(6)がん患者に対する心理的なケア [2021年03月15日(Mon)]
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ストレス多いと乳がん悪化
[2019年07月09日(Tue)]
ストレス多いと乳がん悪化
がんと精神的ストレスの関係で、重要な発表がありました。
私は、がん患者さんにも、マインドフルネスSIMTをすすめてきました。それは、がんを精神的ストレスにしないこと、自己の探求をしてがんと共生していく生活ががんであることを克服していくことなのです。そういう本をいま、執筆中です。(がん患者さん向けだけではありませんが)
27年前、私の父ががんになった時、坐禅の心得を説明しました(私の最初のクライアントが父です)。私たち家族には余命半年と言われましたが、1年半生きました。ほかに、二人のがん患者のかたが印象的です。おなくなりになりましたが、おいでになれる限り最期近くまで私の開催会場においでいただいて、いっしょに坐禅したり、マインドフルネスSIMTをしていただきました。新本で紹介します。
がんになったら、マインドフルネスSIMTの「ゆっくり呼吸法」がいいだろうということをあとおししてくれる神経生理学の研究発表です。
「ストレス多いと乳がん悪化」で検索すると、多くのメディアが報道しています。
https://www.asahi.com/articles/ASM7845T8M78ULBJ007.html
岡山大学の研究チームの発表です。
がん組織に自律神経が入り込み、増殖や転移を促進しているとのこと。
不安や恐怖、怒りといったストレスや緊張で活発に働く交感神経と、リラックス時に活発化するとされる副交感神経がある。がんの増大に伴って自律神経ががん組織に入り込むことを発見。交感神経の密度が高い人は、術後の再発や死亡率が高いことが分かった。
免疫学の研究で、副交感神経が活性化する時に、ナチュラルキラー細胞が活性化して免疫の働きは高まるということを教えていました。だから、がん患者さんは、ストレスの対処が免疫を高めて、延命に関係するはずでした。このほかに、自律神経を通して、ストレス対処が、現実にがんの悪化を防止することがわかったわけです。
乳がんだけではないのではありませんか。がん患者さんには、副交感神経が活性化する呼吸法やみだりに感情的になることをやめて価値実現に意識を向ける行動時自己洞察をすすめたい。
https://simtmiyagi.wordpress.com/jikodousatsu/
★ゆっくり呼吸法=マインドフルネスSIMTが推奨する呼吸法、ストレスの観察に適している。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4243
★マインドフルネスSIMTがお役にたてる 2019
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4269
★これからマインドフルネスSIMTを活用したいこと
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「入院患者自殺は重大医療事故」
[2017年08月28日(Mon)]
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(116)死に近い人の魂の救済はやはり2種あるかもしれない [2016年08月13日(Sat)]
(116)死に近い人の魂の救済はやはり2種あるかもしれない
しかし、なお、決定的な違いがあるかもしれません。
キリスト教的なものならば、自己がそのまま残っていて、良心で善い自己になるのではありませんか。一方、禅や西田哲学では、その自己はなくなります。対象的な自己は仮像です。実相は「無我」です。
目標の形、完成形が違うと、それに至る至誠の実践内容が違うでしょう。しかし、死に近い人にとって精神衛生上は同等なのかもしれません。彼(女)の希望する今と死後を見据えてそれが実現する満足を得るのです。どちらを選ぶか自由です。
患者さんがどちらを希望するのかによって、それをアドバイスできる人が支援するでしょう。その人がどちらを信じたいのか。このままの自己であるが善い自己を実践して天国に行くか。このままの意識的自己を捨てて絶対と一つであるものが真の自己と信じるか。どちらであるかによって、なお、哲学が違う(二元的かそうでないか)のですから、実践が違うでしょう。しかし、死に近い人の魂の救済は同等でしょう。
日本人は、二元観でないほうを求めたようですが、もう現代ではそれも変質したのでしょうか。樋野さんと石飛さんは戦後の日本人の精神が「劣化」したという話題にはいっていきます。
(続く)
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(115)クオリテイ・オブ・デス=「死の質」 [2016年08月12日(Fri)]
(115)クオリテイ・オブ・デス=「死の質」
7月26日、BS テレビ8チャンネルの「がん哲学外来」についてみています。終盤にはいって、がん哲学外来の核心にはいってきたと思います。
やはり、日本人らしい「至誠」の実践が出てきました。
樋野さんと石飛さんが司会者(アナウンサー)の問いに答えていきます。
クオリテイ・オブ・デス=「死の質」とは何かが説明されます。西田哲学でいう「プラクシス」(自己の形成、至誠の自己を作る)であると思いました。・・・・これが、日本人なのでしょう。ところが、戦後、教えなくなってしまったといいます。
人間は最後の5年間が勝負
樋野さんは
「人間は最後の5年間が勝負」
「病気であっても病人ではない」という。
樋野さんの言葉です。
「最後の5年間がどういう生活であったかは、残された人間から見ればプレゼントになる。」
「勇ましく高尚な生涯、こfれが人生の目的」
「誰でもできます。日々勉強です」
(これは、西田幾多郎博士が、日本人は「至誠」を実践してきたといいのと通じます。)
どういうことかというと、樋野さん・・・
「自分に与えられた」役割がある。あたえられた性格を完成させる。善い性格になって去っていく。それが最後の5年間です。」
(これを聞いて、私は西田哲学のプラクシスを思いだす。エゴイズムの自己を至誠の自己にする。本来そうである(無我)のに、それを実現させる。これは古来の禅や西田哲学による解釈ですが、樋野さんのと似ている。それがキリスト教的であろうとも、日本化したキリスト教かもしれません。内村鑑三にみられます。日本の人はキリスト教も日本的なものにした。遠藤周作もそう。
しかし、なお、決定的な違いがあるかもしれません。日本人や(自他不二的」です。他は絶対(仏、世界、絶対的一者,絶対無)も含みます。次へ。)
(続く)
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(113)がん哲学外来は心理の専門家でない人も支援できる [2016年08月08日(Mon)]
ティク・ナット・ハン師のマインドフルネス
31日と7日に、NHK Eテレビで、ティク・ナット・ハン師のことの再放送がありましたね。
広く知られているマインドフルネス(東南アジアの他の国々の、ヴィパッサナーの系統)と違って、大乗仏教の禅でした。深いマインドフルネスでした。心理学にもさまざまな流派がありますが、「マインドフルネス」もさまざまな流派があり、かなり違います。
大乗仏教の深いことが、詩的な情的な表現で説法されていて、やはり真髄はわかりにくいのはやむをえません。いま、がん哲学外来のことを見ていますので、
これが一段落したら、ティク・ナット・ハン師の深いマインドフルネスを、ちょっと見ておきたいと思います。
(113)がん哲学外来は心理の専門家でない人も支援できる
少し、フランクルの思想をみました。がん患者が生きる意味を失うことがあるので、関係があると思ったからです。
では、樋野さんのお話しを参照して、現在の医療や宗教や臨床心理から見放された領域を見てみます。
司会、アナウンサーの質問に樋野さんが答えていきます。ごく一部の要点をとりあげて問題点を浮き彫りにしています。(そのままではない)
(Q)がん哲学外来は専門家がやっているのか。
(A)全国95箇所にがん哲学カフェがあるが、医師でない人でもやっている。
肩書きじゃないから、人間として接するのだから。誰もやらないから、隙間を埋める人が必要である。
(大田:がん患者さんの心のケアは、医師、臨床心理士、宗教者の誰もやっていない。樋野さんと、それに触れてこれを生きがいとした人が行うしかない。)
(Q)樋野さんのやっていることは宗教者のようだが。
(A)人間学だから。そういう場が必要である。
(大田:「人間学」、宗教は提供していないらしいですね。宗教は何をしているのでしょうか。)
(Q)本来なら医療の中で行われるべきなのか。
(A)大学(医学部)、病院は余裕がないから、無理。大学などではほかに学ぶことが多い。大学に期待するのは無理。
(大田:がん患者はさまざまなことで悩む。それに応えるためには、やはり、それなりのケアの仕方が必要である。樋野さんも5人の先人の本を繰り返し読んでおられるという。内村鑑三、新渡戸稲造など繰り返し読むという。多くの医師はそういう時間はない。関心も薄い。結局、樋野さんがいうように、これをいきがいに思うひとが隙間をうめるしかない。医師、宗教者、心理士である必要はない。この領域の新しい専門家である。
医師のすべてに期待するのは無理である。宗教者でさえも、この領域のサービスができるわけではないし、生きがいとする宗教者が多いわけではない。職業を越えて、誰でもいいから、がん患者さんのケアに生きがい=価値を見る人が行うのである。
マインドフルネスもさまざまな人がやっているが、がん患者さんのケアに生きがい=価値を見るマインドフルネス推進者は少ない。それと同様なのである。)
「がん哲学外来」に寄せて
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(112)価値と意味は違う [2016年08月05日(Fri)]
(112)価値と意味は違う
=「がん哲学外来」に寄せて(7)
フランクルによれば、価値と意味は違います。
これは「マインドフルネス」でも留意すべきことです。
長期的に選択した生きがいのようなものを「価値」と見ればいいと思います。
そして、がんになって新しい「価値」を見つけたとしても、
一瞬一瞬、どう行動するか違います。
がん患者だけではありません。
価値をみつけて生活しているつもりなのに、ある日、ある時、一瞬一瞬、どうするのか意味を問われます。
「価値とは普遍的意味のことですが、反対に意味は常にユニークです。各人は達成するべきそれぞれユニークな意味を持っており、しかもその意味は一瞬一瞬に変化していくのです。なぜならそれは各人の生の状況がその時々にユニークな特別の意味を持っているからです。このことが私の責任を構成するのであり、ここから私の生のユニークな意味を遂行する責任が出てくるのです。」(『意味喪失の時代における教育の使命』広岡義之訳、
『現代思想4月臨時増刊号 imago 』vol.41-4、2013、青土社 (総特集 ヴィクトール・E・フランクル,p43)
「意味は、そのつど一回的・唯一的なものであり、そのつど初めて発見されるべきものであるからです。これに対して、価値は、一回的・唯一的な状況ではなく、繰返される類型的な状況に内在するような、つまり人間の状件を際立たせるような普遍的意味なの
です。」(『意味への意志』p25)
よき家庭、めぐまれた職という価値を持ちながら、
一瞬一瞬、意味を問われます。ミスを犯したり、他者を傷つけたり、犯罪を犯したりします。常に新しい意味を問われています。
がんであるとわかってから、新しい「価値」を見つける、それも、一瞬一瞬、そのつど、意味を問われます。発見した「価値」のために、生活のすべての瞬間に、その「価値」に専心できるわけではありません。「他者のために」と思って臨む会合で、ある一瞬、他者を傷つけるかもしれません。会合が終わって一人になった時や、夜に、その一瞬一瞬に、死の恐怖におそわれて長く泣くかもしれません。
すべての人の価値と意味
がんのことだけではありません。すべての人のことです。自動虐待の対応
が10万件越したといいます。外見では家庭と立派な職を持つひとが、家族に暴力をふるい、虐待をしているかもしれません。
医師、宗教者、会社経営者という立派な職を持つ=価値を持つ人が、一瞬一瞬、責任を問われています。よく、自己中心的なこと、組織中心的なこと、職種特有のエゴイズム的な判断をします。
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(111)宗教的問題の支援は聖職者、意味の発見の支援は医師 [2016年08月04日(Thu)]
(111)宗教的問題の支援は聖職者、意味の発見の支援は医師
=「がん哲学外来」に寄せて(6)
=意味、価値発見の支援はあ医師役割、その先は宗教者の役割
がん患者に接する医師は、患者が告知した直後から数年にわたる闘病生活の中で生きる意味を失い、うつ病になったり、家族との関係に悩んだり、自殺することもある。意味の発見の援助は医師の役割であると、フランクルはいう。
宗教的な救済とは別である。その点では、フランクルと西田哲学は似ている。
「神学とロゴセラピーとの境界をはっきりさせることである。われわれの考えでは、両者
の境界は次のように要約できる。すなわち、精神療法の目標は心の治療である。これ
に対して、宗教の目標は魂の救済である。これら二つの目標設定がそれぞれどれほ
ど違っているかは、次の事実から明らかであろう。」
(V・E・フランクル、山田邦男監訳 『人間とは何か 実存的精神療法』 2011、春秋
社、p385)
生きる意味を持つのは、西田哲学では意志的自己と叡智的自己である。宗教段階ではない。フランクルと同様である。宗教段階ではないから、宗教を知らない医師でも支援できる。
「心の健康のレベルと魂の救済のレベルとは別ものである。つまり、宗教的人間が突き進む次元は、より高い次元¥、すなわち、精神療法のようなものが行われる次元よりも、さらに包括的な次元である。」
(同386頁)
超越のレベルは、宗教的であるから、宗教の資格を持つ医師しか支援できない。樋野先生の「がん哲学外来」は、宗教レべルではなくて、意味の発見であり、ロゴセラピーと同様であるように見える。
生きる意欲の喪失、うつ病、自殺などを防止できるから、とても重要である。これまで、あまり行われていなかった。
ただし、ロゴセラピーのフランクルの書は、超越についてもかなり触れている。
がん患者は、生きる意味の発見というレベルと自己存在についての宗教的な支援を必要とする人がいる。意味の遂行ではすまないひとがいる。そこは、宗教の役割であると、フランクルも西田幾多郎博士もいう。
すべてに、違うレベルの「マインドフルネス」や「坐禅」がある。「マインドフルネス」「禅」は浅く狭い領域だけではない。
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(110)対象的心理の奥に対象とならない超越 [2016年08月02日(Tue)]
(110)対象的心理の奥に対象とならない超越
=「がん哲学外来」に寄せて(5)
=意味、価値発見の支援が最終ではない,
ヴィクトール・E・フランクルの人間存在の哲学は、日本の西田哲学と似ています。 自分とは何か、見るとか考えるとかさまざまな作用が対象を作り出すので、自己存在そのものは、作用の内奥にあります。その対象とならない自己存在が「実存」です。 実存、自分は価値を発見して生きるものです。
その奥に絶対を見る、フランクルの書では「超越」と訳されています。
人間が何とか行ける内在の部屋
フランクルによれば、内奥の自己存在は幾層かに分かれており、全体を「内在の部屋」と呼びます。従来の心理学は、表面の心理現象(海面の波のよう)だけを扱っていて、それを起す「実存」をあつか っていないから「内在の部屋」は、普通には見えない「海中」のようです。そ の海中が、何層かある。浅い海中が、西田哲学でいえば、意志的自己(の部屋) ですが、「深海」が叡智的自己(の部屋)に似ています。人間が行けるのは、ここまでです。最も奥が「良心」だといいます(下記参考書155頁)。西田哲学の「意的叡智的自己」に相当し、西田も「良心」といっています。浅い海中は、「情的叡智的自己」や「行為的自己」に該当するでしょう。
フランクルによれば、ここまでが「内在」です。
精神療法、医師の支援は内在の部屋まで
宗教を持たない医師が支援できるのは、内在までです。意味、価値を見つける支援までです。ロゴセラピーが最終的支援ではなくて、もっと深い支援があるというのです。
「実存分析が課題にしなければならないのは、いわば内在の部屋を整えること、ただ し超越への扉を塞がないようにそれを整えることです。宗教精神がそこを通ることがで きるように、あるいは、宗教的な人びとが、あらゆる真の宗教性の特徴である自発性を もってそこから出て行くことができるように、扉はいつも開かれていなければなりませ ん。それゆえ、実存分析は決して人間の究極的な意味発見の終着駅ではありません。と いうのは、実存分析は最終的な答え、少なくとも宗教の観点から見て最終的な答えを与 えるわけではないからです。しかし、実存分析は、その人が宗教的であるか否かにかか わらず、ある駅まで、つまり、そこから終着駅まで《直通する接続》を容易に見つける ことができるような駅まで導くことはできます。実存分析の道程の目的地は確実に宗教 性に至る《路線の上に》あるのです。」(フランクル『意味への意志』春秋社,108-109頁)
医師は患者が宗教の扉に入ることを否定してはいけません。がん病棟に、超越を扱う支援者がはいることを許可してほしいものです。それを必要とする患者もおられるでしょう。
西田哲学の言葉で言えば、がん患者さん、難治性の病気、死の問題かかえた人の心の援助には、意志的自己レベル、叡智的自己レベル(ここまで宗教性がない)、さらに超越、絶対、宗教レベルの人格的自己への支援があることになります。日本はとても遅れています。これからも、医師は忙しいので、医師には無理であろうと樋野先生は言っておられました。たいていの医師は、こういう領域には「意味」「価値」を持たない、身体の病気を治すことに価値を持ち、心のケアに割く時間を持てない。そこで他の人材が行うことになるのです。
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(109)宗教的なことが精神衛生上大きな意義がある [2016年08月01日(Mon)]
(109)宗教的なことが精神衛生上大きな意義がある
=「がん哲学外来」に寄せて(4)
ヴィクトール・E・フランクルは、次のように言う。死に近い人に、宗教的体験が精神衛生上、大きな意義を持つという。
「宗教体験においてもっぱら重要なことは、絶対的な背景に対する自己自身の不完全
性と相対性の体験であるからです。宗教的な理解において、人間は絶対的なものへの自
己の関係性、言い換えれば、本来的には《関係しえないもの》への自己の関係性を体験
します。われわれはしかし、このパラドックスに驚くには及びません。この関係しえ
ないものへの関係性とは、守護性以外の何でありましょうか。それはまさに、
隠れた者、超越的な者の内に守られていること(守護性)にほかなりません。それゆえ
、たとえこのパラドックスが解消されなくても、われわれはそれに積極的な転換を与え
ることができるのです。それと同時に、この積極性には、精神療法ないし精神衛生的観
点から見て、きわめて大きな意義が含まれています。・・・・
宗教的体験、とりわけ守護性の体験が治療的になお一層重要な意義をもっていることが
明らかになるからです。」(『意味への意志』106頁)。
そして、医師は、死に望む患者に対して、宗教への扉をふさいではならないという。医師ができなくても、患者が宗教性にめざめる可能性がある。
ただし、援助者(医師、カウンセラーなど)のすべきことは、宗教的なことではない、宗教で導くことは聖職者(宗教者)の役割だといいます。(あとで、いうかもしれませんが、日本では、禅となどでいう絶対の範囲です。神、仏などで魂が救われることです。死が近くても乗り越えるでしょうから。)
「患者が自分自身の世界観や人生観を持つようになる所まで連れて行くのが医師の使命ではないでしょうか。」(『意味への意志』p60)
「患者が、自分自身の責任に基づいて人生の新たな精神的方向を見つけ直すところまで導くのが医師の使命ではないか」(p60)
患者が自分で意味をみつける手伝いをするが、発見するのは患者自身の責任、他者が決めることではない。
「患者を自己責任へと教育することです。」(p60)
「ロゴセラピーがぎりぎり関与することが許される自己責任への教育という地点こそ、治療の最終目標として十分なものであるだけでなく、まさに治療を支える要でもあるからです。なぜなら、人間、とくに神経症を患っている人間に必要なものは、まさに自分自身の責任をできるだけ意識することにほかならないからです。それゆえ、あらゆる精神療法、とりわけロゴセラピーは、人間の責任性、人間の自由ということをあくまでも強調するのです。」(p60-61)
「神経症」といっていますが、うつ病もそうでしょう。がん告知されたり、悪化したり、外科手術で脚を切断するような患者の扱う医師は自殺されるほどに苦悩する患者がすぐそばにいる。
そういう患者の生きる意味を見つける責任は患者にあるが、それを支援するのは医師である。ここまでは、宗教ではないから。
「がん哲学外来」の樋野先生はこれをなさっている。
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