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フランクルの超越、ヤスパースの包括者(2) [2026年02月14日(Sat)]

ヴィクトール・フランクル
 〜それでも人生には意味がある

第5回 「何か」に支えられて
 〜 フランクルの超越、ヤスパースの包括者(2)

 フランクルのテレビ放送の第5回は「「何か」に支えられて」です。フラアンクルの放送は、22日(日曜日)で、ヤスパースの放送は、23日(月曜日)ですが、先回りして少し読み込んでみます。放送が理解しやすくなるかもしれません。私は、この二人の超越、包括者は、西田哲学の絶対無、絶対的一者と同じことをさしているような気がします。

 ヤスパースの方をみます。前の記事で、ヤスパースの「包括者」の説明(注4,p84)をみました。 戸谷洋志さんは「簡潔ではありますが、あまりにも抽象度の高い説明です」(p84)といい、説明しています。そして、こう言います。
 「つまりこの概念は、思考において分裂している主観と客観が、ともにそのうちに帰属するような何かを指し示しているのです。」(p87)

 これは、西田哲学の「行為的直観」の「叡智的自己」ではないのですね。行為的直観は、非宗教的な階層ですから。人は、各人が選択した生きがい、価値(フランクルのいう3つの価値)に没頭している最中は、自己(主体、ノエシス)は意識されず、価値行為(ノエマ)だけを意識しています。行為のまっさい中が終って、振り返った(反省した)時、先ほど表現されたもの(仕事など、価値、ノエマ)は、「自分」が為したものだという意識があり、宗教的ではありません。宗教を信仰しないひとでも、体験する精神的無意識です。自己意識がなくて、さきほどの仕事が「自分」によってなされたという意識。宗教を持ち出すこともなく、誰もが経験することです。非宗教的です。このことをフランクルは「精神的無意識」という。西田哲学では、その作用を「行為的直観」という。いわば、主観が意識されず、客観だけが進行している状態。

 ヤスパースのこの部分の説明は、宗教的というのだから、これより、深いものですね。戸谷さんのテキストの先にすすみます。

 「それでは、結局のところ、包括者とは何なのでしょうか。」(注4,p89)
 「結論から言えば、ヤスパースはそれを神であると言います。ただし、ヤスパースがそれを直接に神と呼ばず、わざわざ包括者というややこしい名前を付けているのには、理由があります。
 それは、その国の文化や歴史によって、神の概念はまったく違った形で理解されているからです。」(注4,p89)

 それでは、ヤスパースは、そういう包括者(神)があると、なぜ、確信するのか、戸谷さんは、ヤスパースの次の言葉を紹介しています。

 「私が自由である場合、私は私自身によって存在するのではなく、私は私に授けられているのであるということを、私は信じて疑わないのであります。−−−」

 長いので、次の記事にします。

【注】

(注1)NHKこころの時代 テキスト 『ヴィクトール・フランクル 〜それでも人生には意味がある』勝田芽生、NHK出版

(注2)大田健次郎(2013)『うつ・不安障害を治すマインドフルネス』佼成出版社
SIMT:Self Insight Meditation Therapy(SIMT)、自己洞察瞑想療法

(注3)大田健次郎『「死」と向き合うためのマインドフルネス実践』佼成出版社

(注4)NHK E テレビ「100 分 de 名著」、『ヤスパース哲学入門』戸谷洋志

(注5)フランクル『人間とは何か』山田邦男監訳、春秋社

(注6)山口尚『幸福と人生の意味の哲学』トランスビュー



https://blog.canpan.info/jitou/archive/5750
【目次】ヴィクトール・フランクルと後期西田哲学の実践論
 〜それでも人生には意味がある
Posted by MF総研/大田 at 17:18 | マインドフルネス心理療法 | この記事のURL