(5)利他の「第3 忍辱波羅蜜」〜大乗仏教の核心〜「唯識」で見る [2024年10月31日(Thu)]
大乗仏教の核心〜「唯識」で見る
(5)利他〜忍辱波羅蜜
◆ 大乗仏教の「利他」とは布施、持戒、忍辱
大乗仏教の核心は、@「自内證」、A「人間完成」、B「利他」であるが、現代の仏教は、これらに弱いという。 まず、B「利他」とは、他者のために働くことであるが、大乗仏教唯識では、具体的には、六波羅蜜のうちの、3つ、 布施、持戒、忍辱であるという。
竹村牧男氏の(『知の体系』佼成出版社)でみていく。(Pがそのページを示す)
第3 忍辱波羅蜜
大乗仏教徒が実践すべきことの核心は「利他」であるが、それを構成する第3は忍辱(にんにく)である。
「忍辱は、耐え忍ぶことですが、これには、大きく分けて2つのことがあります。」 (『知の体系』 p202)
「一つは、・・・劣悪な環境にまけず修行する、ということ・・・どんな環境にもとらわれず、自己の志願を一筋に成就していくこと」(『知の体系』 p202)
「もう一つは、他者から投げかけられるはずかしめを耐え忍ぶ、ということです。大乗仏教は、いわば新仏教なのであり、決して正統の仏教とは考えられていなかったのですから、様々な非難、攻撃を受けました。」(p202)
「『法華経』には、その姿を彷彿させる描写がいくつも出てきます。罵詈雑言を浴びるのはもちろん、杖で打ちつけられたり、石を投げつけられたり、といったことも記されています。」(p202)
「こうした、対他の人間関係の中で、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍ぶということが、忍辱のもつもう一つの側面です。」(p202)
大乗仏教の一員であると自覚した人は、 「布施」が家庭生活、学校生活、職業生活、闘病生活などのすべての生活が「利他」となるのである。つまり、宗教の布教だけではないはずだ。そうすると、以下のようなことにもなるであろう。
現代の日本こそ、大乗仏教が実践されていいはずの問題社会
生活においてつらいこと、苦しいことがあっても、耐えることだ。現代語でいえば、受け入れ、アクセプタンスに近いだろう。
つらくても、悪をせず、善を行う。
つらいからといって、悪を抑制するというのは、相手に暴言、暴力をふるうとか、違法な行為をしないのだ。つらいからといって、ハラスメント行為、違法行為、いじめなどをしないで、耐えるのだ。宗教や学問の現場であるのは、自分の説に批判された時、怒って、排除するとか、人事で相手に不利な扱いをするなどがあるが、そういうことをしないで耐えるのだ。正当な反論をするとか、適切な行為を選択していくことだ。つまり、本務を真剣に行うという「善」のほうに向かうのだ。
現在の仏教学、禅学、マインドフルネス学、精神医学などの領域においても、批判説をする人を多数派が自分の利益のために、多数の力で、少数説の人を排除、人事上の不利な扱いをしていないか。そういうことをすれば、多数派説で解決できない社会問題の解決を妨害する「悪」となるというのが、大乗仏教なのだ。
現代社会において、数々のハラスメントがあるが、その中で、自分を批判してきた人の言葉・行為に対して、耐えること、正当な対応をせず、相手に不利になること、苦しめることをするパワーハラスメントは、この違反に該当する。
法華経では、仏教そのものの「布教」という行為(説法する、仏教の議論する、など)における攻撃に耐えることが記述されているのだが、「仏教」(その周辺のマインドフルネス学、精神医学でも)そのものでいえば、現代でも、研究、指導、発表の現場で、指導者、同僚などは自説と異なるものを見聞きした時、不快な感情が起きるであろうが、耐えて受け入れて、正当な学問的な論議を行う方向が、忍辱の実践だろう。多数派工作で少数説を排除せず、少数説と共存して社会の利益のためになるような研究をしていくのが、大乗仏教の「利他」だろう。実は、民衆は多様なものを欲しているから、少数派説だけが繁栄することにはならないから、共生すべきなのだ。多数派は多数派でいられるから、心配いらないのだ。
大乗仏教の「利他」は社会の利益になるような産業の行為のすべてなのだが、これに違反する行為が、ビジネス、教育、学問、医療、福祉、政治、芸能、スポーツ、などの世界中で、広く起きている。宗教界、学問の世界が自ら行って、範を示し教育してくれないと、社会がよくならないのは目に見えている。
以上が、大乗仏教の一員が実践する初歩の段階の「資糧位」の最初であるという。それが「利他」であるという。
仏教が禅僧(当該書の4人も含む)から、厳しく批判されるのは、「自内證」がないことに焦点があてられることが多いので、禅に関心のない多くのひとは「大乗仏教なんて私は関心がない、どうでもいい」と思うひとが多いであろう。
しかし、上記のような「利他」を強調していたのだとすると、すべてのひとに関係することが理解されていいはずである。
「マインドフルネス」が、職場で貢献するというが、上記のように、大乗仏教の「利他」の実践によるマインドフルネスこそ、すべての人のすべての生活場面で実践すべきことと思わないだろうか。
次に、大乗仏教の本来の核心は「自内證」、および「人間完成」である。
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Posted by
MF総研/大田
at 08:47
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さまざまなマインドフルネス
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