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宗教、学問、良心、学者の良心(1) [2026年02月18日(Wed)]

ヴィクトール・フランクル
 〜それでも人生には意味がある

第5回 「何か」に支えられて
 〜 フランクルの超越、ヤスパースの包括者(6)

◆宗教、学問、良心、学者の良心 (1)

 フランクルのテレビ放送の第5回は「「何か」に支えられて」です。フランクルの放送は、22日(日曜日)で、ヤスパースの放送は、23日(月曜日)ですが、先回りして少し読み込んでみます。放送が理解しやすくなるかもしれません。私(大田)は、この二人の超越、包括者は、西田哲学の絶対無、絶対的一者と同じことをさしているような気がします。

◆ 学問は自分を超えた位置から検証を

 フランクルが宗教の学問(神学)、精神療法という学問について言及しているところを見ました。 神学や学問は日本の仏教ならば「仏教の教義」や「仏教学」「禅学」があります。仏教の教義と精神療法、マインドフルネスの関係を考える場合に参考になります。

 まず、仏教、禅、マインドフルネス、精神療法、人間哲学、などの学問が、ここの話題です。「科学的」とか「学問的には」とかいいますが、そのように主張されていても、その真実性は、それを超えた高みからでないと判断できないといいます。学問の装いをした文章であっても、高い位置から検証しないと、真実かどうかわかりません。

 「いかなる学問といえども、自己自身を超えた高みにのぼることなしには自己自身を理解したり自己自身を判断したりすることはできない。したがってまたいかなる学問も、それが存在的な学問である限り、自己自身の領野、すなわち存在的な領域から離れて存在論的な検証を受けることなしには、自己の成果を判定したりその帰結を見抜いたりすることはできないのである。」(注10,p82)

 最近では、「マインドフルネス(無評価で観察)」が禅の「宗教」とは違って、「学問的」であると「精神療法」としての「学問」であると主張されて、期待されましたが、ここ2,30年にわたって、検証されてきました。ここ30年ほどの間に、「マインドフルネス」という学問領域が起こりましたが、うつ病などを「治療」できる「精神療法」になるかどうか、「学問」だとして、研究されてきました。過去に「マインドフルネス学」と主張した論文が数多く発表されましたが、学問とするに値するかも、高い領域から検証されるでしょう。
 仏教、禅の論文も無数にあります。学問的には、高い位置から検証されます。

◆経験の地盤から離れて学問の姿をした素人宗教学も

 宗教の学問では、学問といいながら、「素人〇学」があるとフランクルは批判しています。フランクルは、次のようにいいます。

 「われわれはこれまでに何回か、厳密に学問的な領域の限界を踏み越えて、学問的成果と存在論的予想とを対決せしめざるをえなかった。しかしそれだからこそますます、経験の地盤から足を奪われて、いま即席形而上学とか素人神学とか呼んだものに堕してしまわないようにすることが、われわれにとって大切なことになってくる。むしろわれわれが自己の課題としているのは、なまのままの経験的事実から出発してこの事実を従来からの方法を用いて学問的に評価するということである。」(注10,p83)

 人間とは何か、自己とは何か、苦悩からの救済、絶対者(仏)とは、という宗教を記述した学問は、東洋では2千年も繰り返し検討されて洗練されてきました。これらは、現代でも、大きな関係があります。うつ病や自殺に関係があるからです。
 ヨーロッパでも、人間の実際経験から地盤を離れた教義もあらわれたのでしょう。現実に足場をもたない教義の形をとっていても、信頼できる学問とはいえず「素人神学」というのでしょう。「なまのままの」実際から出発して、正しく学問的に評価していくことが必要なのでしょう。「マインドフルネス」も同様のことがいえるでしょう。

◆学問は宗教の教義に反する自由もある

 人間には自由があるといいます。宗教の教義に反する説をいうのも学問の自由であるとフランクルはいいます。

 「人間の自由が拒絶をも包含するものとして保証されなければならないのと同様に、研究の自由も一つの危険を覚悟の上で保証されなければならない。その危険とは他でもない、・・・研究の結果と教義上の真理とが矛盾に陥るかもしれぬということである。研究の結果を、研究に優先する教義上の真理へと矛盾なく統合しうることによって得られる勝利は、ただこのような勇敢な研究にのみ与えられるものであるから。」(注10,p104)

 仏教や禅の学問というものも、学問だとして大学の教員が発表した書籍や教団が学問的だとしているものが、矛盾していると判断されるものもあることに気がつきます。

◆宗教の教義に拘束されない学問

 フランクルは、精神療法は「科学」「学問」ですから、精神療法の領域には、宗教的に拘束されない学問を期待しています。

  「また精神療法がいつかはやがて、心とはまさしくわれわれがそう見なすところのもの、すなわち「本性上宗教的な心」であるという証明をもたらすとするならば、この証明はただ「本性上非宗教的な学」としての精神療法によってのみーーつまり「その本性上」宗教的に拘束されることなく、みずから学問以外のなにものでもあろうとしないような一つの学問によってのみーーもたらされるであろう。」(注10,p105)

 宗教の教義は宗教者にまかせて、精神療法の学問はそれには拘束されずに非宗教的な学問であろうと言っているように思います。たとえば、大乗仏教や道元の言葉の中には、精神療法になりそうなところもありますが、教義にとらわれずに、学問的に検討すれば、精神療法という学問になるというのでしょうか。宗教(大乗仏教や禅など)にある手法を検討すれば、「精神療法」にできるものが豊かにあるかもしれません。実際に、大乗仏教、や禅の方法から役立つものを抽出して構成すれば、精神療法になるようなものがあると思います。

◆学問が宗教のしもべになってはいけない

 精神療法は宗教ではなく学問です。学問が宗教に拘束されないようにすべきで、学問が宗教のしもべになってはいけないと、フランクルはいいます。

 「精神療法が神学の婢として奉仕することに甘んじることが少なければ少ないほど、精神療法が実際に神学に対してなし得る貢献は一層増大することであろう。
 なぜならば、貢献しようとするためには下婢であってはならないからである。」(注10,p105)

 文意を理解しにくいですが、こういうことでしょうか。フランクルのいう「神学」は、日本では、仏教の教団の教える教義ということが該当するでしょう。国民の精神療法やがん患者の自殺防止の予防法などを学問的に開発しようとするならば、その学問は宗教者の教義、解釈に拘束されず、自由に研究すべきというのでしょうか。もし、そういうものがあれば、もとになった、仏教や禅がかえって、国民にとって貢献できることがわかり、仏教や禅の重要性を高めて、国民の仏教離れとは逆に宗教に期待が高まり、宗教に貢献するのかもしれません。フランクルは、そういうことを言うのではないでしょうか。

 以上のように、フランクルの学問に対する態度は、非常に真剣です。禅や「マインドフルネス」は、自殺念慮のある「実存的空虚感」やうつ病を治すことができるかもしれないという点からは、生命に関係しますので、学問するひとの「良心」が気になります。
 宗教と学問(精神療法)との関係をみましたが、神学(仏教学、禅学)も学問ですが、すべてのひとの「良心」、および、学問するひとの「良心」について、フランクルの言葉をみます。これは非常に重要です。「良心」でも「自分の良心」にかけて、「組織の基準」にかけて、というのと、「神(超越)にかけての良心」というのとは、まるでちがいます。

【注】

(注1)NHKこころの時代 テキスト 『ヴィクトール・フランクル 〜それでも人生には意味がある』勝田芽生、NHK出版

(注2)大田健次郎(2013)『うつ・不安障害を治すマインドフルネス』佼成出版社
SIMT:Self Insight Meditation Therapy(SIMT)、自己洞察瞑想療法

(注3)大田健次郎『「死」と向き合うためのマインドフルネス実践』佼成出版社

(注4)NHK E テレビ「100 分 de 名著」、『ヤスパース哲学入門』戸谷洋志

(注5)フランクル『人間とは何か』山田邦男監訳、春秋社

(注6)山口尚『幸福と人生の意味の哲学』トランスビュー

(注10)フランクル『識られざる神』佐野利勝・木村敏訳、みすず書房

https://blog.canpan.info/jitou/archive/5750
【目次】ヴィクトール・フランクルと後期西田哲学の実践論
 〜それでも人生には意味がある
Posted by MF総研/大田 at 21:18 | マインドフルネス心理療法 | この記事のURL