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(9)大乗仏教の核心〜「唯識」で見る [2024年11月06日(Wed)]

大乗仏教の核心〜「唯識」で見る
(9)「究竟位-無住処涅槃」

 修行の最後の段階は、唯識では「究竟位-無住処涅槃」です。「仏」になる位です。

「究竟位-無住処涅槃」

◆仏になる
 「こうして、修行が完成すると、仏になります。」(『知の体系』p215)

 「仏は八識が転じて成った四智を内容とするものでしたが、その中、平等性智と妙観察智は、見道のときに発生します。しかし、成所作智と大円鏡智とは、この究竟位において初めて発生するとされています。四智円明となるのは、仏地に至ってである、ということです。」(p215)

 理解しなければならないことがたくさんあるのですが、関心あるひとは『知の体系』をご覧ください。ここでは、先を急ぎます。

 悟りを得た(自内證)人は、2つの智慧を得て、仏になるとさらに2つの智慧を得るといいます。この4つの智慧を次の記事で見ておきます。
 右矢印1 https://blog.canpan.info/jitou/archive/5505

◆他者との関係

 修行が完成すると、仏ですが、凡夫との違いは次のようにいっています。

◆仏
 「仏となった者は、自利・利他円満、自覚・覚他円満の存在として、他者と本性は寸分かわらず同じくし、いわば、一体であり、かつ個としては他のあらゆる個と関係し、他者の救済のためにこそはたらいてやまないのです。そういう存在が、仏というものです。」(『知の体系』P185)

◆凡夫
 「ひるがえって、我々凡夫はどのような存在かといいますと、まず、各々個として、他者と関係しているのはいうまでもないことです。我々は、つい、自分は自分で支え、自分で生きている、と考えがちですが、実相は、あらゆる他者との無尽の関係の中にあるといわなければなりません。そして凡夫の他者との関係の仕方は、そこで自利のみを求めての関係の仕方になりやすく、しかもその利の内容が、決して覚を内容とするものでなく、我執・法執に都合のよいことになっています。自我の福利の拡充、ものの所有の拡充を中心に追及し、元来、幻想でしかない永遠の自我やものにとらわれて、もっとも根源的な自己の存在の様式、関係の中にある自己、もとより他者によって初めて成立しえている自己への視点、自覚を失ってしまいます。こうして、我々は、気づかないうちに、苦しみの人生を歩んでいくことになるのです。」(p186)

 この社会に、権力者のエゴイズム、ハラスメント、暴力、うつ病においこむ、自殺させる、不登校、ひきこもり、誹謗中傷、種々の苦悩がある(精神社会問題)のが理解されます。日本人も、大乗仏教を実践していません。学校でも教育されません。

 大学で行われる「仏教」の講座も「マインドフルネス」も、上記の凡夫のレベルでしょう。「マインドフルネス」は、歴史が浅いので、よくわかります。うつ病を治す「利他」はできません。自分のエゴイズムの抑制も含まれていません。
    (以前にも見たことがあります)
    https://blog.canpan.info/jitou/archive/2458
    自内證しない禅者、学者は利他しない。苦悩のわけがわからないから。使命感が生まれない。
 大学の学問でさえもこうなのです。うつ病などを治す可能性ある大乗仏教や禅(私のうつ病は上記の大乗仏教の核心をそなえた禅僧にめぐりあうという幸運を得たので治りました)を教えるひとが竹村牧男氏以外にはいないでしょう。上記の大乗仏教の修行法を現代人ができるように教える書籍も見つけることはできません。あれば、このように仏教が衰退していないでしょう。精神社会問題の解決に活用されているでしょう。若者も、それを目指すでしょう。こういうすぐれた大乗仏教や禅が教えられていないようです。

 したがって、現代日本の精神社会的問題の解決の先行きは少しも楽観できません。

(この記事は次の連続記事の一部です)
https://blog.canpan.info/jitou/archive/5495
【目次】大乗仏教の核心〜「唯識」で見る

Posted by MF総研/大田 at 16:51 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL