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「マインドフルネス」(第1世代)には倫理的な歯止めがない(3) [2023年12月20日(Wed)]

2023年、 日本、世界で種々の事件、紛争が勃発した時点で「マインドフルネス再考」
第1世代マインドフルネスに向けられた批判
 〜 主にMBSR、MBCTの弊害

「マインドフルネス」(第1世代)には倫理的な歯止めがない(3)

 この論文で指摘された「マインドフルネス」に対する批判についての、私見を述べている。
    (B) 池埜聡・内田範子「第2世代マインドフルネス」の出現と今後の展望ー社会正義の価値に資する「関係性」への視座を踏まえてー、Human Welfare, 12:87-102,2020年 (これは、上記雑誌、1月号で、林紀行氏が注9)で紹介している。(p15) )
 マインドフルネスは、倫理的な問題を引き起こすおそれがあるという。 この第1の問題について、私の懸念の続きである。

 ブームの「マインドフルネス」(第1世代MD)は、「見る」局面だけが強調されて、思考や行動にある自分の悪事、不正、エゴイズム、執着、ハラスメント、自己の利益優先、など自分が他者を害する「悪」を帯びた思考、行為に無頓着になる傾向を助長するおそれがある。
 「いや、観るというのは「思考」も「行動」も見るのだという意味だ。思考も行動も「観る」のだ。批判は当たらない。」と反批判するかもしれない。だが、それは、おかしい。「思考」「行動」について「善悪」「好き嫌い」なく「無評価」で「観て」いいはずがない。差別やハラスメントにあたる思考や行動は表出する前に「悪い」と自己評価して、抑制しなければならない。「無評価」で発言し、行動すれば、すぐ批判される。だから、多くの人は「マインドフルネス」の実践方法をこの意味にはとらない。「第1世代マインドフルネス」は観るというのは、瞑想時だ、対人場面でのことではないとみなす。
    (注)参考までにいうと、西田哲学、鈴木哲学が紹介する日本の自己洞察は、「常に」である。今しかない、という哲学だから、常に自己の見方、考え方、行為(発言、身体行動)が「至誠」であるかどうか評価するという。「至誠」は、エゴイズム的でないこと、「自己中心的な色眼鏡」に染まっていないことである。「自己なくして」である。「ものとなって」である。今しかないのだから、瞑想時でも、思考の時も、行動への欲求も、行動への目的も、家族との対話行動時も、職場での思考、欲求、行動も、みなエゴイズム的でないか。世界をみる時も、考える時も、世界(外界)への発言、行為の時も、エゴイズム的でないか、倫理的悪でないか評価する。
    https://blog.canpan.info/jitou/archive/3309
     (後期西田哲学ではどのような実践を提案するか)
    https://blog.canpan.info/jitou/archive/3329
     (後期西田哲学の実践論)
    https://blog.canpan.info/jitou/archive/3359
     (至誠の実践=一毫の私なきところ)
    https://blog.canpan.info/jitou/archive/4586
     (西田幾多郎は、団体組織が個人の自由をしばるのは組織の不正であり、個人が組織の活動を妨害するのは、個人の不正だといった。)
 多数派の「第1世代MDには限界がある」という説を批判するものの言葉を見聞きしても無視、傍観したり、排除する傾向を一般国民に助長するおそれがある。いじめを目撃した時傍観しているとか犯罪を犯した人が、「マインドフルネス」から教えられたという事件が起きたらどうなるのだろうか。(次の「組織構造的、社会的問題の見て見ぬふり問題)

 組織の幹部が、不快さを表明したり批判する人を叱責し、人道的な悪を合理化し助長するおそれがある。

学者でも

 以上は、一般国民への影響であるが、学問し、学生、市民に教育する「学者」はどうだろうか。

 思考局面、行為局面で学者としての良心、倫理的悪に無自覚な傾向を助長するおそれがあるのではないか。以下は例である。

 大学の研究者は、「マインドフルネス学」の講義として広報した講義において、従来の自分の研究内容を講義することに大部分の時間を配分する講義(誇大宣伝である道義的な倫理)

 マインドフルネス学に限らず、すべての学問において、世間や組織内の自分の地位、名誉、収入を維持することを優先する利己心が学者の「良心」に恥じること、倫理的に「悪」と感じなくなる傾向を合理化、助長。

 多数派工作をして少数派である革新説、批判説を言うひとを排除する学者。

 メディアも慎重だろうから、多数派説だけを報道する傾向がある。 

 折しも、朝日新聞(12月20日)で、鶴田想人氏の「無知学」の論考がある。池埜氏・内田氏の第2の指摘のあと、「マインドフルネス学」にも、学者、医師などの間に、これに近いことが起きているのではないかという懸念に触れたい。


【MBCTの問題】
https://blog.canpan.info/jitou/archive/5287

 ここに述べたように、MBCTでは、対人場面でも、「賛成も反対もせず、好き嫌いもせず、自分の番になったら何を言うかも考えないで、ただ聞く」という。

【考えていただきたい】
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4345
★欲求、欲望も意識作用。他者を害する「悪」ではないかの「評価」判断。自己を観察することは、仏教では2000年、試行錯誤を繰りかえした。深いものの、無知、不知により善悪の評価もを間違って、枠外の社会問題の救済解決を妨害して、結果的に倫理的な悪になることもある。やさしい多数説は倫理的に危ういことが起きやすい。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3686
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4100
★ひとはみな自分の「もの」に執着する傾向がある。倫理的にふるまう学者ばかりではない。

(続く)

◆2023年、 日本、世界で種々の事件、紛争が勃発した時点で「マインドフルネス再考」
https://blog.canpan.info/jitou/archive/5296
【目次】第1世代のマインドフルネスに対する批判
   〜 問題を克服するために第2世代マインドフルネスへ


Posted by MF総研/大田 at 12:52 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL