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個人の可能性を引き出す”マインドフルネス 理論編” [2018年07月29日(Sun)]
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個人の可能性を引き出す”マインドフルネス 理論編”

統合教育研究所の主催でした。

 台風が近づいていましたが、予定通り講義が開催されました。 レジメのような、講義内容の概要と重要ポイントを記述した テキストの表紙です。

 詳細は、4冊のテキストです。欧米と日本の マインドフルネスのすべてを概観しました。

 いい内容だったと思います。 そこで、少しアレンジして マインドフルネス瞑想療法士🄬の更新のための ポイント付きの講習にしようと思います。
前半の初心者むけのものを省略して、 初期仏教、禅、西田哲学を基礎にしたSIMTの相違 (注)を詳しくした内容にして1日コースの 講習をすることにします。

(注)これらは、みな、死生観のある人生観として長期にわたって実践するものです。しかし、 長期的に到達するところが違います。欧米のものも長期展望は違います。展望のない短期的手法だけのものもあります。

台風の雨風が気になりましたが、みなさん無事帰れたでしょうか。 真剣な聴講、ありがとうございました。
Posted by MF総研/大田 at 07:36 | 人が怖い | この記事のURL
このNPO法人は世代交代へ [2018年06月14日(Thu)]

このNPO法人は世代交代へ

 理事会、総会が終わり、県への報告書も提出しました。総会で、新しい方向が確認されました。 2,3年で、当初からの役員は全員引退です。若手のマインドフルネス瞑想療法士に役員になってもらい、新しいサービスを提供してもらいます。

 2009年3月に、非営利活動法人マインドフルネス総合研究所という名前で発足しました。まだ、マインドフルネスがブームなっていなかった頃です。ホームページも。ズバリ、
mindfulness.jp
を用いることができました。
 このCanpanのブログも、開始してからまもなく参加させていただきました。もっとも古いCanpan利用者でしょう。オフ会に参加させていただいたほどです。今もここに残している、もっとも古い記事はこれです。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/559
「円谷幸吉記念」館閉鎖へ

 2006年7月11日です。559番目の記事です。1から558の記事は削除しました。 マインドフルネス総合研究所の前身の埼玉メンタルカウンセリング協会からCanpanにお世話になっています。もう15年くらいなのでしょう。
 NPO法人になり、そして、9年、協力してくれた役員は死亡、老齢による引退が続きました。残っている当初の役員も高齢につき、あと3年で引継ぎ、完全引退です。
 理事会、総会で役員の交代を話し合いました。マインドフルネス瞑想療法士(MMT)がたくさんいますので、その人たちに役員と登録カウンセラーになってもらい、新しいサービスを提供していくでしょう。
 URLは、貴重ですから継続するが、中身は全面的に新しいメンバーでつくりかえてもらいます。このブログもその人たちが更新していくでしょう。私は、全く去ります。NPO法人の設立もめんどうですから、ひきついでくださるMMTがおられるでしょう。
 9年プラスこれから移行の3年、12年間、「マインドフルネス総合研究所」は、私の重要な「価値」でした。やりがい価値(当為価値)は、年齢、心身の状態によって変化していきます。MMT育成のパッケージも一応できたので、カウンセラーの育成も若手ができます。これから私は、他の人がしないことをしたいです。 もし、できれば、公案、念仏ではない、新しい方法で人格的自己の自覚ができる心の探求方法、マインドフルネスの開発である。
 神谷美恵子がいうように、生きがい、存在価値はずっとあります。生きていることを許されています。それに包まれて、その時に、できることをさせてもらいます。最後には、それでも生かされていて「ありがとう」ということしかできないでしょう。
Posted by MF総研/大田 at 19:21 | 人が怖い | この記事のURL
(118)自己自身は対象的でないので禅が理解されない [2016年08月19日(Fri)]

(118)自己自身は対象的でないので禅が理解されない

 『学者は平気でウソをつく』和田秀樹氏(新潮社)が、心理学や精神医学に「ウソ」が多いと指摘しておられます。
 「日本では、自分が専門とする治療法だけが正しいと思っている人が多いのが特徴的です。学問や特定の学説が「教義」と化してしまい、結果として患者は置いてきぼり、などということも珍しくないように思われます。」と和田さんは言っています。
 いったん、ある治療法、ある学説を学習してしまうと疑わなくなる傾向です。思いこみが強くて、他の解釈、他の説を受け入れようとしない傾向、つまり仏教、禅でいう「我見我執己見」への執着です。もっとすぐれた他を受け入れようとしないで留まる執着です。宗教の場合、やっかいなことがあります。マインドフルネスも新しいようですが、実は仏教、禅にあった実践ですから、諸説があるものです。これもある流派を学習すると、仮設、定義によるものであるにもかかわらず真理であると思いこみが起り、他の方法を学習しようとか、もっとすぐれたものを受け入れない傾向がみらえます。禅、仏教もそうでした。他に乗り換えることがなかなか難しいものです。

 禅も誤解が多いことを西田幾多郎博士が指摘しました。現在でも誤解は続いていて、宗教者でも学者でも、すべての仮説、定義を超えた立場の、絶対に対象にならない真の自己を理解する人が少ないのです。結果的にウソの学問になります。自分、自分の立場、仮説が残ったままの坐禅やマインドフルネスになっています。自分をそのまま残して、集中力や不動の心を養うようなつもりです。対象でない自己が何も検討されていません。対象論理的です。

 西田幾多郎博士は次のようにいっています。

 「我々の自己とは世界が自己において自己を映す、世界の一焦点たるにほかならならない。我々の自己の自覚というのは、単に閉じられた自己自身の内において起るのではない。自覚は自己が自己を越えて他に対することによってのみ起こるのである。我々が自覚するという時、自己は既に自己を越えているのである。ただ、対象論理的独断によって自己自身を実体化している人には、かかる明白な真理をも認めることができないのである。」(『場所的論理と宗教的世界観』)(旧全集11巻378頁)

 これは、対象とならない真の自己をさしています。 自己とは、世界と対象的な自己があるのではなくて、世界の一焦点なのです。世界が世界自身において世界自身真を映す場所です。自分と世界とがわかれていません。これは対象的にはみられません。体験してわかる自分と世界の真相なのです。見性とか解脱とか身心脱落といわれました。西田博士もそういっています。
 日本では、 道元、良寛、一休、白隠など多くの禅僧がこういう真の自己を悟った体験をしているといわれていますが、これを禅の学問があきらかにできていないのです。西田博士によれば、親鸞の回心も同じ体験であるとされます。 仏教や禅に、学問と称して自分の対象論理の解釈をしている学説があります。これを言えば、結果として「ウソ」になります。各人の選択的抽出と都合的解釈、それにあわないものの選択的無視、否定があります。道元禅師が我見我執己見といったものです。認知療法でも指摘しています。

 科学は絶対の真理ではなく、仮説にたっているのに、真理であると思い込む学者がいると和田さんが指摘しましたが、西田博士もそういいいます。

 「科学者はいつも対象論理によって行為するのである。ある立場を限定することによって、科学が成立するのである。」(『哲学論文集第一 〜 哲学体系への企図』旧全集8巻3頁)(21頁も)

 「マインドフルネス」は「宗教性を排除した」「科学的」という。 宗教が社会に貢献できないとでもいうような批判的ないいかたです。しかし、みているとマインドフルネスは、対象論理的なものだけです。対象論理でない領域には用いることはできません。今こそ、宗教は対象論理でない重要な領域で貢献できるでしょう。がん哲学外来も宗教的な救済もあるでしょう。
 実は、最も深い宗教、禅は、すべての仮説、立場を越えた立場ですから、科学、学問も、この立場に立つべきであると西田博士は言っています。自分の好きな立場、理解できる対象論理的立場、自分に有利な立場であっては、科学、学問ではないはずです。私的解釈になります。
 「マインドフルネス」ならどれも「科学的」といい、あまり深く考えない用い方がされるでしょう。「マインドフルネス」も、ジョン・カバット・ジンが「全体性」といったことは何か真剣に検討していただきたいと思います。さもないと、別なものを真実と思いこみ、該当しない患者に適用してしまう、日本人の特徴が同じように現れてしまうでしょう。マインドフルネスのブームを機会に、もう一度、仏教、禅、真宗の学問が再検討されることを期待します。従来は、宗教者が学問を兼ねていたので、組織に制約されていた一面があります。これからは、何にも縛られない自由な解釈ができる心理学や精神医学の人々が検討するでしょう。
 マインドフルネスは宗教を排除した科学性だけがいいわけではありません。 死を意識した難病の患者さんには精神衛生上、宗教性のある哲学が貢献できます。がん哲学外来も宗教性に踏み込んでいます。特に日本の禅、マインドフルネスは宗教的なところまであります。「宗教性を排除したのが科学的である」という言い方は、また、和田さんがいう「ウソ」になるでしょう。専門家は注意していただきたい。マインドフルネスは新しい「科学」だから、ミスもするでしょう。だんだん発展していくでしょう。
「がん哲学外来」に寄せて ⇒目次

【目次】日本のマインドフルネスの再興を
Posted by MF総研/大田 at 14:51 | 人が怖い | この記事のURL
(68))因習的に行動基準を押し付けるのは、個人の死、団体の死 [2015年12月30日(Wed)]

(68)因習的に行動基準を押し付けるのは、個人の死、団体の死

 西田哲学によれば、固定 した団体(種)は生きた団体ではない。 「我々が単に因習的に種的に働くということは、自己の機械化であり、同時に種の死である」。個人は機械化され死に、集団もやがて死ぬ。 因習的に行動するのは、個人の死である。唯一一度的な個としてでなく、多数と同じ一般的人間である。唯一の「私」でない。 〔⇒こちら)
 種(社会、団体、共同体)の中にあって、他者に依存せず、絶対者の射影点となって、働いていく、時代の変化に応じて、種も変化していくことが種が存続する道である。そういうふうに種の中で個人が時代にあわせて世界の立場で自由に行為できることがその種が生き延びていく道である。
    (注)生物は、類、種というふうに共通性で分類します。生物、動物、人類、人というふうに。 西田幾多郎は、人間社会にある集団、団体、社会を「歴史的種」、略して 「種」といいます。生産様式によって、さまざまな「種=集団」があります。 宗教、企業、教育機関、医療、福祉、趣味、そして国。西田の、ここは、組織における構成員はどう行動すべきであるかも示唆しています。内部、上(幹部)を見るな、外(顧客、クライエント、変動しゆく社会の状況)を見よ。
 後期西田哲学で、個人と種(共同社会)と世界の関係をだいたいこんなふうに説明していると思います。団体が統一見解を強要して個人の自由を束縛したり、幹部が我見我執によって構成員の自由を束縛すると、その団体がおいてある世界と遊離していくので、あるいは、自己だけの利益を図る集団であり世界(社会)に貢献しない団体とみなされて、その団体は消滅していくようです。

 団体も世界の中にあります。その世界が変動していきます。団体がおいてある世界は変動していきます。世界が、我々の自己に「どうするのだと」絶えず問いかけているのです(フランクルは「人生から」というが同じことでしょう)。無作用的作用形型、 我々の自己の行動は世界からの問いかけで始まる。いつも世界から問いかけられている。

 団体の行動基準、団体の定義を現在だけに通用する硬直したものにしてはならないのでず。時代、環境(世界)の変動にあわせて、開かれた解釈が可能なものでなければならないのです。それをいう西田幾多郎の言葉をみます。
    「身体を否定した単なる意識的自己というものはない。我々の自己は身体的なるが故に実践的であるのである。・・・我々の身体というのは、矛盾的自己同一的世界が全体的一として自己自身を限定する形である、その自己限定の仕方である。・・・ 社会というのは、歴史的生命の種と考うべきものであり、私は社会を歴史的身体的というのである。」(「『実践哲学序論』旧全集10巻67頁」)

    「社会というのは、我々の自己が無作用的作用形型として、我々の行動がそこからそこへと考えられる一定の表現作用的形式をもった時に、成立するのである。」(「『実践哲学序論』旧全集10巻68頁」)

    「単に歴史的身体的と考えられるかぎり、我々の自己は真に自由ではない、なお意志的でない。真に無作用的作用形型というのは、どこまでも歴史的身体的なると共に、これを越えてこれを包む立場でなければならない。」(「『実践哲学序論』旧全集10巻70頁」)

     「我々が個物的自己として之に従わなければならない、然らざれば個物的自己となることはできない客観的表現、即ち絶対矛盾的自己同一的世界の自己表現というべきものは、我々の自己に対して客観的命令の性質をもったものでなければならない。」(『実践哲学序論』旧全集10巻73頁)

     「それ(*客観的命令)は単に論理的に媒介せられる法則ではなく、その底に人格的自己の自己直観がなければならない。而して真の人格的自己というのは、抽象的な意志的自己の立場に於て成立するのでなく、絶対矛盾的自己同一的世界の個物的多としてでなければならない。いわば我々は神の前に人格となるのである。」(『実践哲学序論』旧全集10巻74頁)(*)は大田付加
 個人は、団体を基礎に行動するが、同時に世界の立場でなければならない。そうであるのに、 社会悪、団体の悪を西田はいう。団体(幹部の個人、やはり人間)が団体(企業、官庁、学校、宗教団体、学的団体、すべての団体)に所属する各個人の自由を束縛するのは、社会悪である。そのような団体のメンバーは、個性を発揮できないから、世界に貢献できそうなことを自由にできない。一般的人間となる。団体がおかれた世界は、変化していくのに、団体のみの固定した行動規範にのみ従うと、個人の確立はない。団体と世界ともに変動していく、そうほうの立場から行動していかないと世界から遊離していく。

 もう、古代、中世にはもどれない、世界環境が激動している。むかしのままの「宗教」(「マインドフルネス」も)では、現代に貢献できない。団体的な基準ではなく、各人が自己だけの根底の真の自己と対決していく時である。西田博士は、70年も前に我々に訴えていた。昔のもの、一般的なものをそのままに踏襲している時ではない、世界環境の動きにふさわしい新しい宗教、新しいマインドフルネス、新しい実践法を開発しなければならない。それが科学的ともいえる。西田哲学においては、最も深い宗教は、ある立場に立たない世界の立場であるから、科学学問もこれに基礎づけられなければならない。
(語句)
★SIMT:Self Insight Meditation Technology/Therapy。日本的マインドフルネス。大田健次郎 (2013)『うつ・不安障害を治すマインドフルネス』佼成出版社、大田健次郎(2014)『マインドフル ネス 入門』清流出版。
★学問的マインドフルネス⇒この記事
★社会的マインドフルネス⇒この記事
★世俗的マインドフルネス⇒この記事
★宗教的マインドフルネス⇒この記事
 =それぞれの教団によって、哲学とマインドフルネスの方法が違う

★そのまま宗教の実践、思想を用いることはできない

★「人格的自己への原体験」「人格的自己的体験」
「人格的自己の基礎となる直覚的体験」「自覚的直観、創造的直観の基礎となる体験」、仏教 では無生法忍、見性、回心などと呼ばれた。
【目次】西田哲学からみる科学学問、そして哲学
 〜マインドフルネスSIMTと表裏

参考

★(目次)NHK E テレビ、こころの時代「日本仏 教のあゆみ」
 ある特定の集団の立場に立たないで、根源的な人間のありのままの立場から学問をしようと する例のようです。

★(目次)道元禅師のマインドフルネス
★(目次)人格的自己の「マインドフルネス」へ
★(目次)さまざまなマインドフルネス
★(目次)最も深いマインドフルネスの実践の哲学
★(目次)昔から日本にあったマインドフルネス

★(目次)人格とは何か
★専門家は独断におちいりやすい
 =人格的自己でなくある目的、立場の専門家としての叡智的自己だから

★専門家のエゴイズム
 =自分が世界になろうとする構造
★学問における画一主義を戒めるフランクル
★自覚的直観、創造的直観
★高史明さんと金光さんの対談
★人間存在=自己洞察法の構造
★理論と実践
★理論と実践(2)
Posted by MF総研/大田 at 19:48 | 人が怖い | この記事のURL
初めてのマインドフルネス瞑想療法士の誕生 [2015年07月29日(Wed)]

初めてのマインドフルネス瞑想療法士の誕生

 初めての「マインドフルネス瞑想療法士」6名に、資格認定証が送付されました。これを出すために、時間が必要でした。私どもにとって記念すべき出来事です。このマインドフルネス瞑想療法士という専門家の団体が、何年続くのかわかりませんが、無限の広さと深さを秘めた日本的マインドフルネス、SIMT(シムト)の、マインドフルネス瞑想療法士の第1期生の誕生です。
 西田哲学(まだ意志的自己レベル)の実践化である、自己洞察瞑想療法(SIMT)、日本的マインドフルネスですが、このスキルを持つ専門家です。

 うつ病などの改善の支援ができるほかに、さまざまな領域への活用を考えておられます。

 これで、一応、形ができました。次は第二ステップです。とどまれば、限界に達します。マインドフルネス瞑想療法士のスキルのさらなる向上と、深いSIMTへの実践をお願いします。 さらに、 マインドフルネス瞑想療法士を育成する人、カウンセラーの先生の育成です。 実現すると、関東以外の地区に、育成組織ができて、マインドフルネス瞑想療法士の全国展開が促進されます。
 並行して、 叡智的自己レベルのSIMT、人格的自己レベルのSIMTの実践者の育成です。 マインドフルネス瞑想療法士や、 深刻な問題の人に、適用し検証しながら、開発していきます。
★がん患者の心のケアに深いマインドフルネスSIMT
★最も深いマインドフルネス
Posted by MF総研/大田 at 13:01 | 人が怖い | この記事のURL
人格的自己の根源は絶対無評価、絶対無エゴイズム [2014年10月22日(Wed)]

人格的自己の根源は絶対無評価、絶対無エゴイズム

 マインドフルネスにはそれぞれ哲学がある。なぜ、マインドフルネスの心得がいいのかは哲学(東洋、西洋) からの要請である。アクセプタンス・コミットメント・セラピー(ACT)は、行動分析学という西洋哲学であるという。しかし、ジョン・カバット・ジンや自己洞察瞑想療法(SIMT)は東洋哲学である。ジョン・カバット・ジンは、道元を尊敬しているという。 根底に一生探求すべき「全体性」があるというが、西田哲学がいう「絶対無」、大乗仏教でいう、空、真如、仏性だろう。華厳でいう「一即一切、一切即一」の「一」だろう。 日本の哲学者・宗教者道元はこういう。  「仏道を信ずる者は、須らく自己本道中に在って、迷惑せず、妄想 せず、顛倒せず、増減なく、誤謬なきことを信ずべし。」 (道元)

 井筒俊彦は、自己の根源を「絶対無分節」「絶対無本質」という視点から考察した。(「意識と本質」岩波文庫)。
 この自己の根源は、古来、さまざまな視点から言及されている。私らは今、現代に貢献できる社会的マインドフルネスということを考えている。マインドフルネスの心得のなかに、「無評価」がある。それがどこから出てきたのか。道元の上記の言葉をみていただきたい。 無評価である、ただし、「絶対無評価」である。対象的なものの無評価ではない。言葉もなく、自分も世界も分かれる前、すべての存在が分かれる前、もちろん善悪など評価はない。 高い低い、自己、評価などない。 これを自覚して、これが根底にあると了解したものが人格的自己である。 このレベルのマインドフルネスを実践するのが人格的自己のマインドフルネスである。同等の「思想」を主張する宗教や哲学は西洋にも他国にもある(井筒俊彦)が、その具体的実践は日本にしかない。(次の記事、井筒俊彦の言葉)
 日本には、このレベルの心の救済が遅れている。学校や職場でいじめられる人、虐待された人、DVされた人、パーソナリティ障害にみられる見捨てられ不安(自己評価が低い)、性犯罪の被害者、がん告知された人の心のケア・・・。心の病気やさまざまな社会問題の解決のためには、絶対無評価を「習う」のがいいのである。まずは、入り口として、対象的に意識された感覚、症状、環境、状況を無評価で観察する、相対的無評価である。この段階が意志的自己レベルのマインドフルネスである。これに習熟したら、対象とならない自己について、無評価の修練に入る道が日本にはある。

 マインドフルネスの心得の一つに、みだりに思考しないことがある。これは、対象的なものを言語で回転していくのである。言語で思考し続ける苦悩の状況である。また、自分と他者を苦悩させる結果になるエゴイズムの心もあるがまま観察し、欲求のままに行動化しないこともマインドフルネスである。 道元の言葉に、これも含まれている。「我見我執を捨てる」というが、自分の立場の固執、おしつけで、苦しめる。道元のことばは、絶対的無評価、絶対的無言語、絶対無エゴイズムの立場からの教えなのである。「言葉/∞」であるから、わかりにくい。西田哲学もわかりにくい。 我々の心の病気や対人葛藤は、相対的、対象的なことであるが、その解決は、自己の根源の方向の実践を「習う」ことが方針となるのである。

 マインドフルネスは、意志的自己レベルのマインドフルネス、すなわち相対的無評価、相対的無言語(解決のない思考は抑制)、相対的無エゴイズム(本音に気づき発動させない)を習うことで解決することが多い。それでも解決できない深い問題は、その解決になるマインドフルネスが 東洋に、日本にはあるのである。叡智的自己、人格的自己のマインドフルネスである。
 「自己はもともと絶対無評価、絶対無分節、絶対無エゴ=の道中に在って、迷いも困惑もせず、苦悩を妄想 せず、間違いもなく、増減なく、誤謬ない」 (道元)のだ。これを習うのである。すると、それに近づく。評価しない人になる、苦悩の思考をしない人になる、エゴイズムを押し付けない人になる。それがすべての人の根源であるとわかる。すべての人が根源的人格を持つ存在として、自分とすべての他者を尊重する。医師や心理士、さまざまな団体、自分のスキルで救済できないレベルのクライエントの立場にもなれるだろう。自分が救済できるスキルを持たないことを申し訳ないと思うだろう。自分のスキルで救済できず苦悩する深い立場で見る人に、自慢、自己満足などありえない。専門家は自分の技法に執着して、クライエントをとじこめがちであるが、それは避けるべきだとある精神科医が言った。専門家のエゴイズム、他の記事で述べた。
 金子みすゞは、 喜ぶ人たちの自己満足の影で苦しんでいるものの悲しみを見ていた人である。成功して満足する人、自分の職務をまっとうできて人生を楽しむ人がいる一方で、うつ病が治らない、虐待された人、暴力されて苦しむ人がいる。専門家のスキルから見捨てられている。満足する専門家も向かおうとしない。

 結局、マインドフルネスは哲学が基礎になる。西洋哲学か、東洋哲学か。西洋哲学は行動分析学がある。東洋 哲学でも、東南アジア系の仏教、大乗仏教、中国襌、日本の仏教哲学がある。西田哲学もある。 同じではない。初期仏教では不十分として大乗仏教が起った。仏教の哲学にも浅い深いもあり、具体的実践がないもの、あるもの、あっても難しすぎるもの、深い苦悩に達しないもの、さまざまである。時代によって、苦悩が変化した。 深いもの、一般人ができる具体的実践があるものでないと現代の「社会的マインドフルネス」とならないだろう。 具体的実践のない、思想だけ理論だけ言葉だけでは解決しない。その理論、その哲学思想で、現実社会(内部の満足でなく)のどのような問題の解決支援ができるかの「有用性」を忘れたら、専門家の理論発表での満足になり、一般人と無関係になる。理論の好きな専門家には見えずに知らないところで苦しみ「おとむらい」(金子みすゞ)になる人が救われない。人は自己中心の立場に立つもの、自分も自己中心の世界を作るもので、見えていないことが多いということを知っていなければならない。
★人格的自己のマインドフルネスへ
Posted by MF総研/大田 at 20:07 | 人が怖い | この記事のURL
今日は東京池袋のマインドフルネスの実習の会 [2013年11月09日(Sat)]

今日は東京池袋のマインドフルネスの実習の会

 本が発売になってから4カ月あまりです。 本を読んでコツコツと実践していくと、脳の中に神経生理学的な変化が起り、症状が改善していきま す。一人で自習できない方には、 次のカウンセリング所で、受けることができます。  マインドフルネス心理療法(SIMT)を受けようという人は、薬物療法や他の心理療法・カウンセリング が効かなかった人ですから、「難治性」でしょう。 そういう方は、最低1年ほどかかります。 そういう長期間、援助してくださるところをご紹介しています。

 基本的には自習できるが、一度体験してみたいという人のために、 東京池袋と埼玉県蓮田市で、実習の会を開催しています。
 今日は池袋の会です。  池袋では8回目ですから、東京は人口が多いとはいえども、さすがに参加者が少なくなりました。 さらに減少すると、会社のご好意にいつまでも甘えることもできず、埼玉での実習に絞ることになるで しょう。
 全国の他の地区の方から、自習できないという声もきかれます。 認知=思考の内容を変える心理療法ではなくて、西田哲学によれば、認知=思考よりも深い意志作 用レベルであるために、読むだけではなくて、実践しないと変化がないレベルの問題を改善する心理療法です。その方法を理解できない、長期間、自発的に実践し続ける持続的意志を持ち続けられない人もいます。 簡単にはカウンセラーにもなれない理由もここにあります。カウンセラーになりたい人は、自分でもかなり実践していないと、患者さんにさまざまな質問にこたえることができません。
 カウンセラー講座を受けても、援助を始めることができない人もおられるようです。 他の人を「治す」ほどの高度のスキルの習得は難しいのです。カウンセラーが自分自身、しっかりと実践しないと「治す」援助はできません。たくさんのマインドフルネスの本が出版されているのに、うつ病などを治すところまで援助し続けるカウンセラーがほとんど現れないのは、ここに理由があります。軽くなる程度の浅いマインドフルネスではなく、「治る」理論と実績のあるマインドフルネスは、簡単ではないのです。軽くなる程度の薬物療法はあります、それで治らない治療法が必要なのですから、軽くなる程度のマインドフルネスだけではなく、「治る」までの理論と実際臨床的に用いてみてエビデンスを重ねていくマインドフルネスもどうしても必要なのです。
 食材偽装が問題になっていますが、「マインドフルネス」ならどれでも、うつ病が「治る」というわけではありません。「偽装」に近い宣伝、誇大宣伝によって患者さんの期待を裏切らないようにしていかねばならないと思います。マインドフルネスには、提供者側の我利我執の心(本音、エゴイズム)のあるがままに気づき、自分や他者を苦しめるものは自覚化、乗り越え、抑制する必要があるのですから。
 現在、マインドフルネス心理相談員の育成講座が進行中ですから、来年春には、これを提供してく ださるカウンセラーが増えるでしょう。理論の学習だけでは習得できず、カウンセラーにも、体験が必 要な心理療法であるために、 カウンセラーの育成に長期間かかります。これが課題です。現在、「治す」レベルのマインドフルネスの支援者を育成するところが少ないようで、今回も、想像を超えるほど遠くの方か ら6回もある育成講座に参加なさっておられます。その地区の患者さんは、期待できますね。
 東北、北陸、四国、中部、南九州などは、セッション1から10まで希望者は誰でも受け入れるオープンのサービス(個個別、グループ) を「始めた」というご連絡をいただいたカウンセラーがまだ、いません。全国の県に一人はカウンセラーがおられるよ うにしたいという夢を描いてから8年経過しました。これは、その地区の人の中からそういうお気持ちを持つ人がおられることが必要ですが。
Posted by MF総研/大田 at 06:42 | 人が怖い | この記事のURL
専門家の還元主義によって犠牲になっている市民 [2013年04月14日(Sun)]

専門家の還元主義によって犠牲になっている市民

 今日は、池袋での患者家族会でした。 専門家がたくさんおられるのに、日本では、どうして専門家が心理的要因、精神的要因でなったうつ病、不 安障害(欧米のロゴセラピー、マインドフルネス心理療法は、もっと広い苦悩までも援助している)の苦悩を治してあげられないのでしょうか。 欧米ではさまざまな心理療法が発達しているのに、日本では遅れています 。それでうつ病、不安障害、その他の苦悩(たとえばパーソナリティ障害、虐待の連鎖、がん患者さんの心のケアなど)が治らず、一部の人が自殺にも追い込まれています。
 伝統が若い人の個性的な時代にあった新しい見方、活躍を抑圧する傾向があるのです 。フランクルは、画一主義と全体主義、還元主義を批判しました。これが 、組織の構成員の自由を奪うのです。個性的な意味ある人生を認めず、統 一的な価値観をおしつけるのです。
 すばらしい宗教や哲学や学問があるのに、それが現代人の 苦悩の解決に活用されていません。うつ病、不安障害、自殺がなくなりま せん。若い人が、個性的な解釈による活動をしようとすると、伝統が個性的、新 しいものを受容しません。
 だから、伝統の組織からは時代の問題に即した新しいものは生まれませ ん。専門家が、若い人の自由をおさえつけて、伝統にとどまるように教育 をするのです。1969年にすでに、こうした伝統を批判して、新しい教 育のありかたをフランクルは提案していました。現代の日本でも、いまだに、さまざ まな組織で伝統による画一主義、全体主義、還元主義によって、若い人の 新しい個性的な価値ある 行動がおさえつけられているようです。そのように教 育されます。そのことによって、犠牲になっているのが、一般の国民です 。
 伝統が若い構成員をおさえつけず、自由に意志を表現できるようにすれ ば、うつ病、不安障害、自殺はもっと減少するだろうにと思うので す。「何何しかない」「これのみが尊い」という自己の思想、理論の絶対主義、画一主義、全 体主義の主張によって、心理療法が遅れていると思います。ロゴセラピー、認知 行動療法ができる心理士も少なく、マインドフルネス心理療法の心理士も ほとんどいません。
 意外なようですが、組織に強く依存していると、日本であっても言論の自由がありません。自分が何かの団体に所属して、自分の人生がかかっていれ ば、こんなことは言えません。日本でも、組織内では、思想、宗教、言論の自由が制限さ れているのです。
 歴史上、新しいことをしてきたのは、伝統の組織の外の人たちです。組織内で伝統の解釈を越える解釈を主張すると排斥されて、組織から飛び出すしかないのです。そういう人は組織を背景にしませんので力を持たず、大変、困難な状況にあったのです。
 フランクルの提案した教育論が現在の日本にもあるべきなのでしょう。フランクルによれば、科学とか学問の名において大学などでそういう還元主義的な主張の教育が行われると、学生が広く個性的な現代にあった意味を発見する心をおさえつけてしまうことがあるようです。先生や専門家が強くいうので、学生が時代にあった自分の解釈を発見しにくい雰囲気にさせる。古い伝統がそのまま続く。そのままでいい芸能のようなものもありますが、心理や精神、宗教的救済などの学問は時代によって検討されるべきはずですが、新しいものが受け入れられない。 西田幾多郎も、専門家のエゴイズムがあると指摘していることは別の記事でみたとおりです。 マインドフルネス心理療法が日本で開発されずに、欧米で開発されて、怒涛のごとく世界に広まっていっているのに、日本の現状が今のようであるのは、伝統の抑圧、伝統による教育の問題があるでしょう。 いつか、フランクルの教育の問題を考察します。
 今、苦しんでいる若い人たち、あなたたちがすることがあります。伝統から見放されていた苦しみを乗り越えて、そして、それをそれぞれの領域で新しい生き方、方法として、社会で活躍してください。さまざまな問題、苦悩が伝統では解決しない状況がおきているのですから、次の日本を作るのは伝統そのままではありません。伝統の中にある(フランクルは金庫に保管されているといいます)よいものだけを選びそれを学び、それを越えて新しいものを創造していくあなたがたです。なんとか治して、社会の創造に、体験に意味をみつけていただきたいです。
専門家、研究者は仮説にすぎないのに絶対視して固定した見方になることを 避けられない
  • 専門家の還元主義、画一主義
  • V・E・フランクルが学問におけるエゴイズムを批判
  • 認知療法という「学問」も絶対視すると還元主義、画一主義  (認知よりも深い苦悩がある)
  • Posted by MF総研/大田 at 22:20 | 人が怖い | この記事のURL
    死にたくなったら、そのままではそこに生きがいがない証拠 [2013年03月02日(Sat)]

    死にたくなったら、そのままではそこに生きがいがない証拠

     「死にたくなる」のは「うつ病」の症状である可能性があります。心理的ストレスによって、なった「うつ病」 は薬物療法や心理療法で治ります。学校に通学し続けて、仕事も続けていて「死にたい」とい う思いが出てくるのであれば、休んで治療する必要があります。 治療がうまくいくと、「死にたい」という思いは出なくなります。 人は、本来、生きがいを求めて生きていきたい存在です。「死にたい」というのは、異常であり、病気です。病気は休んで治せばいいのです。  人間は、世界(社会、家庭、学校、職場、その他の社会)に生きがい、生きる意味( 価値という)を見つけて生きていく存在である。ところが、今、「死にたい」というの であれば、そのままでは、そこでの生きがい、生きる意味、価値が失われ ている。いきがいを感じなくても、「死にたい」という思いまでは起らないので あれば、病気ではないだろうから、そこでなんとか生きることができる。

    休まず学校、仕事に行っている人が「死にたい」のは

     一方、今、学校や職場、家庭で休まずに、一生懸命にがんばっているのに、「死に たくなっている」のであれば、 そこで、そのままでは、生きる意味を失っている。それは、うつ病という「病気」になって、 生きる意味を実現していく、生きる思索、生きる行動ができなくなっている。病気による症状なの だから、原因を明らかにしたり、治療する必要がある。 まず、薬物療法や心理療法を受けて病気を治す。健康になってから、生きやすい学校、生きや すい職場をさがす。今では、教育を受けるのも、さまざまな形がある。その学校しかないと思わず、保護者に相談してほしい。親は子どもが「死にたい、学校に行きたくない」といってきたら、励まして行かせるだけではよくない。原因をよく聞いて悩みを軽くする対策を考えたり、自殺という症状のあるうつ病を理解して、治療を受けさせたほうがいい。
     治療を受けて、心の使いかたが変化して、もとの場所に復帰する自信がつけば、復 帰できる。健康な心になっても、元の場所は、自分にふさわしくないとわかれば、新し いところを探す。生きる意味、進路などの再考である。
     この世に、生を受けるということは、全く稀有な出来事である。 絶対に、自殺しないでほしい。もし、生き抜いて結婚して、子どもができれば、また 孫ができて、自分は未来の1億人の人間の生存を左右する。生きてほしい。子どもができなくても、社会に貢献できる。生きがいをみつけて、社会を創る一員となれる。 うつ病は、薬物療法、認知療法、マインドフルネス心理療法で治る。さまざまな治療法を試してほし い。死ぬのは早すぎる。
     私もうつ病になった。しかし、瞑想によって生き続けて、今、こんなことをしている。
    Posted by MF総研/大田 at 20:41 | 人が怖い | この記事のURL
    今年こそ幸福に [2013年01月03日(Thu)]

    今年こそ幸福に

     世界の皆が幸福であってほしいというのは宮沢賢治です。 幸福であることを追求するのが人間です。 個人の長期的な幸福を「価値」といいます。長期的な幸福を探求していく 中で、日々、短期的な目的を設定して行動します。 それが意志作用です。マインドフルネスの自己洞察瞑想療法(SIMT)は、 幸福になる、幸福であり続ける意志作用の訓練に該当します。
     意志は、食事をとりたいという「欲求、目的」を思いうかべると、その ための行動をします。本を読みたくなったら書店に買いに行きます。目的 を達成すると、意志は消えます。小さな目的を次々と思いついて意志的行 動をします。意志と意志の間には、何も意志のない時もあります。
     「意志は間断的である」
     「ある意志が起ってそれが緊張して意志内容であるMotivが欲求するだけ のものを要求し終る、すなわち意志活動が活動するだけの活動をなし終え ると、弛緩してその意志活動はまったく休息し去ることを経験する。」
     個々の意志は別々ですが、「個人的意志が人格的に統一されて連続した 一直線上にあるように普通思われているのは何故であろうか。」
     「前の意志と次の意志と別個であるにかかわらず何かその間に統一作用 が働いているというのは各個の意志の起滅する根底が一であるためである 。」
     私たちは、日々、何十個の意志をおこします。意志と意志の間に、間隙 がありますが、その時に、無茶な、衝動的行動をとらないのは、 根底に長期的な価値を持つ人です。さらにその根底に一(自己)があります。うつ 病や不安障害や過食症などを改善するためには、1,2年の間、長期的な 目標を 持ち続ける必要があります。今年一年、この状況から脱出したいという長 期的な願いを持ちつづけ、そして、日々、何十個も小さな意志を行使続け るのです。新年にあたり、そういう目標をあらためて確認して、毎日、改善の ための意志を何十も起すと治るのです。呼吸法で独特の神経生理学的な変化が起きるからです。
      (注)「  」は、「東洋的無」久松真一、講談社学術文庫の「神と創造 」より。
    Posted by MF総研/大田 at 20:17 | 人が怖い | この記事のURL
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