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盤珪の利他の方法(5)心理禅の批判 [2024年12月05日(Thu)]

【書籍紹介】深い禅に関係する昭和の時代の書籍
『禅門の異流 盤珪・正三・良寛・一休』
 〜解説 竹村牧男(東洋大学名誉教授)
(9)盤珪の利他の方法(5)

 盤珪の禅が現代に活用できるかもしれない。最近、再刊された本書でみていく。

『禅門の異流』秋月龍a、講談社学術文庫
 秋月龍a、講談社学術文庫、2024年9月10日 (Pがそのページを示す)

盤珪の利他の方法(5)心理禅の批判

 秋月氏は、盤珪が公案禅の「心理禅」的なところを批判したのも、特徴だという。

 「盤珪は公案禅の機械的・心理的な「大疑」に反対した。真の「大疑」はこの法語にいうように、 心理学的なものというより、もともと主として哲学的なものであると思うが、公案禅が盛んになるにつれて、「大疑」という語が特殊の意味をもつようになって、公案工夫による機械的な極度の意識の集中が心理的に亢進し、一種疑念不動の状態に入る、いわゆるエクスタシーの心理である。これを「大疑現前」というのである。」(p55)

 「つまり、公案禅における「疑団」なるものは人為的である。修行者がみずからの心の奥底から持ち出したものではない。そこを「盤珪はひっきょう「疑のまねごと」「疑団のない者に疑団を担わせて、仏心を疑団にしかえる」ものとして批判するのである。」(p55)

 秋月氏は、真の「大疑」は「もともと主として哲学的なもの」という。たとえば、「自己とは何か」とか「生きる意味は何か」とか「どうして人生はこんなに苦しいのでしょうか」いうようなその個人の哲学的疑問を探求することであろうか。
 その本人の実際の苦悩を探求する方法なのだろう。ただし、浅い問題であると、短期間でわかったつもりになって、「大法」までいたることをやめてしまう弊害もあるだろうが。僧侶や学者でも「大法」を望む者が少ない。

 盤珪の批判もわかるだろう。公案で修行した人は、自内證を得ない場合、現在の精神療法の範囲にあるような、うつ病の支援さえもできないようだ。だが、自分の哲学的な問題で探求した者は、同様の精神療法的な苦悩には支援できるはずである。実際、自己洞察瞑想療法は浅い段階ではあるものの、自内證を得ない場合でも(マインドフルネス瞑想療法士の教育は、その程度の自己洞察である)、うつ病程度の回復支援ができる。

 ただ、盤珪の説明の言葉は、江戸時代の日常語なのだろうが、今、我々が聴くと、わかりにくい。大乗仏教の唯識を現代の人がわかるような言葉で理解してもらう方法があるだろう。理解にとどめず実践をうながせるかどうかが重要な点だろう。それが理解にとどまっては、やはり「大法」は消滅してしまう。(後期西田哲学にも実践論の論文があるが西田哲学も現実に活かされていない。)

 公案は、参禅者の自分自身の疑問ではないから、真剣に最後までとり組まないだろうから、一般在家の支援に乗り出すひとが少ないという問題があるだろう。つまり「利他」をしない。しかし、自己自身の苦悩であれば、それが哲学的な理解でも解決した時に、少なくとも似た苦悩を持つ在家の支援ができるだろう。「利他」である。

 盤珪は、参禅者の「自己自身の問題を問え」「それに取り組め」というのだ。 その質疑応答と「不生」的な生活実践を続けるうちに、現代でいう「不生の仏心」についての哲学的な理解は正しくなされるのであろう、そういうことであろう。そうすれば、少なくとも自内證しなければ解決しないレベルの苦悩(それは多くない)でない問題は解決するはずであるから。

(続く)

(この記事は次の連続記事の一部です)
https://blog.canpan.info/jitou/archive/5493
【目次=書籍紹介】
『禅門の異流 盤珪・正三・良寛・一休』
 著者秋月龍a、解説 竹村牧男(東洋大学名誉教授)
Posted by MF総研/大田 at 18:07 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL