(7)修習位(修道位)〜大乗仏教の核心〜「唯識」で見る [2024年11月05日(Tue)]
大乗仏教の核心〜「唯識」で見る
(7)修習位(修道位)
大乗仏教の核心は、@「自内證」、A「人間完成」、B「利他」であるが、現代の仏教は、これらに弱いという。 B「利他」とは、他者のために働くことであるが、大乗仏教唯識では、具体的には、六波羅蜜のうちの、3つ、 布施、持戒、忍辱であるという。
さらに、精進、禅定と智慧を含めて実践していくと、無分別、悟りの体験@が起きる。
それがゴールではない。自内證の体験@で知った人間の根源、
なぜ、人々が苦悩する(現代的に言えば苦悩してうつ病になり違法薬物依存になり、暴力、カルトに向かい、自殺まで起きるのか)のか根本理由がわかる。それがわかる人(禅僧だけではない、あらゆる姿をしている、医師、商人、農業、遊女、など経典は描く)が、何もしないはずがない。紹介している書籍の悟り@を得た4人の禅僧(曹洞宗と臨済宗であった)はその後何をしたかAB理解するために、大乗仏教の「唯識」の教えを見る。
竹村牧男氏の(『知の体系』佼成出版社)でみていく。(Pがそのページを示す)
修習位(修道位)
ただ坐禅する、というのではない。それくらいなら、「マインドフルネス」(第1世代)と同じ程度である。利他もしない、人間完成の修行もしない教えでは誇りを持てるはずがない。道元や3人が他の仏教僧たちを批判するはずがない。
唯識によれば。見道、自内證の後、長い長い修行の段階に入る。この段階を修習位(修道位)という。人間完成Aの段階であろう。
「無分別智が生起しても、それが修行の最後のゴールというわけではありません。むしろ見道は、本格の修行の始まりでさえあります。禅でいえば、見性したところ、これからさらに、より長遠の修行があるわけです。」(『知の体系』p211)
唯識では「修習位」は、十段階で「十地」という(『知の体系』p212)
「唯識では、見道を十地の一番最初、極喜地(初歓喜地)に上がったところ、と見ており、次の修習位すなわち修道は、その十地の修行の全体、と見ています。」(p212)
「誓願、本願を繰り返し自己に確認していく中で、無分別智を修習して、阿頼耶識にしみついている無明、煩悩の習気を離れていくのです。」(p212)
「第七地と第八地の間に、一つの大きな進展があります。それは、利他行が、第八地以降では、自然に、はからわずして行われていく、ということです。」(p214)
「このことは、第八地以降、我執がまったく起きなくなる、ということとも対応しています。ただこの場合、法執は残っています。それも、人びとの救済の営みのために、あえて法執を起こして、修行を続けるのです。」(p214)
これが大乗仏教の悟りを得た人の、その後の修行の行動である。
苦悩する人、教えを乞う人が来れば、直接の仏法を教える、一般在家ならば家業職業の行為で家族社会のために働く(利他行)なかで、さらに内面の心の成長に取り組む。大竹晋氏は「人間完成」といっている。
僧侶の姿、一般市民の姿で、家庭を営み、各種の職業生活の中で、そういうことをしている。
「修道とは、見道以降の修習位のことで、そこではいわゆる先天的な煩悩障の種子はまだあり、修行しているさなか以外の日常生活ではやはりその煩悩が起きてしまいます。」(『『成唯識論』を読む』春秋社,p469)
修行の最後の段階は、唯識では「究竟位-無住処涅槃」です。「仏」になる位です。
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Posted by
MF総研/大田
at 07:30
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さまざまなマインドフルネス
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