フランクル 人は「超越」に包まれている [2026年02月16日(Mon)]
ヴィクトール・フランクル
〜それでも人生には意味がある
第5回 「何か」に支えられて
〜 フランクルの超越、ヤスパースの包括者(4)
フランクルのテレビ放送の第5回は「「何か」に支えられて」です。フランクルの放送は、22日(日曜日)で、ヤスパースの放送は、23日(月曜日)ですが、先回りして少し読み込んでみます。放送が理解しやすくなるかもしれません。私(大田)は、この二人の超越、包括者は、西田哲学の絶対無、絶対的一者と同じことをさしているような気がします。
第1世代のマインドフルネスは、倫理的な問題があると批判されましたが、SIMTやロゴセラピーは、それを超えるものでもあります。SIMTの背景にある西田哲学は、実践指針としては、「至誠」をいいますから、SIMTは至誠を意識した生活実践をアドバイスします。それで、うつ病などが治るのです(もちろん一部の人ですが)。ロゴセラピーは、「良心」をいうでしょう。
フランクルの著書からは、次の言葉を見ることができます。
◆フランクル 人は「超越」に包まれている
「われわれは、人間がみずからの内部にそれと意識することなく天使を秘めていることを証明しうる以上、・・。」(注10,p76)
これが、「良心の超越」の章の結語です。
次の命題を紹介しています。
「汝の意志の主たれ、しかして汝の良心の僕たれ!」(注10,p62)
この解釈の中で、良心を超越から(自我のものでなく)のものと受け取るという説明があります。
「私が、私の自己解釈において、良心というものを私の単なる人間存在を超越した現象として理解し、それと同時に私自身を、つまり私の実存を、まさしくこの超越から理解するときのみ、私は私の良心の僕たりうるのである。」(注10,p63)
「人間の人格の有する良心を通じて人間の外にある一つの審判者の声が響きわたるのだということができるのである。」(同、p64)
宗教は信じるも、信じないも自由です。日本人も非宗教的な人も多いようですが、フランクルは、非宗教者(下の「彼」)との違いを次のように説明しています。
「彼は良心を究極のものと考え、彼がそれにそれに対して責任をもつべき最終的な審判者と考えているからである。しかしながら、良心は責任がそれに向けられるべき窮極的なものではない。
良心は窮極のものではなく、窮極の一つ手前のものである。」(同、p68)
こうして、フランクルは、「精神作用」の奥に、超越の働きがあるといいます。そして、次のように言います。
「無意識の精神性の発見によってエス(無意識)の背後に自我(精神)が見出されたのであるが、今や無意識の宗教性の発見によって・・・」(同、p80)
いったん、ここまでを西田哲学の用語でいうと、エス(無意識)は、意志作用のうちでも依存行為とか暴力行為のような衝動的行為をする時に自己が意識されないことです。自我(精神)は、冷静に健康的に、価値実現の行為をする瞬間の働きであり「行為的直観」です。自己は意識されません。
上の続きです。
「今や無意識の宗教性の発見によって内在的自我のさらに背後に超越的汝が見出されたわけである。」(同、p80)
無意識の精神性は、行為的直観ですが、その内奥から働きがあり、「超越的汝」に該当するものは、絶対無、絶対的一者といっているものでしょう。「宗教的無意識」というように、対象的には意識できません。
「われわれにとっては、無意識の宗教性とは――むしろ一般に精神的無意識のすべて がすでに――決断しながら無意識にあるということなのであって、無意識によって衝動的に 駆り立てられていることはまるで違う。つまりわれわれにとって精神的無意識や、それにもま して無意識の宗教性は、だから殊に「超越的無意識」は、決定づける無意識ではなくて実存する無意識なのである。」(注10,p86)
精神的無意識は、西田哲学の行為的直観であり、行為のまっさい中は、価値実現の行為による表現(言葉、仕事、芸術などの生産されたもの)のみが意識されていく、自己が意識されないことをいうのです。そして、宗教的無意識は超越であり、絶対無の働きです。対象的にはとらえらえません。これを信じるひとは宗教者、信じないひとは「非宗教者」と呼んでいます(p66)。
こうして、フランクルもヤスパースも、最も深いところに「超越」を、つまり、西田哲学でいう「絶対無」をみていると思います。
ただし、西田哲学では、深い禅の人がそうですが、絶対無を自覚した彼らが表現する言葉や行為は、絶対的一者が自己否定して成った射影像とみます(「逆対応の論理」)。フランクルやヤスパースがそこまでいうのかどうかはわかりません。
ヤスパースの言葉を、もう一度みてみます。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/5847
★ヤスパース 包括者
「このおのおのの瞬間に現れる主観=客観の分裂の秘密は何を意味するのでしょうか。 しかし存在は全体としては客観であることも、主観であることもできないで、むしろ《包括者》であらねばならないということ、そしてこの包括者が分裂して現象となって現れるということは明瞭であります。」(注4,p84)
ここでいうのが、フランクルの「超越」と同じことを指していっているのでしょう。
「存在は全体としては客観であることも、主観であることもできないで、むしろ《包括者》」ということは、主観客観に分裂していないもので、包括者。そして、この包括者が分裂して現象となって現れる」というのは、その包括者(超越)が現象になるといいっています。その超越者が自己否定して現象となる、といっているようで、ヤスパースのこの言葉は、西田哲学と同じようにいうのかもしれません。
【関連記事】
https://blog.canpan.info/jitou/archive/5827
★フランクル 「世界は意識の中にだけ(中略)存在するだけでなく、意識がまた世界の中にも存在するということ、世界の中に「含まれている」ということであります。」
【注】
(注1)NHKこころの時代 テキスト 『ヴィクトール・フランクル 〜それでも人生には意味がある』勝田芽生、NHK出版
(注2)大田健次郎(2013)『うつ・不安障害を治すマインドフルネス』佼成出版社
SIMT:Self Insight Meditation Therapy(SIMT)、自己洞察瞑想療法
(注3)大田健次郎『「死」と向き合うためのマインドフルネス実践』佼成出版社
(注4)NHK E テレビ「100 分 de 名著」、『ヤスパース哲学入門』戸谷洋志
(注5)フランクル『人間とは何か』山田邦男監訳、春秋社
(注6)山口尚『幸福と人生の意味の哲学』トランスビュー
(注10)フランクル『識られざる神』佐野利勝・木村敏訳、みすず書房
https://blog.canpan.info/jitou/archive/5750
【目次】ヴィクトール・フランクルと後期西田哲学の実践論
〜それでも人生には意味がある
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Posted by
MF総研/大田
at 08:32
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マインドフルネス心理療法
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