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(3)精神療法の過程で信仰を呼び起こす場合 [2024年12月12日(Thu)]
医師による宗教への配慮・宗教者による精神療法への配慮

精神療法と宗教の役割と境界
 (3)精神療法の過程で信仰を呼び起こす場合

 ナチスの収容所に収容されたが、生き残り、ロゴセラピーを普及させた精神科医ヴィクトール・フランクル。 彼は、深い宗教は、聖職者が意図しなくても、「精神衛生上の効果、それどころか精神療法上の効果がある」、精神疾患が治ることがあるという。(『人間とは何か 実存的精神療法』ヴィクトール・フランクル、山田邦男監訳、春秋社、p386)

 次の記事の続きです。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/5528
★精神療法と宗教の役割と境界
(3)精神療法の過程で信仰を呼び起こす場合

 「ところが、これと類似の、意図せざる副次的効果は、精神療法の方でも見ることができる。ときたまではあるが恩寵に恵まれた幸福な症例において、患者が精神療法の過程で、とうに埋もれたままになってはいるが、もともとはあって無意識へ抑圧されていた信仰の源泉を再び見出す場合である。」(『人間とは何か 実存的精神療法』ヴィクトール・フランクル、山田邦男監訳、春秋社、p386)

 現代では、宗教と精神療法は別物である。鎌倉、室町、江戸時代などは、精神療法はなく、宗教だけであったかもしれない。宗教で、宗教以前の苦悩も救済していたであろう。本書の4人が救済できた対象は、十数人の悟道者だけではなく、数万であった。宗教以前の苦悩も解放しただろう。
 現代では、宗教と精神療法は別である。フランクルがいうように、昭和のころであったか、宗教で精神疾患が治癒した場合があるといった。ブログ5528である。

 ところが、フランクルは、逆のケースがあるというのが、上記の言葉である。 精神療法を受けるうちに、信仰を呼び起こす場合である。うつ病になって苦しむ患者が、医師の精神療法を受けるうちに、信仰心を呼び起こされる場合である。フランクルは、おそらく、キリスト教をさしていたであろう。医師の言葉をきくうちに、信仰心がめばえる場合である。そして、宗教的深みまで入る場合である。
 日本の場合、仏教の信仰を深めていくことがあるだろうか。また、私のケースだが、うつ病になった30数年前、精神療法(森田療法だった)を提供するという医師をたずねた。薬を処方せず(30数年前だ! いい薬はなかっただろう)、「君は仏教を勉強したまえ。」といって、友松円諦師の『発句経講話』を推薦された。それを読んで、結局、禅宗に入っていった。私の場合、 医師の精神療法は、たった1回であり、すぐ、書籍を読んでも、信仰にはいったわけではないから、フランクルのケースではないかもしれない。
 ただ、森田療法は「神経症」に効果があると言われていた。何ケ月か受けるうちに、信仰の深みに入っていく場合があるだろう。森田正馬は、禅に詳しく禅の語録を講話したことがあるくらいであった。森田療法の医師は、仏教や禅に詳しいだろう。深い禅に近い言葉で医師から療法を受けるうちに、禅にめばえて、深く自己探求にはいる患者がいるだろう。森田正馬は、 「マインドフルネス心の世界遺産」の一人である。

 欧米では、医師の精神療法を受けるうちに、キリスト教の信仰に芽生える場合があるのだろう。 特に、実存的精神療法、自己とは何かを観察する精神療法においては、そういうことが起きる場合が多いであろう。

 自己洞察瞑想療法、SIMTでも、自己の深まりをいう。見る、聞く、考える、行為する作用の深まり、作用を包み、働く主体を観察する。自己の階層を観察する。うつ病や不安症、PTSD、などの回復で支援者(マインドフルネス瞑想療法士)の支援は終わる。しかし、その後、深い禅に入るひとがいれば、フランクルのいうケースだろう。また、深い禅に入るという明確な意図を持たなくとも、SIMTの実践を続けているひとに、宗教的レベルの自内證の体験が起きるひとがいた。これこそが、意図しない場合で、フランクルのいう場合と似ている。

それでも宗教と精神療法は別のもの

 さらに、フランクル は、こう続ける。

 「もちろん、だからといって、精神療法の目標と宗教の目標とがあたかも同一の存在次元にあり、同程度の価値を有しているわけではない。むしろ、心の健康のレベルと魂の救済のレベルとは別ものである。つまり、宗教的人間が突き進む次元は、より高い次元への突破は、しかし、知識においてではなく、信仰において生起するのである。」(p386)

 「知識」は、対象的、二元的、科学的であり、信仰は、非対象的、非二元的であり、科学では届かない。別に述べる。

【参考】

https://blog.canpan.info/jitou/archive/2614
★宗教レベルのマインドフルネスと宗教以前のマインドフルネス


https://blog.canpan.info/jitou/archive/5527
【目次】医師による宗教への配慮・宗教者による精神療法への配慮
Posted by MF総研/大田 at 22:28 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL