。このような奇跡的な出会いは、めったにないのです。宗教者同士ならば、その尊いことは理解しあえるでしょう。しかし、そういう出会いの問題は多くは生じません。

 多くの人が「愛」で苦悩するのは、フランクルの「精神」次元です。それに該当する西田哲学(後期)では、どう説明されるのでしょうか。宗教(超越)次元でない患者の「精神療法」の領域ならば、夫婦の愛も、行為的直観、叡智的自己になります。それで説明しないと、宗教的となり、クライアントが理解できないひとがいるでしょう。

 この問題は、うつ病、自殺対策、孤独・孤立対策からも非常に重要です。「愛する人」を失って、うつ病になる人、後を追うように自殺するひとがいるからです。「愛する人」の死が近いとして、苦悩する配偶者がいるからです。

 また、力ある者が、身体次元の欲望によるハラスメント行為によって、被害者の夫婦の尊い愛を破壊してしまう犯罪が多いからです。被害者を自殺においつめるかもしれません。

 こういう人々のうつ病、自殺を防止するのも「精神療法」の重要な使命でしょう。

【注】

(注1)NHKこころの時代 テキスト 『ヴィクトール・フランクル 〜それでも人生には意味がある』勝田芽生、NHK出版

(注2)大田健次郎(2013)『うつ・不安障害を治すマインドフルネス』佼成出版社
SIMT:Self Insight Meditation Therapy(SIMT)、自己洞察瞑想療法

(注3)大田健次郎『「死」と向き合うためのマインドフルネス実践』佼成出版社

(注4)NHK E テレビ「100 分 de 名著」、『ヤスパース哲学入門』戸谷洋志

(注5)フランクル『人間とは何か』山田邦男監訳、春秋社

(注6)山口尚『幸福と人生の意味の哲学』トランスビュー

(注10)フランクル『識られざる神』佐野利勝・木村敏訳、みすず書房

(注11)竹内綱史「ニーチェ哲学における良心という問題」(『宗教哲学研究(第20号)』北樹出版

(注12)後期に属する西田哲学の論文が「実践哲学序論」、および、「ポイエシスとプラクシス」にまとめられている。 →
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3582
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3329
★後期西田哲学の実践論

(注13)フランクル『意味への意志』 山田邦男監訳、春秋社

https://blog.canpan.info/jitou/archive/5750
【目次】ヴィクトール・フランクルと後期西田哲学の実践論
 〜それでも人生には意味がある
Posted by MF総研/大田 at 10:51 | マインドフルネス心理療法 | この記事のURL
「寛容」であれというフランクル [2026年03月01日(Sun)]

ヴィクトール・フランクル
 〜それでも人生には意味がある

第5回 「何か」に支えられて
 〜 フランクルの超越、ヤスパースの包括者(14)
  「寛容」であれというフランクル

 2月22日、フランクルのテレビ放送の第5回「「何か」に支えられて」でした。

◆「寛容な宗教者」であれというフランクル

 第5回では、宗教者も人はすべて「寛容」であるべきだということも述べられました。 自分の意見、思想を押し付けるのは「寛容」ではないです。大乗仏教や西田哲学で言えば、「己見、独断、偏見」の押し付け、従うことの強制、批判する人の排除や不利な扱いをする人は、「非寛容」な人です。
 日本でも、指導的な立場にあってほしいと期待される宗教者、学者にも、「非寛容」な人がいます。仏教学、禅学、マインドフルネス学の領域です。
 政治家がこうすると「独裁国家」になります。大小の組織がこうすると「独裁集団」になります。研究室、NPO、宗教的集団でもそうなります。
 フランクルのテキストでは、次の言葉が該当します。

 「信仰の基盤にしっかり立っていない人ほど、両手を使って教義にしがみつき、そのために他の宗教から自分を切り離す結果になります。けれども自分の信仰の基盤がしっかりしていればいるほど、その人の両手は自由になり、同じ宗教に属さない人々にも手を差し伸べられるようになるのです。前者は狂信態度へと進み、後者は寛容に進みます。寛容というのは、ある人が他の人の信仰を受けいれるということではなく、その人を、人間として、みずからの信仰と人生を選び取る権利と自由を持つ人間として尊敬することに他なりません。」(注1,p131)

 ほかにもあげていますが、こういうことを言うことからも、フランクルは, 自国の人から、ユダヤ人からも嫌われ、仲間外れにされることになったといいます。(注1,p68,130)
 日本の宗教も学問的にも批判することを許されないようです。少数説が組織内のメンバーにも、組織外の国民に知らされません。

◆学者でも「非寛容」なひとがいる

 学者でもそういう「非寛容」なひとがいるでしょう。 そういうところでは、内部のメンバーも学問の自由、宗教の自由を抑圧されているのですから、不快に思っているはずです。学問は停滞するでしょう。国民は宗教から離れていくでしょう。

 フランクルは「品格ある人間」と「品格のない人間がある」といったのですが、「寛容」と「非寛容」も、この一例でしょう。西田哲学(後期)でいえば、「至誠」であることと「至誠ではないこと」につながります。

 「寛容」でないと、批判する人を組織から追放するとか、暴力で排除することもあります。国との関係でいえば、戦争を起こすのは「寛容」ではありません。

◆フランクルは患者の宗教の自由を尊重

 フランクルは、患者の信仰の自由を尊重しました。これは、精神科医の「寛容」です。

 「また、医療や心理治療に携わる人は、「決して自分の信仰を患者に押しつけてはならない」と厳しく戒めていました。セラピーの基本は、患者の自由意志を尊重する態度でいることだからです。」(注1,p125)

 日本でも、薬物療法の医師が、患者に「精神療法」を受けてはならないといって縛るとしたら(仮定です。実際にはいないでしょう)、寛容ではありません。許容してほしいと思います。精神療法を受ければ、治って自殺しないですむかもしれませんから。

◆ヤスパースの「愛の闘争」も

 テレビで放送されたヤスパースの第2回で紹介された「愛の闘争」も、「寛容」のすすめですね。言葉での論争、批判はどこまでもするが、暴力は用いないし、論争の場から排除もしません。

 「したがって、哲学的な対話を成り立たせる他者との関係性は、少なくとも見た目の上では、戦いの形をとります。つまりそれは、真理を追い求めて、もそも納得できないことがあれば妥協なく互いを批判し合う関係です。しかし、このような関係が成立するのは、互いに対して深い信頼を寄せているときだけなのです。
 ヤスパースはこのような関係性を、「愛の闘争」と呼びます。」 (注4,p42)

【関連記事】

https://blog.canpan.info/jitou/archive/5859
★「品格のある人間」

https://blog.canpan.info/jitou/archive/5570
★学者する人の良心

【注】

(注1)NHKこころの時代 テキスト 『ヴィクトール・フランクル 〜それでも人生には意味がある』勝田芽生、NHK出版

(注2)大田健次郎(2013)『うつ・不安障害を治すマインドフルネス』佼成出版社
SIMT:Self Insight Meditation Therapy(SIMT)、自己洞察瞑想療法

(注3)大田健次郎『「死」と向き合うためのマインドフルネス実践』佼成出版社

(注4)NHK E テレビ「100 分 de 名著」、『ヤスパース哲学入門』戸谷洋志

(注5)フランクル『人間とは何か』山田邦男監訳、春秋社

(注6)山口尚『幸福と人生の意味の哲学』トランスビュー

(注10)フランクル『識られざる神』佐野利勝・木村敏訳、みすず書房

(注11)竹内綱史「ニーチェ哲学における良心という問題」(『宗教哲学研究(第20号)』北樹出版

(注12)後期に属する西田哲学の論文が「実践哲学序論」、および、「ポイエシスとプラクシス」にまとめられている。 →
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3582
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3329
★後期西田哲学の実践論

(注13)フランクル『意味への意志』 山田邦男監訳、春秋社

https://blog.canpan.info/jitou/archive/5750
【目次】ヴィクトール・フランクルと後期西田哲学の実践論
 〜それでも人生には意味がある
Posted by MF総研/大田 at 18:53 | マインドフルネス心理療法 | この記事のURL
すべての医師による自殺防止 [2026年02月27日(Fri)]

ヴィクトール・フランクル
 〜それでも人生には意味がある

第5回 「何か」に支えられて
 〜 フランクルの超越、ヤスパースの包括者(13)
  すべての医師による自殺防止

 2月22日、フランクルのテレビ放送の第5回「「何か」に支えられて」でした。

 第5回は、宗教的問題でしたが、この領域は医師ではなくて、宗教者が扱う領域だというのがフランクルのロゴセラピーでした。 これは、オーストリアの法律による制約から、厳密にしたという背景があります。

 医師は、宗教的な問題は宗教者の扱う問題であるとはいえ、医師も「自殺防止」のための配慮をすべきだといいます。次の記事で紹介したとおりです。

◆医師による魂への配慮=医師による患者の自殺防止の助言

https://blog.canpan.info/jitou/archive/5537
★宗教的問いをするのは医師であることが多い

https://blog.canpan.info/jitou/archive/5541
★宗教的問いを患者が医師にする時

 日本では、自殺が多いのですが、ロゴセラピーのような手厚い精神療法を受けられない状況にあることが大きな要因でしょう。 精神科医でさえも薬物療法のみを行うことが多くて、精神科医でさえも、精神療法を知らないのです。
 フランクルは、精神科医以外、すべての医師が、それぞれの医療分野(内科、外科、などにも)に患者が「自殺の恐れ」のある状態になるから、すべての医師が自分が担当した患者の「自殺防止」の助言をすべきだというのです。
 たとえば、足を切断する外科手術した患者が、退院した翌日に自殺するかもしれません。そういうリスクがある状況にあることはほぼ確実ですから、外科医(または、同じ病院の精神科医)が患者に、自殺防止のための助言=「魂の配慮」をすべきだというのです。ほかにも、がん患者や難病を扱う内科医の患者も自殺のリスクがあるはずで、医師による「魂の配慮」が必要であると述べています。
 このような状況では、自殺防止には薬物では間に合いません。それが「医師による魂の配慮」として詳細に述べています。

 そこには、宗教者が自殺の防止に積極的でない状況があると言います。「魂の救済」の重要な側面の、生きることについて危機的な状況にあり、自殺のリスクがある人にさえも宗教者は支援しないというのです。
 元来、苦悩からの救済が宗教の重要な目標の一つなのでしょう。苦悩が深刻になれば、自殺が起こります。精神的な配慮をすれば、苦悩の救済になり、自殺を防止できるかもしれません。実際に、大乗仏教を参照すると、苦悩の起きる経過の分析や、救済方法が記述されています。しかし、現代日本の仏教が、苦悩する人々を仏教の教えによって自殺を防止する活動をしているところがあるということが国民に知らされていません。

 精神療法も仏教も、精神的な苦悩によるうつ病の回復、自殺の防止に貢献できる可能性があるのですから、活用できる環境を作っていただきたいと思います。
 日本は、人口が減少していくのに、自殺で生命が失われることは実に悲しいことです。

【注】

(注1)NHKこころの時代 テキスト 『ヴィクトール・フランクル 〜それでも人生には意味がある』勝田芽生、NHK出版

(注2)大田健次郎(2013)『うつ・不安障害を治すマインドフルネス』佼成出版社
SIMT:Self Insight Meditation Therapy(SIMT)、自己洞察瞑想療法

(注3)大田健次郎『「死」と向き合うためのマインドフルネス実践』佼成出版社

(注4)NHK E テレビ「100 分 de 名著」、『ヤスパース哲学入門』戸谷洋志

(注5)フランクル『人間とは何か』山田邦男監訳、春秋社

(注6)山口尚『幸福と人生の意味の哲学』トランスビュー

(注10)フランクル『識られざる神』佐野利勝・木村敏訳、みすず書房

(注11)竹内綱史「ニーチェ哲学における良心という問題」(『宗教哲学研究(第20号)』北樹出版

(注12)後期に属する西田哲学の論文が「実践哲学序論」、および、「ポイエシスとプラクシス」にまとめられている。 →
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3582
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3329
★後期西田哲学の実践論

(注13)フランクル『意味への意志』 山田邦男監訳、春秋社

https://blog.canpan.info/jitou/archive/5750
【目次】ヴィクトール・フランクルと後期西田哲学の実践論
 〜それでも人生には意味がある
Posted by MF総研/大田 at 08:08 | マインドフルネス心理療法 | この記事のURL
フランクルの品格のある人間、良心 [2026年02月26日(Thu)]

ヴィクトール・フランクル
 〜それでも人生には意味がある

第5回 「何か」に支えられて
 〜 フランクルの超越、ヤスパースの包括者(12)
  フランクル 「品格のある」人間

◆品格のある人間、良心

 2月22日、 フランクルのテレビ放送の第5回「「何か」に支えられて」でした。

 前の記事では、超越、包括者について見ました。宗教的な究極の存在論に関係します。フランクルは、宗教を信仰しています。しかし、彼が開発したロゴセラピーの実行者、ロゴセラピストには、宗教者であることを条件とはしていません。
 それでも、セラピストは、実存的空虚感を持ち、自殺のリスクのあるクライアントに関わります。その時の行動指針、実践指針があるのではないでしょうか。支援者の倫理的条項です。

 ニーチェの場合「知的良心」に生きることでした。西田哲学(後期)では、行動指針は「至誠で生きる」ことです。【関連記事A】

 フランクルの行動指針、ロゴセラピストにも求められる行動指針があるのでしょうか。ロゴセラピーの研究者にお聞きしたい。

 自由に推測してみると、テキストで「品格のある」ということを強調しています。

 解説の勝田芽生さんのテキストでも「品格のある」ことを重視しています。

 「精神的次元に立って、普遍的な価値や意味を大切に生きている人は「品格のある人間」の分類に入ります。けれどもその反対に、精神的な倫理性をまったく無視して、自分の感情や欲求を満たすためだけに生きている人間は、「品格のない人間」に分類されます。」(注1,p132)

 「自己中心的でないこと」もフランクルの行動指針でした。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/5757
★自己中心的、自分だけを大切にする「エゴイズム」心

 第5回のテキストにも、次のように説明があります。

 「どんなにたくさんの知識をとうとうと語ることができたとしても、あるいは、華麗な舞台で華やかに演技を見せて、多くの人を魅了しているとしても、その人が「品格のある人間」だとは限りません。」(注1,p132)

 「自分の利益よりも周囲の人たちのために尽力しようとする、「品格のある人間」はいます。たとえ、そのような人たちの人格が、外観からははっきりととらえることができないとしても、その人たちの中核に精神の次元が生まれながらに備わっているということを、フランクルは確信していたのです。」(注1,p133)

 上の言葉のなかに「精神的な倫理性をまったく無視して、自分の感情や欲求を満たすためだけ」という基準もありました。
 西田哲学(後期)を背景にした自己洞察瞑想療法、SIMTでいうと、感情や欲求で行為することは「意志作用の価値崩壊の行動」です。
 「精神的」「精神次元」は、行為的直観です。フランクルの「精神の次元が生まれながらに備わっている」ということは、SIMTでは、 自分の生きがい価値として選択した世界(叡智的世界)で、社会に貢献していく行動をしていくことになります。そのような「精神」の働きは、「生まれながらに備わっている」というのです。

 ただし、生まれながらに備わっているが、教育されないと、自利、自己中心的な「意志作用」「行為的直観」を行使することが多い人間になります。他者を苦しめる「いじめ」「ハラスメント行為」をする人間、自分の頭で考えず、他者に忖度して、力ある者に同調して「多数派」となり少数説を排除して自己の利益を得ている人間もいます。彼らも自分の選んだ学問に、「意味」「価値」として選択して「精神」「行為的直観」を用いています。
 オルテガは、大学にも多くいて「大衆」といいました【関連記事B】。ニーチェも「大衆」ではない生き方を「知的良心」といいました。私も、仏教学やマインドフルネス学の領域において、「ああ、これが大学の大衆だな」という実情を実際に見ました。

 「無評価で観察」するという「マインドフルネス」(第1世代)は、社会の悪や不正を「見て見ぬふり」を助長するようなところがあり、倫理的な問題が指摘されています。「マインドフルネス」を用いるひとも、「精神」次元を用いているのです。

 他国を侵略し戦争をして、多くの人を殺害している人たち(政治家、兵士、国民)も、「精神」次元、行為的直観を用いています。そこには、各人の選択したものを「価値」「意味」としているのです。

 すべての領域において、「精神」「精神次元」に生きる人間であっても、自己中心的な行為をするのです。 だから、「精神」次元が、そのままで「品格のある人間」「知的良心」のある生き方であるわけでは絶対に違うことを注意しなければなりません。

 次の記事とも関連します。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/5862
★フランクルは「寛容」であれという

【関連記事】

A)ニーチェと後期西田哲学の実践指針。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/5853
★ニーチェの「知的良心」

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3582
★後期西田哲学の実践論「至誠」

B)大衆は大学に多いというオルテガ。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4100
★オルテガ「大衆の反逆」

【注】

(注1)NHKこころの時代 テキスト 『ヴィクトール・フランクル 〜それでも人生には意味がある』勝田芽生、NHK出版

(注2)大田健次郎(2013)『うつ・不安障害を治すマインドフルネス』佼成出版社
SIMT:Self Insight Meditation Therapy(SIMT)、自己洞察瞑想療法

(注3)大田健次郎『「死」と向き合うためのマインドフルネス実践』佼成出版社

(注4)NHK E テレビ「100 分 de 名著」、『ヤスパース哲学入門』戸谷洋志

(注5)フランクル『人間とは何か』山田邦男監訳、春秋社

(注6)山口尚『幸福と人生の意味の哲学』トランスビュー

(注10)フランクル『識られざる神』佐野利勝・木村敏訳、みすず書房

(注11)竹内綱史「ニーチェ哲学における良心という問題」(『宗教哲学研究(第20号)』北樹出版

(注12)後期に属する西田哲学の論文が「実践哲学序論」、および、「ポイエシスとプラクシス」にまとめられている。 →
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3582
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3329
★後期西田哲学の実践論

(注13)フランクル『意味への意志』 山田邦男監訳、春秋社

https://blog.canpan.info/jitou/archive/5750
【目次】ヴィクトール・フランクルと後期西田哲学の実践論
 〜それでも人生には意味がある
Posted by MF総研/大田 at 07:59 | マインドフルネス心理療法 | この記事のURL
| 次へ