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(8)大乗仏教の核心〜「唯識」で見る [2024年11月06日(Wed)]

大乗仏教の核心〜「唯識」で見る
(8)「究竟位-無住処涅槃」

 大乗仏教は、在家仏教だった。僧侶だけでなくて、すべてのひとの家庭生活、職業生活が「利他」行としての 性格を持つ(注)ので、その生活の中で、内面の成長(悪をしない、善をする心の観察実行)をはかり無分別智を得ることができる教えに体系づけた。
    (注)家族や社会が必要としている物・サービスを提供。持たないひとは苦しむ。たとえば、食べ物がないと私は苦しむ。だから、農業をする人は私の苦悩を救ってくださる「利他」を実行してくださっている。政治、防衛、教育、医療などすべて、「悪」の心でせず、自己他者のためになることをするのは「善」であり、「利他」である。
     ところが、我々は、すべて、家庭、学校・職業生活において、いじめ、ハラスメント、エゴイズム、自己の利益優先の行為をする、総じて「自分や他人を苦悩させる」行為(身口意の業という=身体的暴力、いじめや誹謗中傷の言葉、自分を苦においこむだけの思考)、「悪」というが、それをしないようにするのが「持戒」。 家庭でも虐待、暴力がある。ビジネスや官庁における職場、宗教、学問の場にも、弱い立場のひとを苦しめる。「悪」である。家庭でも社会でも、自己他者の利益になること、「楽」を感じることをするのが「善」である。「持戒」の心で職務を行う。これが、大乗仏教となる。
     だから、在家人のすべてが、大乗仏教の実践をすべきなのだ。そのように、唯識は体系化した。本来の禅もそれを目指した。現代の禅は後退した。西田幾多郎、鈴木大拙などは、出家せず学生で禅を修した。出家せずともできるのが禅であり大乗仏教だった。
 大乗仏教の中でも、唯識が論理的に記述しているので、このことがわかる。 紹介している書籍の悟り(自内證@)を得た4人の禅僧(曹洞宗と臨済宗であった)はその後何をしたかAB理解するために、大乗仏教の「唯識」の教えを見てきた。4人の禅も、大乗仏教であった。日本の現代仏教(禅)は、ほんの一部(第1世代マインドフルネス程度)を実践しているにすぎなく、大竹晋氏がいうように、自内證@もなく、利他A、人間完成Bも弱いと指摘された。

 この4人の禅僧こそが大乗仏教の担い手であって、現代仏教は、遠く離れていることが理解されよう。それが、日本では苦悩する人を仏教では救済するところがなく、苦悩するひとは仏教へ行かず、医師、カウンセラー、カルトなどへ行くか、自ら死んでいく現状になっているのが理解されよう。

 4人の禅僧が、現代日本に生きていれば、多くの人々が救済されるだろうに。

 遠回りしているが、本書の4人の禅僧が痛烈な教団批判をしている理由を知るためには、そもそも大乗仏教とは何か、そもそも禅の実践行為は何をめざしていたのかを理解する必要がある。そのために、遠回りして、それを概観した。

 まもなく、盤珪、良寛、などを見ていくが、その時に、これまでの唯識のめざすところを背景に知っておくと、彼らの主張が理解できるだろう。先回りしていえば、この禅僧たちは、自内證、利他、人間完成の行がある。

 竹村牧男氏の(『知の体系』佼成出版社)でみていく。(Pがそのページを示す)

 遠回りした大乗仏教の修行の最後が、究極の「仏」の有様である。小乗仏教とは違う。 小乗仏教は、我執の滅のみを実現して仏になり、この人間世界で利他をしない。大乗仏教は我執、法執を滅し、利他を行い、人間としての完成に励み、この人生では仏にならないという。 大竹晋氏がいうように、小乗と大乗、現代仏教は、全く別の宗教のようである。

 「ただ坐禅する」というのは、宗教、仏教とはいえないかもしれない。「無評価で観察の瞑想」、すなわち、第1世代のマインドフルネスと同じだから。後者は「宗教ではない」ということを強調しているからである。

「究竟位-無住処涅槃」

 修行の最後の段階は、唯識では「究竟位-無住処涅槃」です。「仏」になる位です。

次の記事にします。



(この記事は次の連続記事の一部です)
https://blog.canpan.info/jitou/archive/5495
【目次】大乗仏教の核心〜「唯識」で見る

Posted by MF総研/大田 at 10:57 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL