(4)公案禅の否定 [2024年12月04日(Wed)]
【書籍紹介】深い禅に関係する昭和の時代の書籍
『禅門の異流 盤珪・正三・良寛・一休』
〜解説 竹村牧男(東洋大学名誉教授)
(8)盤珪の利他の方法(4)
盤珪の禅が現代に活用できるかもしれない。最近、再刊された本書でみていく。
『禅門の異流』秋月龍a、講談社学術文庫
秋月龍a、講談社学術文庫、2024年9月10日 (Pがそのページを示す)
盤珪の利他の方法(4)公案禅の否定
秋月氏は、盤珪の教えの特徴は「公案禅」の否定が特徴だという。ただし、盤珪の活躍の後、
白隠が公案禅を改革して、従来の自内證なく、理屈で公案を通過していた弊害を変えたのだ。
盤珪の公案禅の否定は、白隠の公案指導を批判したものではない。
盤珪の生涯 1622年〜1693年 (臨済宗)
白隠の生涯 1685年〜1769年(臨済宗)
盤珪時代の公案禅批判については、秋月氏は、こういう。
「盤珪のこの語は、公案禅というものが、「手前の上を究め」ることを忘れて、ともすれば「よそごと」になってしまう弊害を見抜いて余すところがない。白隠が盤珪に少しおくれて出現して、公案禅に起死回生の実を与えるまでは、日本の公案禅の硬化・化石化はこんなものであったろう。幸いに盤珪が出、ひきつづいて白隠が出て、日本における仏心宗の命脈が今日に伝わることができた。」(p50)
盤珪は「公案禅」を批判したが、それは白隠の公案禅を批判したものではなかった。しかし、秋月氏などに、伝わったが、それでも、秋月氏は、昭和の公案禅を見て、やはり、批判されるべき状況があると言った。
「白隠自身の公案禅の興隆大成のことはしばらくおき、今日はまた白隠禅の亜流たちの公案病がふたたび盤珪のこのような公案批判を必要としている。」(p51)
「盤珪のいうところは、みな「不生の仏心」という「今日の身の上の批判で相すんで、埒(らち)のあくことなのに、「脇かせぎ」をして「手前の上」を究めることを忘れるような「公案」などは「衆生に毒を食わすものだというにあった。これはひっきょう公案が修行者に実(まこと)の疑いを抱かせにくいところに一つの原因がある。」(p52)
もし、正統な公案禅が大乗仏教の核心をとらえるものであるならば、@自内證、A人間完成、⓷利他がみられるはずである。@自内證は、確かに、現在の臨済宗でも、強調されている。
しかし、公案で指導するがゆえに、Aの人間完成がはたから見えない。そして、⓷の利他はまったくわからない。利他は、普通の在家の苦悩を解決支援するはずのものだから。現代にいう「心理療法」「精神療法」の範囲でいいはずだ。仏教の苦は「四苦八苦」というから、現代の人間関係の悩み、がん患者の死の苦悩、ハラスメントによる苦悩、うつ病、不安症、依存症などの苦悩などと同様の苦痛を救済するのが、大乗仏教の「利他」であるはずだ。
それとも、そこは、医者(精神療法)のみがかかわる領域であり、宗教者は全く関係しない領域だというのか。それならそうと、学問的に明らかにしてほしい。
だから、臨済禅も国民からみれば、その意義がわからないから、秋月氏は、白隠禅でなく「盤珪禅」をすすめるのだろう。臨済禅には、@自内證はある。しかし、A「人間完成」ははたから見えないから何を人間完成というかわからない。⓷「利他」は、全く行われていない。
曹洞禅は、@ABのいずれも言わない。外部で震災などがあってもボランティア活動せず、坐禅せよというのが開祖の禅であるというひとがいた。時代が違う。新しい時代、現代、未来に存続してもらいたい「宗教」であるのか、わかりにくい。
「宗教」とは何か、何が大乗仏教の核心が国民からみればわからない。内部の若手も誇りをもっているようには見えない。第1世代のマインドフルネスと同じ程度に見えて、国民の多くが、マインドフルネスに向かっている。仏教は不要、マインドフルネスは有用と評価されているのか。
西田幾多郎が哲学的な観点から救済をしない禅を批判して80年も経過した。大学にも教団にも禅の実際の学問的な究明、現代への応用研究などをすすめる「学問研究の自由」がないのだろうか。それとも、もう、過去のものとして、見捨てたのか。
(続く)
(この記事は次の連続記事の一部です)
https://blog.canpan.info/jitou/archive/5493
【目次=書籍紹介】
『禅門の異流 盤珪・正三・良寛・一休』
著者秋月龍a、解説 竹村牧男(東洋大学名誉教授)
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Posted by
MF総研/大田
at 17:22
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さまざまなマインドフルネス
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