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(その5)「良心」は「心理」の次元になく「精神」次元で働く [2025年12月15日(Mon)]

ヴィクトール・フランクル
 〜それでも人生には意味がある
第3回 豊かさの中の「空虚」
 〜(その5)「良心」は「心理」の次元になく「精神」次元で働く

 テレビ放送の3回目は、

◆豊かさの中の「空虚」

 12月28日ですが、テキストがありますので、前もって少し先読みしています。年末年始には多くの人にとって、楽しい季節かもしれません。 しかし、あるひとびとにとっては、「孤独感」「空虚感」を強める時節でもあるからです。

◆「良心」は「心理」次元でなく「精神」次元

 3回目に、もう一つ重要な指摘があります。「良心」です。

 フランクルは、こう言います。3回目に、良心が述べられています。
 フランクルによれば、人間の意識には、「身体」「心理」「精神」があります。良心は、心理ではなく、精神の働きです。

 「人間には意味への憧れがあり、意味を知覚できる感覚器官があるからです。
 この感覚器官のことを、フランクルは、「良心」と呼びました。耳が音を、鼻が匂いを感知するのと同じように、良心は意味をキャッチします。常に意味ある行動をしている人は、良心のアンテナがしっかりと立っていると言えるでしょう。」(注1,p79)

 「常に意味ある行動をしている」のは、「精神」です。「意味」がない行為は「悪」なのです。なぜならば、自分や他者の「意味」「価値」を崩壊させるからです。
 西田哲学でも、同じように、言います。

 「道徳的自己があるということは、自己を不完全としてどこまでも理想を求めることであり、良心が鋭くなればなるほど、自己を悪と感ずるのである。」(西田幾多郎『叡智的世界』巻5,172頁)

 ロゴセラピーで「意味」ということを、西田哲学では「イデヤ」といいます。一般的に人生の「価値」というものです。「精神」レベルのことを世界に向けて表現していく自己を「叡智的自己」といいます。フランクルならば、家族や社会のために意味あることを遂行する自分ということになります。良心が働かないことがあると「反価値」、つまり、「悪」の行為をします。
 ここは、「精神」次元、叡智的自己の次元ですが、「価値」、イデヤの次元でない浅い「心理」次元は善悪の判断はありません。欲求を起こし、目的に向けて行為します。不道徳なことでも「悪」とは判断しない浅い心理作用です。「価値」崩壊の、いじめ、ハラスメント、犯罪、虐待などの行為も、自分の欲求のままに行為します。相手の苦悩に無関心です。

 「叡智的自己はイデヤを自己自身の内容として、どこまでもイデヤを見、イデヤを実行しゆくと考えられるとともに、どこまでも反価値への方向を含むということが叡智的自己のノエシス的独立性を現ずるものである。・・・ 我々の自己が意識的自己すなわち心理的自己の立場に立てば、その欲する所は善でも悪でもない、動物は善でもなく悪でもないのである。。悪なる意志とは何であるか。それは随意的意志である、イデヤを否定し、無に向かうの意志である。自己自身の内容を否定するとともに、これを充たすに意識的欲望をもってする時、肉は悪となるのである、すべて反価値なるものはノエマの方向に見られるのでなく、ノエシスの方向に見られるのである、叡智的自己が自己自身の内容を否定し、意識的自己の内容をもって自己を充たす場合、反価値なるものが現われるのである(反価値可能ということが叡智的ノエシスを現ずるものである)。叡智的世界においてノエシスの方向に立つものは、いつも反価値的である、自己自身の底に深く見るものほど、悩める自己でなければならぬ、悩める魂こそ叡智的世界における最も深い実在である。」 (西田幾多郎『叡智的世界』巻5,174頁)

 「自由なる自己そのものを見る良心は深い自己矛盾でなければならない、自ら良心に恥じないなどというものは良心の鈍きを告白するものである。深い罪の意識こそ最も深く自己自身を見るものの意識である。」(西田幾多郎『叡智的世界』巻5,176頁)

 西田哲学(後期)によれば、善悪を知る「良心」は、「心理」の働きではありません。良心は、心理よりも深い、「叡智的自己」の働き、行為的直観の働きです。だから、セクハラ行為は、動物と同様だといいます。「心理」は、欲求が生じると、「目的」に向かって行動します。 自己や他人の「価値」を崩壊させる「悪」ではないかということをみていません。

 「マインドフルネス」の開発者の、ジョン・カバットジン氏は、「マインドフルネス」(第1世代)は、浅いというのは、この所以です。善悪の評価をしないのは、「身体」レベルと、浅い「心理」レベルまでです。良心が問題でない範囲です。意味や価値実現の世界である家族の世界や職場などの世界では用いることができません。

 このように、フランクルの哲学は、日本の西田哲学と類似します。自分や他者の意味、価値を崩壊させる行為、言葉は、「悪」です。日本に多い、ハラスメント行為や誹謗中傷の言葉で、他者を自殺に追い込む人は「良心」が働かない「悪」ということになります。

 それは、社会に問題があるのに、「自己中心的な考え」(注1,p80)や、「無関心」(注1,p81)となっているといいます。
 大乗仏教は、悪をするな、善をせよ、というのは、やはり「精神」レベルであれ、と主張しているのです。フランクルの主張は、西田哲学や大乗仏教の生き方に似ているところがあります。
 現代日本に、必要な教えではないでしょうか。

(注1)NHKこころの時代 テキスト 『ヴィクトール・フランクル 〜それでも人生には意味がある』勝田芽生、NHK出版

(注2)大田健次郎 『うつ・不安障害を治すマインドフルネス』佼成出版社

(注3)フランクル『夜と霧』池田香代子訳、みすず書房

(注4)テキストの第5回で「品格のある人間」「ない人間」がもう少し詳しく述べられます。やはり、フラ ンクルと西田哲学は類似することがわかります。

(注5)フランクル『人間とは何か』山田邦男監訳、春秋社

(注6)SIMT=Self Insight Meditation Therapy。自己洞察瞑想療法。 公刊された書籍は、3つです。ほかに、マインドフルネス瞑想療法士の 講座に使用されるテキスト が多数あります。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/5348
★自己洞察瞑想療法、SIMT ブームになった「マインドフルネス」(第1世代マインドフルネス)とは、違います

(注7)ブームの「マインドフルネス」は、各人の意味、価値の場面での観察ではありません。「無評価」ですむ、瞑想時、歩く時、食べる時です。「身体」レベルの浅い意識の「自己距離化」です。「自己超越」の場面が多い人生局面では、できません。外国では、社会問題の見てみぬふりの助長など批判が起きています。この放送の第3回目のロゴセラピーの説明(自分を見すぎるな)を見ても、そのような印象を受けます。それを知ったうえで、限定した場面だけで行うべきです。

(注8)第2世代のマインドフルネス(SIMT)は、かなりちがいます。観察するだけではありません。ストレスを起こす思考が内容によっては、自他を苦しめないか評価もし、ストップすべきかどうかも評価します。「価値」への行動に意識を向けるトレーニングを強調します。フランクルの「自己超越」に該当するでしょう。こういうところから、第1世代マインドフルネスは「身体」レベルの観察に類似し、SIMTは「精神」レベルに類似します。「マインドフルネス(無評価)」も適切な対象に提供しないと、生命を失うおそれがあります。



https://blog.canpan.info/jitou/archive/5750
【目次】ヴィクトール・フランクルと後期西田哲学の実践論
 〜それでも人生には意味がある
Posted by MF総研/大田 at 17:07 | 孤独孤立自殺うつ病不安症 | この記事のURL