(11)時の権威を眼中におかず禅界の本流の腐敗・堕落に敢然として抗議した人びと〜禅門の本流とは「異」で「偉」の人びと [2024年12月11日(Wed)]
【書籍紹介】深い禅に関係する昭和の時代の書籍
『禅門の異流 盤珪・正三・良寛・一休』
〜解説 竹村牧男(東洋大学名誉教授)
(11)時の権威を眼中におかず禅界の本流の腐敗・堕落に敢然として抗議した人びと
〜 禅門の「異流」で「偉流」の人びと
盤珪の禅が現代に活用できるかもしれない。最近、再刊された本書でみていく。
『禅門の異流』秋月龍a、講談社学術文庫
秋月龍a、講談社学術文庫、2024年9月10日 (Pがそのページを示す)
禅門の本流とは「異流」で「偉流」の人びと
元来、大乗仏教はこういうものであった。3つの核心があった。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/5495
江戸時代(一休はそれ以前)の本流から失われて、それを批判した、現代の仏教はどうであるかは、
解説の竹村牧男氏が、次々と明らかにしつつある。
本書は、禅の4人が紹介されている。
本書のタイトルに「異流」とある。本流、多数派、従来説とは「異なる流れ」という意味であろうか。
本流とは「異」であっても、大乗仏教の本道かもしれない。
この4人は、当時の教団の本流、多数派を厳しく批判している。何を批判したのか。すぐわかるのは、真の悟りがない、自内證がないということである。
それがないと、「利他」(苦しむひとの救済)もしない、「人間完成」(偏見など煩悩の抑制、利己の自覚抑制)もしない。
「異流」について、解説者の竹村牧男氏は、こういう。
「本書はもと、筑摩書房刊「日本の仏教」第十二巻として、『禅門の異流――盤珪・語録 正三『驢鞍橋』 良寛・詩集 一休『狂雲集』』(昭和四十二年七月)と題して刊行されたものである。その「まえがき」に、
(一部省略)
これら一群の禅者たちに通ずるところは、ひたすら自己に忠実に、時の権威を眼中におかず、禅界の本流(?)の腐敗・堕落に敢然としてプロテストして、独自の道を歩んだ、日本禅の偉(ヽ)流たちであったことである。」
と語っている。
著者の秋月龍a(1921―99)は、現代禅界のまさに異流・偉流の人であったと言っても過言ではないであろう。」(p325)
この4人は、禅門の異流、偉流であると著者の秋月龍a氏はいうが、解説の竹村牧男氏は、本書の著者、昭和の秋月龍a氏を現代の「異流」「偉流」というのだ。
しかし、秋月氏は、他界した。今は、竹村牧男氏が「異流」「偉流」であるようにみえる。なぜなら、竹村氏は、道元、空海にも自内證して自覚するもの、すなわち、すべての人の根底にこれがあることを明らかにしたのであるから。すべての人間の絶対平等と異なる現象として現れる対象的
世界のことは互いに尊重しようという「共生」の基礎になるのだ。
禅、密教、仏教の本流からは「異」であり、この後は、もう二度と期待できないのではないか。若者に深い仏教、禅がしらされていない。自内證にまで導く宗教があることが知らされない。ここまで理解する研究者も絶えるのではなかろうか。
フランクルも、これをいうのだ。この異流のひとたちだけではない。西洋のひともこれを教えるひとがいる。妄想などではない(注1)。
こういう異流、偉流の仏教、禅は、残念ながら現在の高校、大学、社会人教育で教えられることはほんどないだろう。本流ばかりが教育されて、質的には、地方創生SDGs4が実現しているとは言い難い。西田幾多郎や鈴木大拙は、ある意味、パイオニアであった。研究は長い年月をかけて変化していった。前の言句をとりあげて、全否定するような学者もいるのは、誤解を与えて、尊い宝を軽視させ遺憾である。宗教性、超越はフランクルもいう。排除せず真摯に学問的な研究を続けてほしい。フランクルは「一人類教」という。宗教、民族、国家の違いで殺戮、戦争が世界中にある。人類の根底の共通性は、そうした状況を停止する哲学になる世界的な宝かもしれない。
フランクルがいうように、宗教的、超越的な哲学は、精神療法の役割も果たす。また、死の不安のあるがん患者などの心のケアは、宗教レベルが必須である。宗教の存在価値を認識してもらうチャンスでもある。誠実な「宗教」とはどういうものかということも教育されていないとつらい時に誘われて「カルト」の被害も起きる。このような領域も日本ではすすんでいないと思う。
それが日本の若者に教育される機会がなくなるのは困る。それもあって、秋月氏や竹村氏の説く内容は、永くネットなどで誰でも学習できるようにできないだろうか。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4719
★地方創生SDGs ゴール4質の高い教育をみんなに
教団の内と外の若い人たちが仏教や禅で何を教育されているか、期待しているか問うてみればわかるだろう。
時代の状況は、国内、国際ともに危機的な状況にある。国内でさえ、力あるものが弱い人をしいたげている。宗教や学問においても自由が抑圧され、若い人びとに希望や方向を与えない。
「ひたすら自己に忠実に、時の権威を眼中におかず、禅界の本流(?)の腐敗・堕落に敢然としてプロテストして、独自の道」を歩んでいくことができない。
そういう時に、すべての人の根底の絶対平等を教える
本書のようなひとが、江戸時代以前からいたことを教える本書は貴重である。
(注1)欧米には、禅のような実践はないのだが、突然、偶然、この体験をするひとがいる。たとえば、ヘルマン・ヘッセ。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4214
【参照】
https://blog.canpan.info/jitou/archive/5296
【目次】第1世代のマインドフルネスに対する批判
(この記事は次の連続記事の一部です)
https://blog.canpan.info/jitou/archive/5493
【目次=書籍紹介】
『禅門の異流 盤珪・正三・良寛・一休』
著者秋月龍a、解説 竹村牧男(東洋大学名誉教授)
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Posted by
MF総研/大田
at 20:58
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さまざまなマインドフルネス
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