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ヤスパース 超越がある [2026年02月15日(Sun)]

ヴィクトール・フランクル
 〜それでも人生には意味がある

第5回 「何か」に支えられて
 〜 フランクルの超越、ヤスパースの包括者(3)

 フランクルのテレビ放送の第5回は「「何か」に支えられて」です。フランクルの放送は、22日(日曜日)で、ヤスパースの放送は、23日(月曜日)ですが、先回りして少し読み込んでみます。放送が理解しやすくなるかもしれません。私(大田)は、この二人の超越、包括者は、西田哲学の絶対無、絶対的一者と同じことをさしているような気がします。

◆包括者・超越

 次で紹介された包括者は、超越だとも言いました。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/5847
★ヤスパース 包括者
 「このおのおのの瞬間に現れる主観=客観の分裂の秘密は何を意味するのでしょうか。 しかし存在は全体としては客観であることも、主観であることもできないで、むしろ《包括者》であらねばならないということ、そしてこの包括者が分裂して現象となって現れるということは明瞭であります。」(注4,p84)

 この包括者は、主観・客観が分裂する前です。心理や精神が対象とするもの(客観)のすべてのことが分裂する前があるというのだから、対象的には見られないものです(井筒俊彦の「無分節」と似た表現ですね)。
 それを受けた(対象的なものではないので意識できないが)瞬間のあと、各人が主観と客観に分けてみる、といっていますね。その意識する前の瞬間があるが、絶対に客観とは見られないもの。

 それ(超越の働き)がどこから働いてくるのか。天上からか、内奥からか。包括ということばからは、「包むもの」で、各人の「内奥」から包むのか、外から包むのか、ここでは明瞭には記述されていません。「神」は、各人の「内奥」から働くのか、雲の上から働くのか。
 ヤスパースは、分裂するというのですから、分裂以前のものが各人に授けられて、その後の瞬間に、分裂させるように聞こえます。ということは、超越、包括者は、精神の内奥から働くといっているようです(大田の解釈)。

 それでは、ヤスパースは、そういう包括者(神)があると、なぜ、確信するのか、戸谷さんは、ヤスパースの次の言葉を紹介しています。

◆包括者、超越者があると信じる理由

 「私が自由である場合、私は私自身によって存在するのではなく、私は私に授けられているのであるということを、私は信じて疑わないのであります。なぜなら、私が私のものでないことがあり、また私は強制的に私を自由たらしめることはできないからであります。私が本当の意味で私自身である場合は、私は自分自身によってそうであるのではないということを疑わない。最高の自由は、世界から自由であることによって、同時に超越者ともっとも深く結合されていることとして自覚されるのであります。」(注4,p91)

 これが、ヤスパースの言葉ですが、戸谷さんは「「超越者」と呼んでいる概念は、包括者あるいは神を言い換えたもの」「もしも「私」が自由であるのだとしたら、そこには神の存在を想定せざるをえないだろう、と言っているのです。どういうことでしょうか」(p91)といいます。そして、説明しています。骨子は・・・。

 「自由な人間は、常に別の可能性へと開かれています。」「与えられた選択肢のなかから一つを選ぶことであり、その選択の原因が自分自身にある」(p92)
 「「私」は、自分が自由であることを自分で選んだわけではない」「それでも「私」が自由であるのは、なぜなのでしょうか」
 「ヤスパースはそれを、何かが「私」を自由にさせているからだ、と考えます。 つまり、「私」は何ものかによって自由を「授けられている」のです。」
 「もしもそうした存在がいるとしたら、それは神、つまり包括者以外にはありえません。なぜなら、それ以外のすべての事物は、思考において「私」から分裂しているからです。」(注4,p92)

 ヤスパースの理由をこのような筋で紹介して、戸谷さんは、こういいます。

 「しかし、理屈ではそうなのだとしても、このような説明にはいま一つ納得ができないかも知れません。「私」が自由なのは、神によって自由を授けられているからである。」

  これが、テキストで紹介されている、ヤスパースの超越、包括者のあらすじです。それでもわかりにくいです。放送では、さらにわかりやすい解釈がされるでしょうか。

 西田哲学は、「場所の論理」と「逆対応の論理」で説明しているところを、ヤスパースは上記のように説明しているというのですが、私(大田)が、上記の筋を解釈してみると、次のように言えると思います。

◆私(大田)のヤスパースの言葉の理解
 「それ以外のすべての事物は、思考において「私」から分裂している」といっています。私が自由に選択した仕事に没頭している瞬間、私には、それ以外のすべて(家族のことも、国際状況も)が「私」の「意識」とか「精神」とか「私の働き」に全く意識されないです。つまり、「私」は私のこと(仕事、遊び)だけをしている。それで「私」は、満足だと意識している。
 他者のこと(家族のことさえ)など全く意識していない。考えてみれば、全く、エゴイストです。自分の自由で選択したこと、自分のことしか知らない。他の領域のことは、傍観さえもしない、全く意識できない。重要な領域に全く貢献していないのに、「私」はエゴイストなどと他者から責められず、むしろ、善い仕事をしたとうぬぼれ、他者から賞賛される。
 日本の中で、つらいひとがいるのに、外国では戦争で殺されているひとが大勢いるのに、このように自由に選択したことだけで生きて幸福だ、満足だと感じていることが許されるなんて、そのようなありかたを大きなものから「授け」られているに違いない。ヤスパースの「筋」は、こうなのでしょうか。

 西田哲学では、「場所の論理」と「逆対応の論理」で、超越、絶対を説明するところを、ヤスパースはこのように説明しているのでしょうか。

◆ 良心が働くが超越からだ

 話をフランクルに持っていくと、彼は、超越のある証拠は、「良心」で説明されますね。「良心」は、悪を為さないというように思考、行動の方向(ノエマ)に「〇〇するのは悪だ」と働くことが通常の働きですが、「自分自身=行為者が悪」であると、自分(ノエシス)を責める方向に向かうと、自分は創造価値などは実現して(他者から賞賛されてもいる)いるのに、内面で、「私は悪人だ」と自分(主体、ノエシス)を責める苦しみを持ちます。他者から見れば「偉いひとだ」と賞賛されているのに、内面では「私は悪人だ、エゴイストだ」と責めて苦しんでいる。夏目漱石の小説「こころ」の先生は、そうですか。
 ヤスパースも、やはり「良心」に責められていたことがテキストで紹介されます。(p96)

ヤスパースの妻は、ユダヤ人だったが、ユダヤ人だとわかれば多くのひとがナチスによって殺されたので、ヤスパースは、目だたないように生きて、妻が連行されることなく殺されずにすんだ。戦後、ヤスパースはナチス政権と戦おうとしなかったことを後悔していた、と紹介されています。(p96)

◆ 自分の選択したことを責める「良心」
 次のような、筋でしょうか。
 自由に仕事を選択して、自分のことしか知らない 「私」は、エゴイストだ、「悪」人だ、賞賛されるような人間ではない、と自分を責める「良心」。他者からは賞賛されるような業績をあげている「私」なのに、それを「悪」と苦しむひとがいる。つまり、自分で選択したことを実現しているのに、その自分を対象として責める働きが起きている。とすれば、自分の選択した価値、それを遂行する働き(「精神的無意識」、西田でいえば、行為的直観)で生きている「自分」を対象として責める働き(良心)がある。そうすると、価値遂行の「行為的直観」とそれを遂行する主体=自分(叡智的自己)を超えた働きがあることになる。これが、自己を超えた「超越」だ。
 西田もフランクルも、自分を責める「良心」の働きがあるが、それは自分の働きではなく、「超越」からだといっています。

【注】

(注1)NHKこころの時代 テキスト 『ヴィクトール・フランクル 〜それでも人生には意味がある』勝田芽生、NHK出版

(注2)大田健次郎(2013)『うつ・不安障害を治すマインドフルネス』佼成出版社
SIMT:Self Insight Meditation Therapy(SIMT)、自己洞察瞑想療法

(注3)大田健次郎『「死」と向き合うためのマインドフルネス実践』佼成出版社

(注4)NHK E テレビ「100 分 de 名著」、『ヤスパース哲学入門』戸谷洋志

(注5)フランクル『人間とは何か』山田邦男監訳、春秋社

(注6)山口尚『幸福と人生の意味の哲学』トランスビュー



https://blog.canpan.info/jitou/archive/5750
【目次】ヴィクトール・フランクルと後期西田哲学の実践論
 〜それでも人生には意味がある
Posted by MF総研/大田 at 19:48 | マインドフルネス心理療法 | この記事のURL