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(5)「態度価値」は、「創造価値」「体験価値」の中での行為も [2025年01月03日(Fri)]
https://blog.canpan.info/jitou/archive/5546
「孤独・孤立相談ダイヤル #9999」及び「チャット相談」「メール相談」が始まっています。 「死にたい」という気持ちには「抑うつ」「うつ病」の場合があります。相談なさってください。そこから、適切なところに「つないで」くださる場合もあります。まず、「相談」を。

どんなひとでも生きる価値がある
 どんなひとでも生きる意味がある
(5)「態度価値」は、「創造価値」「体験価値」の中での行為も

 フランクルは、態度価値があるといいました。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/2648
★人間は最期まで生きる意味がある

  フランクルの「態度価値」は、次のようなものです。前の記事
https://blog.canpan.info/jitou/archive/5549
に述べました。

 「われわれの考えによれば、さらに第三の可能な価値カテゴリーが存在する。・・・・・ このさらなる価値グループは、人間が自分の制限された生活に対して取る態度によって実現されるものである。人間が自分の狭められた可能性に対して、みずから態度を決めるというまさにそのことによって、新たな独自の価値領域、しかも確実に最高の価値に属するような価値領域が開かれるのである。」(ヴィクトール・フランクル『人間とは何か』山田邦男、p112)

 このような「態度価値」が、9つ(または7つ)の価値カテゴリーに含まれているのか。生きがいを感じるの「態度だという、これがあれば生きる意味がある「態度」だといいます。わかりにくいですね。
 「こういう態度でいれば生きる意味がある」と感じるというのですが、一般の私たちには、9つ(または7つ)のカテゴリーで考えますよね。フランクルがいいたいことを検討しましょう。

9つのカテゴリーはフランクルの高弟ルーカスの論文(注1)でみました。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/5550

 フランクルは、余命宣告を受けたようなつらい状況における「態度」に、価値、意味があるといいます。しかし、 ルーカスは、この検証において、「態度価値」と分類されそうなことをあげた人が少なかったので、「態度価値」は独立した「価値」として扱うべきかどうかということについて、次のようにいいます。「態度価値」は、創造も体験もできないような、病気や深刻な悩みのある状況の中だけではなくて、ロゴセラピーを健康な「通常の生活条件への適応」「成功」しつつある人の価値の中にまで「態度価値」を拡張したいといいます。

 「「態度」価値を示した回答の割合が低いからといって、この価値カテゴリーを独立したカテゴリーとして扱うことには疑問があるということではなく、むしろこの概念の適用範囲が狭すぎると考えるべきではないかということである。」(p195)

 「非常に肯定的で、精神衛生上も非常に健康的な態度というものは、たとえその人の生活が(もっとも広い意味で)成功であっても不成功であっても同等の価値を有しているに違いない。」(p195)

 「成功に対する態度とはどのようなものであろうか。」(p195)

 「自分の成功は、それが悩んでいる人びとの助けになり、その人たちの悩みを和らげるのに役立つ限りでのみ成功といえるのである。・・・・この二つの態度、つまり苦しみの中で勇敢に耐えることと幸せの中で誰かを助けようとすることは精神的に強い決意を要するものであり、そのゆえにこそこれら二つの態度は人間の大きな内面的業績に数えられるのである。」(p195)

 以上で、「態度価値」の意義が見えてきました。

◆苦しい中で、創造も体験もできないような中にあっても、ある「態度」が考えられる
◆自分でも他者から見ても、「成功」しているひとが見せる、尊敬すべき、崇高な、そのような「態度」があり、創造、体験という分類にはなじまないもの。

 実例を考えます。
◆「苦しみの中で勇敢に耐えること」の例としては、余命宣告されたひとがみせる態度、障害を持つひとが耐える姿、すばらしいスポーツ、芸術などに取り組む姿、などが考えられます。
  性的犯罪の被害者が、実名を出して告発する行動には、「苦しみの中で勇敢に耐えること」を伴いますので、「態度価値」と言えます。

◆「幸せの中で誰かを助けようとすること」の例としては、収入が目当ではない「ボランティア活動」や、大乗仏教がいう在家仏教者の「利他」の行動にみられる「態度」があるでしょう。宗教者ではないから「本務」ではありませんから。 それから、慈善団体への寄付する行為も「態度価値」でしょう。著名な芸能人が、被災地に寄付していることが報道されますが、それもそうです。
 そして、成功しても、おごらない態度もそうでしょう。河井寛次郎の「態度」もそうでしょう。力あるものが、弱い立場の人を抑圧しない態度もそうでしょう。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/5539
★河井寛次郎

 その対極は、成功しているはずの者が犯す「ハラスメント」や他者をみくだす「態度」などです。「態度価値」の反対で、非倫理的です。他者を苦しみに、価値崩壊に陥れる態度です。


 「態度価値」をこのように拡張すると、9つ(7つ)のカテゴリーの中に、「態度価値」に該当するものがあるといえます。そして、ほとんどすべての人の「創造価値」「体験価値」を持つひとに、上記のような「態度価値」が、その遂行中や、間にあることになります。ボランティア活動、寄付、などの「態度価値」とされることをすると、生きがい価値を感じるでしょう。
 大乗仏教や西田哲学は、苦悩する他者に対して「利他」をすすめますし、すべての人に「至誠」で生きるようにというのが、深い生き方だといいますが、「態度価値」をすすんで行うことになると言えるでしょう。それだけを強調した「価値カテゴリー」のうち、「信条への奉仕」のうち、「宗教」があります。その意味を含む「自己教育」、「愛」もあるかもしれません。
 SIMTの7つの「価値」のうち、「精神面の成長」は、この「態度価値」です。つらい人も成功している人も、「至誠」と言われる「態度」で、判断し、行動していく精神を成長させようとします。  以上のように、抽象的な3つの価値と、具体的に9つ、7つが多くのひとが価値ある人生、意味ある人生と考えることは確かなことと言えます。ほかの哲学者も「幸福とは」について、同様のことをいいます(注2)。

 ひとはみな、3つの価値、具体的な9つ(7つの)カテゴリーを実行できれば、「生きがい」「人生の意味」を感じるのです。 これを失うと、無気力感の継続、精神疾患、自殺もありえるのです。 他者からみれば、仕事を持つひとの中でも、内心では、生きる意味の喪失を感じるひともいて、違法薬物をとり、家庭内暴力をふるい、希死念慮をもっているかもしれません。フランクルはいいます。上記の「価値」は、親や団体から押し付けられたものではなく、それをしていて心底、幸福感を感じるものであることが条件になるようです。

 「彼がどのような人生の意味をも知らない場合には、たとえ外見上はどんなにうまくいっていようとも、彼には人生なんてどうでもいいことであり、事と次第によっては人生を投げ出しもします。・・・・
事実、カリフォルニアの合衆国国際大学にいる私の共同研究者は、自殺も麻薬中毒も、その原因は結局のところ無意味感に帰せられることをテストと統計によって証明することができました。」 (フランクル『意味による癒し』山田邦男監訳、春秋社、p130)

 「無意味感」を予防したり、解決するためには、「ひきこもり」の人のなかにも、精神疾患ではないが、「価値」「意味」を失っている人がおられるでしょう。精神疾患(うつ病、PTSDなど)と診断されるものを発症して治らず、価値、意味を失っているひともおられるでしょう。「意味」の発見や治療の支援が必要です。 薬物療法だけでは不足することがわかります。
    (注1)『意味による癒し』 に収録されている論文。 「第五章 ロゴセラピーの有効性」エリザベート・S・ルーカス

    (注2)ヘルマン・ヘッセ、ヒルティ、アラン、ラッセルを紹介しました。
    大田健次郎『「死」と向き合うためのマインドフルネス実践』佼成出版社

今、つらい状況にあるかた

 上記のような、何をしたらいいかわからないで踏み出せない方、孤独感を感じておられるとか、「死にたく」なっているかたは、相談機関(自治体や国、NPOなど)に相談なさってほしいと思います。
今、行われている、次の記事の「内閣府のチラシ」もその一つです。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/5546
★「孤独・孤立相談ダイヤル #9999」及び「チャット相談」「メール相談」が始まっています

内閣府のホームページ
https://www.notalone-cao.go.jp/

(続く)


https://blog.canpan.info/jitou/archive/5548
どんなひとでも生きる価値がある
 どんなひとでも生きる意味がある
Posted by MF総研/大田 at 08:55 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL