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フランクルの「良心」は超越から [2026年02月20日(Fri)]

ヴィクトール・フランクル
 〜それでも人生には意味がある

第5回 「何か」に支えられて
 〜 フランクルの超越、ヤスパースの包括者(8)

 フランクルのテレビ放送の第5回は「「何か」に支えられて」です。フランクルの放送は、22日(日曜日)で、ヤスパースの放送は、23日(月曜日)ですが、先回りして少し読み込んでみます。放送が理解しやすくなるかもしれません。私(大田)は、この二人の超越、包括者は、西田哲学の絶対無、絶対的一者と同じことをさしているような気がします。

◆宗教、学問、良心、学者の良心 (3)

 「良心」については、フランクルと西田哲学についての「良心」を見ました。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/5792
第3回 豊かさの中の「空虚」
〜(その5)「良心」は「心理」の次元になく「精神」次元で働く

◆良心の働きは、どこから起こるか

 もう一度、とりあげたのは、この良心はどこから起きるのかという別の問題を確認したいからです。良心は「精神」の次元で働くが、自我、自分からではない、「超越」からであるというのが、フランクルと西田哲学です。

◆フランクルの「良心」 〜良心は直観の中で働く

 フランクルは良心を「道徳的本能」といいます。そして、良心の根源は、超越だというのがフランクルです。フランクルは、深い宗教を認めています。精神科医は、非宗教的領域で治療するが、超越、宗教レベルは宗教者にまかせるというほど、深い超越があることを認めています。

 「人間の現存在」における大きな、真正の(実存的に真正の)いろいろな決断は、いかなる場合にも非反省的に、またそれゆえ無意識になされるものなのだ。良心はその根源において、無意識へと潜入しているものなのである。」(注10,p32)

 良心は無意識になされる、ということは、自己が意識されない「精神作用」、西田哲学でいえば、「意志作用」ではなくて、価値実現の「行為的直観」の時に、良心が働くというのです。 各人の行為が、善か悪かわかって行為しなければなりません。
 たとえば、報道で、多くのひとが悪事を訴えられます。犯罪、ハラスメント、自殺させた、など、みな、仕事中のことです。犯したひとは、行為的直観の行使です。そこでの、行為が「悪」だったと訴えられます。本人は、その行為の前に自分がこうすれば(先取です)、「悪」だと訴えられるだろうから、やめようというのが「良心」です。フランクルは、次のように述べています。

 「意識に対しては存在者が開かれている・・・しかし良心に対して開かれているものは、存在者 ではなく、むしろ、まだ存在していないもの、これから存在すべきものだ、ということである。」
 「良心がわれわれに開示するものが、これから実現されるものであり、これから実現されるべきものである以上、・・・」
 「それが実現されるためには、まず一度なんらかの形で精神的に先取されることによる・・・・この先取、この精神的な先取は、一般に直観と呼ばれているものの中で生ずる。 精神的な先取は観るという一つの行為の中で起こるのである。」(注10,p34)

 良心は、直観の中ではたらくというのです。

◆良心は「道徳的本能」

 良心は、個体、具体的人格、つまり、行為する「自分」に向けられます。そして、生活時、ということは、仕事など行為的直観で価値実現の行為をする時、つねに、悪をせず善をなすように、良心が働かなければなりません。「良心に導かれた生活」です。常に、良心を働かせての生活です。だから、直観(価値実現の生活)の中です。

 「ところが「道徳的本能」の有効性は、それが一般的なものには向けられず、いつもただ個体にのみ向けられることによって保証されている」(注10,p37)

 「良心のみが「永遠の」法則、一般的な意味での道徳律をそのつどの具体的人格の具体的状況にいわば同調させることができるのである。つまり、良心に導かれた生活とはつねに、絶対的に具体的な状況へと向けられた絶対的に人格的個人的な生活である。」(注10,p38)

 次に、フランクルは、良心の根源は超越だといいます。「精神」の次元ではないのです。

◆良心は自己を超越している

 良心が自分よりも超越したものでないと、良心に従う、良心の僕になることはできません。

 「私が「私の良心の僕」たるべきであるとするならば、・・・ここでいう良心とは私自身とはおそらく幾分異なったもの、私自身より以上のものでなければならない。この良心はおそらく人間よりもいくらか高いものであって、人間は「良心の声」をただ聞きとるだけのものにすぎないのであろう。つまり、良心は人間の外にあるものでなければなるまい。」(注10,p63)

 「良心は超越の声であり、その限りにおいてそれ自体超越的なのである。非宗教的人間とは、この良心の超越ということを認めることのできない人のことにほかならない。というのは、非宗教的な人間とても良心は「もっている」のであって、非宗教的な人も責任はもっている。彼はただそれ以上問いを進めようとしないだけなのだ。」(注10,p66)

 以上のように、フランクルは、良心は「精神の次元」、行為的直観の時に善をなし悪をしない自己への監視の働きであり、良心は超越から働くというのです。宗教的な人間は超越からの声をきくのです。

◆良心に導かれた生活

 上記の言葉に「良心に導かれた生活」とありますね。ここに、つねに自分の独断的な評価基準を発動させて他者の価値を崩壊させて不幸にしないように、常に「自己洞察」の生活をすると言う「第2世代のマインドフルネス」(常に評価する良心を働かせている)に類似する生活をフランクルは示唆しています。すなわち、ロゴセラピーも「精神療法」にとどまらず、すべてのひとのすべての場面での良心的な生活があると思われます。これは、自己洞察瞑想療法、SIMTがそういうものです(注3)。生活指針は「至誠」です。常に良心を働かせて生活していく提案です。哲学は、後期西田哲学(注12)にあります。その具体化の一つ(ひっつの提案にすぎません。多数開発できるでしょう)の実践の提案です。

◆ニーチェの「知的良心」は
 フランクルは、こうですが、前の記事でみたニーチェの「知的良心」は、超越の声ではないようですが、それは、非宗教者にも、知的良心をもつ哲学者になってもらいたいからでしょう。他者に従うばかりの多数派の大衆的人間ではなくて、孤独でも先をいく人間であれ、というのです。宗教者でなくても、畜群良心の他者についていく人間ではなさけない、孤高に先をすすむ知的良心の人間になれというのでしょう。
 これに類する批判を時々、見ることがあります。

【注】

(注1)NHKこころの時代 テキスト 『ヴィクトール・フランクル 〜それでも人生には意味がある』勝田芽生、NHK出版

(注2)大田健次郎(2013)『うつ・不安障害を治すマインドフルネス』佼成出版社
SIMT:Self Insight Meditation Therapy(SIMT)、自己洞察瞑想療法

(注3)大田健次郎『「死」と向き合うためのマインドフルネス実践』佼成出版社

(注4)NHK E テレビ「100 分 de 名著」、『ヤスパース哲学入門』戸谷洋志

(注5)フランクル『人間とは何か』山田邦男監訳、春秋社

(注6)山口尚『幸福と人生の意味の哲学』トランスビュー

(注10)フランクル『識られざる神』佐野利勝・木村敏訳、みすず書房

(注11)竹内綱史「ニーチェ哲学における良心という問題」(『宗教哲学研究(第20号)』北樹出版

(注12)後期に属する西田哲学の論文が「実践哲学序論」、および、「ポイエシスとプラクシス」にまとめられている。 →
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3582
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3329
★後期西田哲学の実践論

https://blog.canpan.info/jitou/archive/5750
【目次】ヴィクトール・フランクルと後期西田哲学の実践論
 〜それでも人生には意味がある
Posted by MF総研/大田 at 20:24 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL