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「学問の自由があぶない」 [2021年04月24日(Sat)]

「学問の自由があぶない」

 学術会議の問題について、新しい展開があります。

「学問の自由が危ない」 という本が出版されました。

 この本の内容はわかりませんが、この本を紹介した文に大きな関心を持ちました。

 「学問とは、従来の学説を批判して新しい見識を生み出していく営為批判こそが生命であり、政治の主張に従う下僕ではないと。」(4月18日「埼玉新聞」、読書欄、本書の紹介)

 欧米の「マインドフルネス」は、無評価といいますから、それは科学学問の世界では通用しないのです。「無評価」は、瞑想の場だけということになります。
    https://blog.canpan.info/jitou/archive/4054
     ポージェスのポリヴェーガル理論で、MBSRなどの無評価の観察は評価するされる現場では使えないという。こうして、マインドフルネスの学問も評価されて、評価の現場ではより効果が高いものに発展していく。
 学問の世界は、評価、批判の世界です。ビジネスの現場も、評価の場です。上司から顧客から評価批判されます。大学もそうです。学生は、教師から評価判断されます。教師の評価により、未来がふさがれることさえあります。芸術の世界も、スポーツの世界も評価されます。

 もう一つの関心があります。学問の世界にも、自由がない場があると感じています。 長老や指導者にその人の説を批判する新しい学説を主張できますか。できないでしょう。排除されるおそれがあります。同じ説が何年も、何十年も主張されています。新しい学説が表面に出てきません。
 新しい学説を打ち出さず、従来の他者の説を紹介するだけならば、学問ではない?

 学問の自由がない場所が多いのかもしれません。オルテガが学者を批判しています。 どういう視点をいうのでしょうか。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4100
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4128
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4133
★オルテガ

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3270
★西田哲学
 =学者もエゴイズムを犯す
 =科学学問も「至誠」で行うべきなのだが、、、。

 うつ病、PTSDなどの治療法もいまのままでよいはずがなく、学問による批判により新しい治療理論、治療法を研究開発してほしい。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4133
★大学でも多数派の学説によって少数説(こちらが社会をよりよくするかもしれないのに)が排除される
 =なぜそうなるのか、多数派の学者が自己の利益(地位、名誉、収入、面子など)を死守する本能のために、過去のすぐれた古人の思想、業績、そしてそれを掘り起こす学問を排除する傾向。オルテガやフランクルがいう。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4413
★今もなお専門家多数派のエゴイズムは学者にも
 =すべての学者のいうことがすべて正しいわけでもない

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4671
★科学学問をする人にも「美しい日本の心 至誠」を欠き、権力で自利を計るものがいるということです。社会益、国益の侵害となる。




https://blog.canpan.info/jitou/archive/4660
【目次】日本学術会議、6名任命されず、科学学問の自由の侵害と学会、思想家が批判
Posted by MF総研/大田 at 20:21 | エゴイズム | この記事のURL
軍事利用や企業(のトップ)側から社員の搾取に悪用される?=無評価のマインドフルネスには倫理的ガイドラインが必要では? [2019年12月07日(Sat)]

軍事利用や企業(のトップ)側から社員の搾取に悪用される?

 =無評価のマインドフルネスには倫理的ガイドラインが必要では?

 今朝、こんな記事があることに気がついた。

http://zeropointbuddha.hatenablog.com/entry/darkside_mindfulness
軍事利用や企業(のトップ)側から社員の搾取に悪用される?

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4442
★ここで、無評価のマインドフルネスの限界に触れていた

 やはり、無評価のマインドフルネスが科学というならば、何かのガイドラインが必要ではないのか。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4169
【評価するマインドフルネスはどうあるのか】
  ⇒倫理的ガイドラインも

 大乗仏教の観察、禅は、宗教である。西田哲学は哲学である。エゴイズムの心理洞察や 自己抑制の基準がある。

 無評価のマインドフルネスは、軍事利用や為政者、権力者(宗教者やオルテガがいうように大学人を含む)、反社会的な集団の幹部から抑圧、弾圧に悪用されるおそれはあった。
 「無評価」のマインドフルネスだけではなくて、評価のマインドフルネスもなければならないと考えていた。自己および他者(他己)の感覚、思考、行為に独断、エゴイズムの心理がないかを評価するのである。自己の発語、行為もただちに感覚となる。対人関係においては感覚と行為は分けることができない。行為的直観といい、必ず主体の内面の意志が表現されている。独断、エゴイズムもあれば、至誠もある。

 マインドフルネスが濫用されるのは我利的独断的に用いるのであり、どうあるべきか学問的な真剣な検討が必要であろう。さもないと、マインドフルネスは大学で教えるような学問ではないと批判されるおそれがある。

 無評価のマインドフルネスとは、何なのだろうか。技術か? 単なる瞑想か? これから、議論されるだろう。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3159
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3589
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3611
★マインドフルネスの誇張広告、効能を悪用する講座 ★マインドフルネス(無評価)の悪用のおそれ


https://blog.canpan.info/jitou/archive/2425
★大乗仏教はこんなに崇高な理念を主張している

【目次】このようなところに活用できそう
 マインドフルネスSIMT 2019

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4243
Posted by MF総研/大田 at 08:31 | エゴイズム | この記事のURL
(18)異邦人のまなざし [2019年12月05日(Thu)]

(18)異邦人のまなざし

もう一度学問にある専門家多数派のエゴイズムを考える

【書籍紹介を兼ねて】
小坂井敏晶.jpg
「答えのない世界を生きる」小坂井敏晶、祥伝社
 この書籍紹介を兼ねて、専門家多数派のエゴイズムについて考てきた。まとめておきたい。

異邦人のまなざし

 あとがきにある「異邦人のまなざし」を学生、市民に期待したいというのが著者のいいたかったことであり結論であろう。

 「全体主義から人間を救う「異邦人のまなざし」に私は期待するのである。」(p352)

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4417
 異端者、異邦人の使命は、全体主義、画一主義、還元主義の暴走をくいとめることである。

 なぜなら、みてきたことから、私は次のように受け止めた。

 多数派による全体主義を絶対視して同調することは、提唱者の意志に従うこととなり、自分独自の意志がない。たった一度きりの人生なのに、それでいいのか。
 多数派を絶対視すると、自由のない集団、国となる。人間はじつに複雑で多様である。自分が自由を奪われたくないように、他者の自由を抑圧することは避けるべきである。
 多数派のみかたを絶対視すると、それにあてはまらないものの人権を阻害する、差別し、苦しめる。それにあてはまらない少数派の苦しみを無視、傍観し続けることになるおそれがある。みな、平等な人間である。

 全体主義の学問批判はフランクルやオルテガにあったもので、随分と古い警告であるが、今でも全体主義が起きており、多数派の暴走を食い止める異邦人が必要である。さもないと、自由のない独裁団体による独裁国家になりかねない。世界は激変していくなかで、学問も固定するわけにはいかない。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/2670
★フランクル=学問における全体主義、画一主義、還元主義を批判



(日本の哲学者は深い幸福論の哲学、深い超越的自己をいいますね。宗教者からはあまりみないものが日本の哲学者にあります。次にご紹介させていただきます。)
連続記事目次
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4413
もう一度学問にある専門家多数派のエゴイズムを考える
(参照)「答えのない世界を生きる」小坂井敏晶、祥伝社


【参考】
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3962
☆西田幾多郎、大竹晋氏による仏教批判

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3270
☆物となって見、物となって考え、物となって働く
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3359
☆至誠の実践
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3329
☆「後期西田哲学の実践論」の論文

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3270
★エゴイズムのない深い自己、堕落の観照とは

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3875
★忖度社会ニッポン

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4100
★オルテガ「大衆の反逆」

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4419
★少数説を知ることができる場を作る

【参照】
 綿野恵太『「差別はいけないとみんないうけれど』平凡社
 北村英哉・唐沢穣『偏見や差別はなぜ起こる?』ちとせプレス
 鷲田清一『濃霧の中の方向感覚』晶文社
  山口尚『幸福と人生の意味の哲学』トランスビュー
 青山卓央『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』太田出版
 泉谷閑示『「私」を生きるための言葉』研究社


https://blog.canpan.info/jitou/archive/3288
★日本には深い自己観察の哲学と実践がある。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3789
★仏教者の「思想的な怠惰」
Posted by MF総研/大田 at 11:53 | エゴイズム | この記事のURL
(17)論文に海外の文献ばかりを引用 [2019年12月04日(Wed)]

(17)論文に海外の文献ばかりを引用

もう一度学問にある専門家多数派のエゴイズムを考える

(参照) 綿野恵太『「差別はいけないとみんないうけれど』平凡社

 日本では日本人による多数派とは異なる学説が、日本人によって紹介されることは少ないという。そうなると集団内のメンバーや学生、国民は、少数説すなわち多数派の説を批判する説を知ることができない。多数派の意見がいつまでも、教えられ続ける。メディアも多数説だけを紹介し続ける。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3670
★学者は平気でうそをつく

 「森田療法は、・・・・認知療法・認知行動療法という最新の精神療法とも似通った点があり、近年では世界的に見直されてきました。・・・・ その考え方は時代を大きく先取りするものだったのです。・・・。 日本の学者はとかく欧米の概念をありがたがりますが、日本発の技術には、欧米で評価されるまで気づかないのが残念なことです。」(和田秀樹、p100)J

 日本の学者は、日本人のすぐれた学説を評価できない、紹介しようとしない傾向があることは、ほかの人々も警告しています。お二人紹介します。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4198
 すでに、このことを紹介しましたが、ここに引用した文章の前の文もご紹介します。
 「私は職業哲学者であり、人生経験もその方向に偏っていますが、哲学研究と重要感の関係についても少しだけ述べさせて下さい。日本の哲学研究には独自性がない---海外の哲学の後追いにすぎない---という風説がありますが、本当に欠けているのは、・・・」(青山p159) (上の記事に続きます)

 「 良い邦語文献がある場合でもーー海外文献にしか言及しない例などはよく見られます。」

 もうお一人。革新的な説を日本の多数派で認めないので、海外に流出していく問題です。

 「学問の世界、研究開発の分野、経済の領域、あるいは芸術の分野などでも、様々な「現実嵌入」が生じていて、探求することが正当に評価されなかったり、ルールに則って進めることが阻害されたり、良いものが良い評価されなかったりといった妙な歪みがあちこちで生じていることが見えてきます。有能な研究者やスポーツ選手、芸術家なdが、日本の「世間」で不当な扱いを受け、国外に脱出して成功する例も少なくありませんが、そこにこの種の問題の存在が如実に表れているように思います。」(泉谷p92)

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4351
現実嵌入= 「「現実嵌入」とは、「現実」が割り込むように嵌(はま)りこんでくることを指す言葉ですが、この「現実」とは、相手との関係や「世間」的しがらみを含むような内容のことです。」(p40)

 大学の学問にかなり広く、我利、エゴイズムの心理が広がっているような感じです。 このような自己中心の暗い心理は、大乗仏教では「煩悩」として気づくようにしなければならないのでした。世界の立場でなく、自己(の利益、の価値、の幸福)の立場であるから。


連続記事目次
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4413
もう一度学問にある専門家多数派のエゴイズムを考える
(参照)「答えのない世界を生きる」小坂井敏晶、祥伝社


【参考】
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3962
☆西田幾多郎、大竹晋氏による仏教批判

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3270
☆物となって見、物となって考え、物となって働く
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3359
☆至誠の実践
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3329
☆「後期西田哲学の実践論」の論文

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3270
★エゴイズムのない深い自己、堕落の観照とは

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3875
★忖度社会ニッポン

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4100
★オルテガ「大衆の反逆」

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4419
★少数説を知ることができる場を作る

【参照】
 綿野恵太『「差別はいけないとみんないうけれど』平凡社
 北村英哉・唐沢穣『偏見や差別はなぜ起こる?』ちとせプレス
 鷲田清一『濃霧の中の方向感覚』晶文社
  山口尚『幸福と人生の意味の哲学』トランスビュー
 青山卓央『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』太田出版
 泉谷閑示『「私」を生きるための言葉』研究社


https://blog.canpan.info/jitou/archive/3288
★日本には深い自己観察の哲学と実践がある。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3789
★仏教者の「思想的な怠惰」
Posted by MF総研/大田 at 10:04 | エゴイズム | この記事のURL
(16)悪の意識なく意図しないでやってしまう差別・偏見・排除 [2019年12月02日(Mon)]

(16)悪の意識なく意図しないでやってしまう差別・偏見・排除

もう一度学問にある専門家多数派のエゴイズムを考える

(参照) 綿野恵太『「差別はいけないとみんないうけれど』平凡社

 現代でもある差別、偏見、排除などは、他者を苦しめる。生きがいを奪われて、うつ、自殺においこむこともある。これは、大学、企業、官庁、NPOなどにもある。他者を苦しめるので、苦からの解放、慈悲、自己成長を重視した大乗仏教、道元などは、煩悩、己見我利我執といい、観察し気づいて抑制せよと強く主張した(残念ながら多数派の仏教の学問からは無視されてきた「慈悲」「自己成長」に関係するが)。

 幅広く行われて他者を苦しめ、科学、技術、解決法などの開発を妨害することにもつながっている、こうした、差別、偏見などは、行使している本人には、そういう意図はないと思っているので、なかなか停止されることがない。これは大学でも同じだ(小坂井、p235)
 私も禅の研究、マインドフルネスの研究をやっているので、大学や他の集団で起きていることを知っている。

 「差別は「自分が気づかないうちに相手を傷つけてしまっていること」であり、「普通」「あたりまえ」としていた」ことなのである。」(綿野p243)

 「差別的な言動の行為者は、必ずしも明確な「意図」を持つわけでない。」(p244)

 「差別者からすれば、差別と認定される自身の言動は悪意のない、「普通」「あたりまえ」のことであり、取り立てて問題にする必要のないものでしかない。」)p244)

差別者は自分の判断を正当化する

 学問の世界でも、多数派の説が長く継続されることは、次の認知科学の研究から理解できる。 差別、偏見、独断であっても自己の判断を正当化している。変更されることはない。

 「このように、差別が日常的な慣習と区別されるものではないために、非難された差別者の弁明(「わざとやったのではない」「そんなつもりでいったんじゃない」)は悪質な言い訳や言い逃れに聞こえてしまう。」(p244)

 「ハイトの実験があきらかにしたのは、道徳的な判断において人間はまず直観にしたがって判断し、そのあとに論理的にじっくり思考を働かせ、かつ、自分の判断を正当化する、ということだ。」(p160)

 「ハイトは、ひとびとがまず「道徳的な判断を、すみやかに、そして情動的に下そうと」し、そして、「すでに決定済みの判断を正当化する理由を、あとから探そうとするもの」であることを示した」(p263)

 こんなことでうつになったひとがいる。ある団体で役員として久しく活動していたが、ある時、外部から役員を迎えた。意見が違うことが時々あったが、やがて、自分のささいなミスをとがめられ、多数派工作をされて役員をやめさせられた。乗っ取られたのだ。排除されるほどのミスとは思えないが、団体を自由にしたいその人に排除されたにすぎない。NPOの役員は、多数決によるので、合法的に簡単に乗っ取られてしまう。
 乗っ取りを企てた者、および同調者は悪いことをしたとは思わず、自分を正当化しているであろう。

 学術団体、宗教団体でも多数派によって運営されていくので、少数派の意見が採用されることはない。長期にわたって、多数派が継続していく。しかし、そのような集団は沈滞化し、社会の変動についていけないので、徐々に衰退していくであろう。 外部に環境に応じた新しい解決法が開発されて、そちらが信頼を得る。

 大乗仏教にあった3つの核心のうち、「慈悲」の視点から、仏教が行っていないことを「マインドフルネス」が市民の信頼を得た。自内證、自己成長は薄いものの、多くの市民がマインドフルネスに移った、
連続記事目次
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4413
もう一度学問にある専門家多数派のエゴイズムを考える
(参照)「答えのない世界を生きる」小坂井敏晶、祥伝社


【参考】
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3962
☆西田幾多郎、大竹晋氏による仏教批判

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3270
☆物となって見、物となって考え、物となって働く
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3359
☆至誠の実践
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3329
☆「後期西田哲学の実践論」の論文

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3270
★エゴイズムのない深い自己、堕落の観照とは

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3875
★忖度社会ニッポン

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4100
★オルテガ「大衆の反逆」

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4419
★少数説を知ることができる場を作る

【参照】
 綿野恵太『「差別はいけないとみんないうけれど』平凡社
 北村英哉・唐沢穣『偏見や差別はなぜ起こる?』ちとせプレス
 鷲田清一『濃霧の中の方向感覚』晶文社
  山口尚『幸福と人生の意味の哲学』トランスビュー


https://blog.canpan.info/jitou/archive/3288
★日本には深い自己観察の哲学と実践がある。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3789
★仏教者の「思想的な怠惰」
Posted by MF総研/大田 at 07:22 | エゴイズム | この記事のURL
(15)自分自身が研究対象に含まれる人文科学 [2019年12月01日(Sun)]

(15)自分自身が研究対象に含まれる人文科学

もう一度学問にある専門家多数派のエゴイズムを考える

(参照)「答えのない世界を生きる」小坂井敏晶、祥伝社

 いかに生きるか、幸福な人生、仏教、禅、マインドフルネス心理療法が人文科学で扱われる。 その学問の対象に自分自身も含まれる。真剣でなければならないはずなのに、その説、解釈で、自分自身に納得できますか。立派に科学者としての役割をはたしていますか。

自分自身が対象に含まれる人文学であるから

 小坂井氏はこういう。

 「慣れ親しんだ思考枠から抜け出すためには、研究対象だけ見ていても駄目である。問題に対峙する人間の世界観や生き方が変わる必要がある。 人文学では多くの場合、自分自身が研究対象に含まれる。(・・・・) だからこそ、思考枠を崩すのが難しい。自らの存在を正当化する基盤が危うくなるからだ。時には棄教や改宗にも似た辛い体験をすることもある。そのような深い省察を経て初めて、豊かな見方が現れてくる。 研究は頭だけではできない。腑(はらわた)を切り刻み、苦渋に涙を流す身体運動だ。ハウツー本が提案するような情報のつまみ食いとは無縁の作業である。」(p86)

 「初期仏教はこういうものだった」というところまでは学者として普通だろう。しかし「初期仏教は四諦八正道をすすめた。すばらしい。みなさんにすすめたい。」と学者がいうならば、自分自身との対決がされていないと思われるだろう。その目標は、輪廻からの解脱であり、実践は大変難しい。自分でできないことをすすめるのは、無責任だ。

 道元の禅は「目的を持たない坐禅だ。」ということを学者がいうとしたら、本当にそんなものが、主君の命令で戦争にゆき、いつ死ぬかもわからない鎌倉武士、波多野義重が尊敬しただろうか。現代にも、目的を持たない坐禅を学者としてすすめるだろうか。自分はどうなのだろうか。米を生産する目的のある行為のほうが尊いのではないか。坐禅がなくても生きていけるが、食べ物がないと生きていけない。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4343
参照:全体に押し付け、情報制限はメンバーを不幸にする

 道元や大乗仏教には、我利我執、煩悩を観察気づいて抑制せよという言葉もある。なぜ、学者はそれを言わないのか。自分でできる目的を持たない坐禅のみをいうのか。 哲学者は道元に自内證(万法の我にあらざる時節の体験)、自己成長、慈悲があることを認めるが、自分ができそうもないことがあるとは認めたくないという自己都合、 自分の煩悩を見たくないという抑圧、回避を起こして学問的な真相を明らかにできないのか。 哲学者の間では、道元を超個、絶対無、無分節にあたることを鎌倉時代初期に指摘した偉大な宗教者と認める人が多いのだが、そういう偉大な人物を矮小化するのが、客観的な学問なのだろうか。 人文学は自分自身が対象に含まれるとは、まさにこういうところに現れるのだろう。

 幸福の哲学を論じた人として「このひとはこういった。あの人はこういった。」という学者。では、自分自身の幸福の哲学はどうなのか。それを追求しないで他人の論を紹介するだけか。 小坂井氏がいうのはこういうことではないか。大学で学者と称しながら、対象を真剣に向き合っていない学問が多いのではないか。


連続記事目次
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4413
もう一度学問にある専門家多数派のエゴイズムを考える
(参照)「答えのない世界を生きる」小坂井敏晶、祥伝社


【参考】
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3962
☆西田幾多郎、大竹晋氏による仏教批判

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3270
☆物となって見、物となって考え、物となって働く
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3359
☆至誠の実践
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3329
☆「後期西田哲学の実践論」の論文

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3270
★エゴイズムのない深い自己、堕落の観照とは

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3875
★忖度社会ニッポン

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★オルテガ「大衆の反逆」

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4419
★少数説を知ることができる場を作る

【参照】
 綿野恵太『「差別はいけないとみんないうけれど』平凡社
 北村英哉・唐沢穣『偏見や差別はなぜ起こる?』ちとせプレス
 鷲田清一『濃霧の中の方向感覚』晶文社
  山口尚『幸福と人生の意味の哲学』トランスビュー


https://blog.canpan.info/jitou/archive/3288
★日本には深い自己観察の哲学と実践がある。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3789
★仏教者の「思想的な怠惰」
Posted by MF総研/大田 at 10:53 | エゴイズム | この記事のURL
(14)仏教、禅、マインドフルネスも、幸福論の哲学も再検討を [2019年11月30日(Sat)]

(14)仏教、禅、マインドフルネスも、幸福論の哲学も再検討を

もう一度学問にある専門家多数派のエゴイズムを考える

 いかに生きるかとか幸福な人生とか、というようなテーマの本がしばしば宣伝されている。不確実な時代において、市民は不安になっている。ある人物の宗教思想によるならば、下手をすると、エゴイズムの者の餌食になったり、カルトの被害にあう。幸福とか人生の意味について、市民はまじめな見方を求めている。哲学は貢献できないのか、

真剣でない幸福論の哲学者を批判

参照
山口尚「幸福と人生の意味の哲学」トランスビュー

 本書をみると、哲学者の幸福論を厳しく批判しており(私は山口氏の批判に納得できる)、 幸福とか人生の意味とかの哲学にも、種々の考え方があって、 市民が安心して読める幸福論の哲学書がないように思える。
    【市民とは】ここでは、大学や研修団体、その他の団体による社会人向けの講義、講演、著作などを通して、専門家にその領域についての知見や意見を求める人で、そのことについて専門的に従事していない人。
 西洋、日本に数々の「幸福論」がある。日本の哲学者も幸福とか人生の意味について論 じているが、自分のものがないとか、厳しい人生の出来事にあっていない{幸福}な哲学者、 宗教者のものであって、真剣さがたりない幸福論だと批判されています。彼らの定義する幸福 にはまらない幸福があるという。

 市民にとって、幸福論の哲学は仏教、禅、マインドフルネスとも関係があるはずである。仏教、禅、マインドフルネスが、幸福と無関係というならば、存在理由がないだろう。日本の禅は何も求めないのだという教えに傾むいてきたが、それならば、大乗仏教でいう「慈悲」とは言えないだろう。そう主張する自分は社会から数々の恩を受けて坐禅ができて生きているのに、何も求めない坐禅だという。種々の心理的な社会問題のなかにあえいでいる市民にも、寺院消滅が見込まれる寺院の僧侶にも、もはや、そういう坐禅を真剣にする余裕はないだろう。寺院が消滅に向かうのはやむをえないと思うだろう。環境が時代によって変化している。

 山口氏の哲学は、大田が解釈している後期西田哲学の実践としての自己洞 察瞑想療法(SIMT)に通じるところがある。山口氏の「超越的幸福論」は SIMT と類似するところがある。

 「私たちが生き、行為し、語るとき、それを「包み込む」場のようなものが在る。 こうした私たちを超えた何かこそが、本書が「超越」と呼ぶところのものです。」(p200)

 「幸福は<眼前に現れうるもの>を超えた次元につねにすでに存在している、と指摘されるでしょう。」(p206)

 「ウィトゲンシュタインは、<語りえぬもの>を「神秘」と呼び、それを大切にする姿勢を重視しました。」(p217)


 西田哲学の絶対無、井筒俊彦の「無分節」の立場からみれば理解できる。そして、これを考慮しない幸福論の不備を批判するのも理解できる。

 激動する環境、世界中にみられる対立抗争、テロリズムにさらされている時代において、幸福がおびやかされていて、真剣な幸福への方向を市民が知りたがっている。仏教の学問も新説が提示された。マインドフルネスも、限界が提示された。科学は絶対的な真実でありそうもない。押し付けは困る。自分の選択したものを多数派となって、おしつけてはいけない。後で、間違いだったということが起きる。

  家族が幸福とか、選択した仕事が幸福と多くの哲学者がいうが、病気や災害で家族を亡くした人には 幸福はないのか、災害、事故、親の介護、がんによって、仕事を無くした人、余命いばくもな い病床の人にはもう幸福はないのか。それに応えない哲学はそんなに弱いのか。真剣な問 題 と関連する。

 山口氏は「あとがき」にこういう。

 「私が最も嫌悪するのは、生の安全で怠惰な継続が保証された環境において何にも 真剣に向き合わずヘラヘラと笑い、そうした安全地帯から、何かに必死で向き合うひ とを「お気の毒に」と嘲笑するひとびとである(とはいえ私は、そうした生き方をし ていることそれ自体が彼らあるいは彼女らに対する最大の「罰」だ、とも考えている のだが)。」(p267)

  専門家や学者のエゴイズムについて考えているのだが、こういう哲学もいい加減なものであれば、市民は信用していいかどうかわからなくなる。真摯な哲学を参照して、深く広い日本のマインドフルネスを研究開発していき たい。なぜならば、マインドフルネス=自己の観察ということは、自己や他者を不幸にしない方向への観察実践でもあるはずだから。

仏教、禅、マインドフルネスも再検討を

 こう見てくると、仏教もマインドフルネスも現在主張されている多数派の学説が絶対の真実であるわけではない。押し付けないでもらいたい。多数派説の考えでは、枠からはずれた人々の苦悩や問題を無視、傍観する傾向を合理化して、マイノリティ、しいたげられた人の不幸を無視、傍観し続けるおそれがある。特に、気になるのは、「マインドフルネス」の多数派の「無評価」という態度である。自分のエゴイズムの言葉や行為、社会にある多種の他者の苦悩は、「無評価」ではわからないからだ。
 ようやく、ポージェスのポリヴェーガル理論によって、アメリカではマインドフルネスの限界が指摘された。対人場面でないところでの応用は今後も続けられるべきであるが、対人場面での観察、自己洞察、他者洞察、社会の苦悩洞察、生き抜いていく哲学とその実践化の研究を専門家、学者が研究し、少数派の革新的な説を提示してほしい。そういう少数派の学説が社会を変革していく。

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(3) その内部だけでしか通用しない理論枠に縛られ
 ☆異邦人、少数派が社会を変革する起爆剤
 ☆全体主義に陥らないように、社会の暴走を防ぐ。
連続記事目次
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4413
もう一度学問にある専門家多数派のエゴイズムを考える
(参照)「答えのない世界を生きる」小坂井敏晶、祥伝社




【参考】
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3962
☆西田幾多郎、大竹晋氏による仏教批判

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3270
☆物となって見、物となって考え、物となって働く
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3359
☆至誠の実践
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3329
☆「後期西田哲学の実践論」の論文

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3270
★エゴイズムのない深い自己、堕落の観照とは

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3875
★忖度社会ニッポン

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4100
★オルテガ「大衆の反逆」

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4419
★少数説を知ることができる場を作る

【参照】
 綿野恵太『「差別はいけないとみんないうけれど』平凡社
 北村英哉・唐沢穣『偏見や差別はなぜ起こる?』ちとせプレス
 鷲田清一『濃霧の中の方向感覚』晶文社
  山口尚『幸福と人生の意味の哲学』トランスビュー


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もう一度学問にある専門家多数派のエゴイズムを考える
(参照)「答えのない世界を生きる」小坂井敏晶、祥伝社


https://blog.canpan.info/jitou/archive/3288
★日本には深い自己観察の哲学と実践がある。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3789
★仏教者の「思想的な怠惰」
Posted by MF総研/大田 at 21:23 | エゴイズム | この記事のURL
(13)第3世代の認知行動療法のゆくえ [2019年11月27日(Wed)]

(13)第3世代の認知行動療法のゆくえ

もう一度学問にある専門家多数派のエゴイズムを考える

 以上のように、社会には、専門家、学者にも、広くエゴイズムが働いていることを哲学者などが指摘していることがわかります。従来の学問といわれる見解やスキル、学問的見解とされる宗教的知見や心理療法などでは解決できないで苦しみ続けている市民が多いはずです。 その陰で、少数派、改革派のものが排除されている可能性があります。

 ここにも、専門家のエゴイズムの記事のリンクが掲載されています。 マインドフルネスが「第3世代の認知行動療法」とも期待されたのですが、それを検討しました。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3572
★第3世代の認知行動療法の全体展望

 これは、古い記事であり、この後に気がついた「ポージェスのポリヴェーガル理論」については、わかっていない時でした。「ポリヴェーガル理論」も、マインドフルネスにとっては少数派だということです。「マインドフルネス」への限界指摘であり、革新的です。
 これから、「マインドフルネス」は定義の検討、適用範囲の正確な規定、観察方法の正確な定義などを検討していくでしょう。
【参考】
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3962
☆西田幾多郎、大竹晋氏による仏教批判

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3270
☆物となって見、物となって考え、物となって働く
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3359
☆至誠の実践
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3329
☆「後期西田哲学の実践論」の論文

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3270
★エゴイズムのない深い自己、堕落の観照とは

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★忖度社会ニッポン

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★オルテガ「大衆の反逆」

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★少数説を知ることができる場を作る

【参照】
 綿野恵太『「差別はいけないとみんないうけれど』平凡社
 北村英哉・唐沢穣『偏見や差別はなぜ起こる?』ちとせプレス
 鷲田清一『濃霧の中の方向感覚』晶文社


連続記事目次
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もう一度学問にある専門家多数派のエゴイズムを考える
(参照)「答えのない世界を生きる」小坂井敏晶、祥伝社


https://blog.canpan.info/jitou/archive/3288
★日本には深い自己観察の哲学と実践がある。

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★仏教者の「思想的な怠惰」
Posted by MF総研/大田 at 06:16 | エゴイズム | この記事のURL
(12)自由主義は反対者とも共生するもの [2019年11月25日(Mon)]

(12)自由主義は反対者とも共生するもの

もう一度学問にある専門家多数派のエゴイズムを考える

 大学、企業、教団、官庁などで、少数派、改革的意見を封じこめることが起きている。これでは、自由主義ではない、民主国家とはいえない。哲学者鷲田清一氏は、次のように言う。

   「エリオットとおなじく、オルテガもまさにここ、対立が対立として認められる場所そのものが損なわれているところに「文化の解体」を見ています。そう、分離・分断の過剰が一つの社会、一つの文化を成り立ちえなくしている、と。だからこの本でオルテガは、解体を超える「最も高度な共存への意志」として自由主義的デモクラシーを強く擁護します。「パワーは強大であるのにあえて原則に従ってみずからを制限し、抑制し、犠牲にしてまでも、みずからの国家の中に、その社会的権力、つまり、最も強い人々、大多数の人々と同じ考え方も感じ方もしない人びとが生きていける場所を残すよう努める」不断の努力を、です。そしてそれを次のような感動的な言葉で書き記しましたーーー
    自由主義とは(・・・)多数者が少数者に与える権利なのであり、したがって、かつて地球上できかれた最も気高い叫びなのである。自由主義は、敵との共存、そればかりか弱い敵との共存の決意を表明する。人類がかくも美しく、かくも矛盾に満ち、かくも優雅で、かくも曲芸的で、かくも自然に反することに到着したということは信じがたいことである。 」(鷲田p30)
 「オルテガのあの「自由主義」の綱渡りのような規定は、どうあっても保持されねばならないと思います。それは、多文化性を受け容れる文化もまた多型的であるはずだという認識です。いえ、認識というより貫かれるべき意志と言ったほうがいいかもしれません。」
(鷲田p33)

 この自由主義は、他の集団でさえも、自由に議論しあって共生していこうという崇高な精神です。宗教思想が違うから、民族が違うから、学問的見解が違うから日本から出ていけとはいわないのです。
 ところが、大学やある集団では、おかしなことが起きています。仲間内で、発言、学問研究の自由を制限し、重要な地位から排除することが起きています。議論を尽くせ、少数派も重要な地位の一角を与えよというのがオルテガや鷲田氏の主張です。

 こういう多数派、権力を持つ者は暴走をやめよという主張は、文科系の学問、特に哲学です。 だから、哲学は重要な学問です。理科系が重要だ、文科系学問は無用という暴論があるそうですが、理科系の学問の暴走を止める学問は哲学であるという主張があります。(あとで見ます)
 (欧米のマインドフルネスは、自由、共生、他者不害などを含む哲学がないならば、悪用されないように何らかの倫理基準を定めるのがいいかもしれません。)

 このような多様性の人々が共生していくべき自由主義、民主主義の現代社会にあって、次のようなことがあってはおかしいのです。

(1)一つの集団の中で、理論的な主張をする少数派を、集団内教育部門から排除する。こうすると、この集団は、少数派の意見をメンバーが知る機会がなくなり、多数派の還元主義、画一主義、全体主義の内容だけがメンバーに教育されます。革新的な意見はなくなり環境や時代からとりのこされた集団になりがちです。

(2)同じ集団内の仲間であり、大学や団体で、多種の学問的な見解を外部に向かって発信しているのに、学問的な意見の対立があり、議論をつくさず、少数派の意見は哲学的に難しいので理解できないという多数派が多数派工作をして、学問的な議論をせず集団から少数派を排除する。こうすると、この集団は、かたよった意見の、理解しやすい還元主義、全体主義、画一主義の集団になります。深い哲学を理解しようとしない。学問の自由がない集団になります。これを外部に発信すると、市民もそれに気づきやがて市民が離れていくでしょう。

 こういう集団は、少数派、異なる意見をもつ人を排除するので、真の自由主義、民主主義ではないので、外部環境の変化に対応できず、対抗勢力があらわれて、長くは続かないでしょう。収益をあげて社員にも給与などで報いる企業ならば、メンバーが納得できるかもしれませんが、元来、メンバーおよび外部の国民の幸福を追求するはずの学問、宗教の団体にこういうことが起きるのは矛盾です。文化を解体させてしまいます。

【参考】

【参照】
 綿野恵太『「差別はいけないとみんないうけれど』平凡社
 北村英哉・唐沢穣『偏見や差別はなぜ起こる?』ちとせプレス
 鷲田清一『濃霧の中の方向感覚』晶文社


連続記事目次
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もう一度学問にある専門家多数派のエゴイズムを考える
(参照)「答えのない世界を生きる」小坂井敏晶、祥伝社


https://blog.canpan.info/jitou/archive/3288
★日本には深い自己観察の哲学と実践がある。

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★仏教者の「思想的な怠惰」
Posted by MF総研/大田 at 21:09 | エゴイズム | この記事のURL
(11)自分の意見を断固として強制しようとする専門家 [2019年11月24日(Sun)]

(11)自分の意見を断固として強制しようとする専門家

もう一度学問にある専門家多数派のエゴイズムを考える

 オルテガは大学の科学者や上級官僚の横暴なふるまいを「大衆の反逆」として批判しました。

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★オルテガ「大衆の反逆」

 哲学者の鷲田清一氏の著書(下記)でみます。権力をかさにきて、少数派(マイノリティ)を差別、排除するのを「野蛮」だと言います。

 「オルテガが「大衆の反逆」ということを口にしたのは「自分の思想の限られたレパートリーの中に決定的に住みついてしまう」性向、もっといえば。「理由を示して相手を説得することも、自分の主張を正当化することも望まず、ただ自分の意見を断固として強制しようとする」、そういう性向を、ひとが羞じるどころか逆に当然の権利として主張するような大きな傾向を、 1930年の時点でヨーロッパ社会にひしひしと感じたからです。

《対話》を回避し、むしろ他の解釈を斥けたいーー一掃=粛清したいーーという欲望をそこに見てとったからこそ、それと対抗的に、「われわれの隣人が訴えてゆける規則がないところに文化はない」と言い切ったのでした。「規則の不在、酵素の可能性の欠如」こそ「野蛮」のしるしなのだ。と。」
(鷲田p29)

 「今日では専門科学者やテクノクラート、さらには上級官僚こそこうした「大衆」の典型になりはてていると、オルテガは言ったのです。」(鷲田p29)

 これが、今でも起きています。だから、そういうところでは、大衆でないメンバーや学生はあわれです。社会の発展も阻害します。

 こういう専門家を榎本博昭氏は、「認知的複雑性が乏しい専門家のゴリ押し」といいました。
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 このことを鷲田氏は次のように言っています。

 「その解釈を、より正確なもの、より立体的なものにしようとすれば、じぶんとは異なる別の 位置からの証言というものが重要になります。そしてその証言はしばしば、じぶんがそれまで手にしてきた解釈に大きな修正をうながしもします。けれどもそれは、じぶんの前に広がる世界の眺望が揺らぐことでもあるので、つねに大きな不安をともないます。そういう意味で、「自分の思想の限られたレパートリーの中に決定的に住みついてしまう」(オルテガ)そのような性向はなかなかに根深いもので、そうした思い込みから放たれるには大きな努力を要します。」 (鷲田p28)

 結局、自分の利益を優先して、新しい解釈を排除するわけです。だから、伝統説がずっと持続する傾向があります。こういう社会の発展を阻害するエゴイズムを、大乗仏教は「煩悩」、道元は「己見我利我執」といい、西田哲学は「至誠」でない、マインドフルネスSIMTでは「本音」といって、抑制すべきとします。  オルテガや榎本氏や鷲田氏は、まさか、仏教学、禅学、精神医学、マインドフルネスの分野とは思っていないのですが、どうでしょうか。どこでも起きているようです。深い心理社会的苦悩の解決、自殺の防止、うつ病やPTSDなどの改善、がん患者の死の不安の支援、カルト宗教の被害防止などにも関係するのでは、重大な問題でもあります。

【参考】

【参照】
 綿野恵太『「差別はいけないとみんないうけれど』平凡社
 北村英哉・唐沢穣『偏見や差別はなぜ起こる?』ちとせプレス
 鷲田清一『濃霧の中の方向感覚』晶文社


連続記事目次
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4413
もう一度学問にある専門家多数派のエゴイズムを考える
(参照)「答えのない世界を生きる」小坂井敏晶、祥伝社


https://blog.canpan.info/jitou/archive/3288
★日本には深い自己観察の哲学と実践がある。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3789
★仏教者の「思想的な怠惰」
Posted by MF総研/大田 at 20:11 | エゴイズム | この記事のURL
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