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「マインドフルネス」(第1世代)は組織構造的、社会的問題を見えにくくする(3) [2023年12月24日(Sun)]
「マインドフルネス」(第1世代)は、社会的問題、構造的問題を見て見ぬふりする傾向を助長するという批判にさらされて、もっと社会貢献できる「第2世代マインドフルネス」に向かっている。
西田幾多郎が、ただ坐禅する(人々の苦をみない、社会構造の問題を言わない)のを、「閑人の閑事業」と言ったが。あれから80年。

2023年、 日本、世界で種々の事件、紛争が勃発した時点で「マインドフルネス再考」
第1世代マインドフルネスに向けられた批判
 〜 主にMBSR、MBCTの弊害

「マインドフルネス」(第1世代)は組織構造的、社会的問題を見えにくくする(3)
 〜 日本でも、社会問題、構造的問題を見てみぬふりを助長するおそれ

 次の論文で指摘された「マインドフルネス」に対する批判について紹介するとともに、私見を述べている。
    (B) 池埜聡・内田範子「第2世代マインドフルネス」の出現と今後の展望ー社会正義の価値に資する「関係性」への視座を踏まえてー、Human Welfare, 12:87-102,2020年 (これは、上記雑誌、1月号で、林紀行氏が注9)で紹介している。(p15) )
 3つの批判があるという。1)2)3)
    1)倫理性のあいまいさ 

    2) 組織構造的、社会的問題の不可視化
      「見て見ぬふりを助長」
      この問題は、2つに分けられる。企業と社会全般。
    A) 企業マインドフルネス
     ☆組織内にはびこる「見て見ぬふり」、マインドフルネス助長するおそれ。 

    B) 企業マインドフルネスにとどまらない
     ☆社会全体に問題を見て見ぬふり
     ☆池埜内田論文による「マインドフルネス」批判


    3)スピリチュアル・バイパッシングの危険性
前の記事(ブログ5304)で、池埜内田論文により、「マインドフルネス」(第1世代)の批判をみました。今度は、この批判についての私(大田)の意見です。

2) 組織構造的、社会的問題の不可視化〜大田の意見

 欧米では、「マインドフルネス」(第1世代)は、(2)社会全般に差別、無視、傍観を助長するおそれがあるという批判である。
 欧米は白人系のマジョリティの見て見ぬふりをする社会構造を強化している、という批判の声である。
 日本でも、「マインドフルネス」は、善悪などの評価をしないことを強調するので、マジョリテイによる弱い立場にある人々の格差、差別、偏見ということが、日本に住む外国人、LGBTQ、障害者、精神疾患の人などに対する問題を「見て見ぬふり」を助長する傾向を強化するおそれがあるだろう。

 さらに、日本では、マインドフルネスの支援者、つまり、このレベルの「マインドフルネス」を提供する人は、余裕のあるエリート層であり、「弱者」の苦悩を見て見ぬふりの傾向を助長するおそれがある。
 「弱者」が耐え忍んでいる苦痛に対して、「強者」が「見て見ぬふり」する構造となるおそれのある領域は、不登校、ひきこもり、うつ病が治らない、自殺、過労死、過労自殺、ハラスメント、カルトの被害、などのに構造的な問題があるが、見て見ぬふりを自己合理化する心理を助長するおそれがある。

 第1世代のマインドフルネスが医療化、ブランド化、商品化に至り、マイノリティを遠ざけてきたという点は、日本でも同様だろう。深刻な問題を抱える日本の「弱者」は、第1世代マインドフルネスを学んでも解決しないので、マインドフルネスの専門家、支援者から遠ざけられて苦悩が持続する結果を招いていることに現れる。たとえば、いじめの被害者やうつ病が治らない人たちである。マインドフルネスからも見放されて、苦に耐えておられる。あるいは、退職、自殺の苦悩が続く。

 第1世代マインドフルネスを提供するものは、日本では、深刻な問題に直接かかわる人ではない。教えられる人々も深刻な問題を持つ人たちではない。両方とも癒しを求めるとか集中力の向上程度であり、すでに満足している「エリート」層が多いだろう。池埜内田論文が指摘していることと似た状況であろう。職業、収入などが安定したエリート層同志で広まっているのであろう。

 「弱者」の状況は、日本では種々の領域で、構造的社会的に「善い」状況ではないと評価せず、無視、傍観することを助長するおそれがある。社会の問題に無評価、無関心でいいような見方を繰り返し実践する方法が「エビデンスがある」「科学的」という都合のよいキャッチフレーズの恩恵を受けて、学校でも企業の現場でも導入されて、マインドフルネスの推進をする研究者、実務者は、日本でも多数派となり広まっている。社会全体に、構造的な問題を見てみぬふり見方を助長する傾向を拡散するおそれがある。

 一方、日本には、昔から大乗仏教がある国であり、広く在家の苦の解決を支援する在家的宗教のはずであるが、そういう本来の仏教のすがたは、西田幾多郎、鈴木大拙、その後の哲学者が指摘してきたが、その本来の姿は、大学でも研究も、学生への教育もされず、メディアで紹介されることもほとんどない。マインドフルネスに類似する坐禅は大学でも僧侶や学者によって教育されてきたが、そこに「科学的」というキャッチフレーズで、マインドフルネスが大学などでも、積極的に教えられる状況は、社会問題を見て見ぬふりをする傾向を拡散するおそれがあるのではないか。
 苦悩を訴える「弱者」、構造的な問題による被害者かもしれない「弱者」、たとえば、いじめの被害者や不登校の子どもやうつ病が治らない人や、うつ病の重い人に、それを「嫌だ、つらいと評価せず受け入れなさい」というアドバイスをするとか、それは対象外だといってすませる風潮を助長するおそれがある。社会的構造的問題の被害者も多いのだが、たまたま、マインドフルネスに参加してきても、マインドフルネスの支援者は問題を知らず、苦に共感できず、適切な支援ができず、つらい人は二度と参加しないであろう。

 次は、日本における「マインドフルネス」に関わる「学者」「精神科医」などの態度を見たい。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/5202
★痛ましいことが起きているのに「見て見ぬふり」でいいのでしょうか

◆2023年、 日本、世界で種々の事件、紛争が勃発した時点で「マインドフルネス再考」
https://blog.canpan.info/jitou/archive/5296
【目次】第1世代のマインドフルネスに対する批判
   〜 問題を克服するために第2世代マインドフルネスへ
Posted by MF総研/大田 at 21:35 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL