(6)盤珪の利他の方法(2) [2024年11月12日(Tue)]
【書籍紹介】深い禅に関係する昭和の時代の書籍
『禅門の異流 盤珪・正三・良寛・一休』
〜解説 竹村牧男(東洋大学名誉教授)
(6)盤珪の利他の方法(2)
盤珪の禅が現代に活用できるかもしれない。最近、再刊された本書でみていく。
『禅門の異流』秋月龍a、講談社学術文庫
秋月龍a、講談社学術文庫、2024年9月10日 (Pがそのページを示す)
盤珪の利他の方法(2)
大乗仏教の核心の一つに「利他」がある。
これは、悪をしない、善をする、他者の利益のために働くことであった。
現代の「禅」はこれを言わないように見える。ただ坐禅するとか、公案を見よという。
これが人びとの苦の救済になるのか、わかりにくい。
40年ほど前の私(大田)のように、うつ病になったひとも禅に(最後の)期待をして、禅寺に来るかもしれない(私が受けた坐禅会には、うつ病、統合失調症と思われるひとがいた)。「死にたい」と言う人に、ただ坐禅せよ、とか、公案を言えば、絶望して死んでしまうかもしれない。もちろん、その師はそういうことは言わない。ていねいにアドバイスしておられた。
だが、大乗仏教は自分や他者の「苦の救済」を強調した。盤珪は大乗仏教と似たようなことをいう。自分の問題を問え、という。当時、うつ病があったかどうかわからないが、今よりもひどい差別社会だったから、あっただろう。盤珪なら、それの解決への心得を問うことができたはずだ。
2)身の上の批判ですむ・不生でいよ
人々は自分や他者の「悪」の行為によって、苦しむのだから、仏教者が「悪」の行為をしていいはずがない。たとえば、宗教者のハラスメントが今でも、事件になっているが、他者を苦しめる行為をしてはならないはずだ。家庭内暴力もそうだ。
「悪」の行為をするなというのが、大乗仏教であった。
見道は無分別の体験に入るのだが、それは対象的でないために、対象的な思想、学問、思惑に執着し嫌悪し「悪」の行動をする限り、決して見道にはいらない。
大乗仏教、唯識の「悪」の因とされるのは、「煩悩」と称された。執着(貪りなど)、怒り(嫌悪など)、などがあるが、「煩悩」については、詳しく述べなかったので、次の記事で述べることにする。
盤珪も、これに該当することを言ったようである。
「悪」の行為をしないようにつとめていよ(=不生でいよ)、という。公案をすすめない。公案は自分の問題ではない、自分の問題を見よ(=身の上の批判)、というのだ。
これでも、徹底して自己洞察をしながら生活すれば、自内證をえるのである。鎌倉時代の道元も似たことを言った。
盤珪の弟子、十数人が法を嗣いだという(p43)。大変多い。公案によらずに、不生の実践によって悟りをえる。
次のように、わかりやすい言葉で指導する。
「わが気にいらぬことを見るか聞くかすれば。はやそれにとんじゃくをして、顔へ血をあげて身のひいきゆえに迷うて、仏心を修羅についしかえるなり」(p78)
「短気」は怒りである。「身のひいき」自分中心、自分かわいさ、自分の評価基準に執着したり、嫌悪して相手に怒る。自分のせいなのに、相手に怒る、ということをする。
「そなたが身のひいき故に、むこうのものにとりおうて、わがおもわくを立てたがって、そなたがでかしておいて、それを生まれつきというは・・・」(p80)
「悪」の煩悩のうち典型が貪瞋痴(とんじんち)である。自分が持つ闇の心、自覚しにくい自分中心の基準。これをしでかして、相手の言葉に怒る、よこしまな欲望を起こしてハラスメント行為をする、餓鬼、畜生になる。
(自分に都合のよい理屈で、浅い仏教解釈ですますのも、自利、我執、法執、すなわち、煩悩なのである。宗教者、学者にも多い。なかなか学問が深化しない。「利他」が言われない。だから、現代もなお、仏教が「精神療法」として開発されない。現代人をも苦しめているのである。)
「おてまえが、仏心をなんでものうおもうて、腹を立てては修羅道にしかえ、わが欲をでかしては餓鬼にしかえ、愚痴をでかしては畜生にしかえ、種々様々のものに心をやすうしかえて迷うが、それが軽すぎるわいの。」(p87)
秋月氏は、盤珪の教えの特徴を「不生禅」という。
「不生になろうとせず不生でおれ」と盤珪はいう。・・・
それは如何にしても客体的に対象化することはできないもの、主体的に行為的直覚的に、
それ自体のはたらきそのものとなって見る(「ものとなって見る」は西田哲学の術語)ほかにないものである。」(p85)
般若心経で「不生不滅・・・」というように、「不生」は、小乗仏教では言わず、大乗仏教の核心であり、唯識で詳細に説明している。盤珪とそれと
似たことをできるだけやさしく説法しようとした。
そのようなわかりやすい指導法であったから、おどろくほど多くの僧、一般人が参じた。
「手度の弟子四百余人、その法を嗣いで一寺の住職となって化をあげた者十数人、弟子の礼をとった者、侯伯宰官から士女民隷に
至るまで五万余人」(p43)という。
(この記事は次の連続記事の一部です)
https://blog.canpan.info/jitou/archive/5493
【目次=書籍紹介】
『禅門の異流 盤珪・正三・良寛・一休』
著者秋月龍a、解説 竹村牧男(東洋大学名誉教授)
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Posted by
MF総研/大田
at 20:19
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さまざまなマインドフルネス
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