「マインドフルネス」(第1世代)には倫理的な歯止めがない(2) [2023年12月19日(Tue)]
2023年、
日本、世界で種々の事件、紛争が勃発した時点で「マインドフルネス再考」
第1世代マインドフルネスに向けられた批判
〜 主にMBSR、MBCTの弊害
「マインドフルネス」(第1世代)には倫理的な歯止めがない(2)
マインドフルネスは、倫理的な問題を引き起こすおそれがあるという。
この第1の問題について、次に私の懸念を述べる。
初期仏教(説一切有部)には、四諦、八正道に「正念」があったが、そもそも、この初期仏教は、他者の救済を軽視していると大乗仏教が批判したが、その点は別にしても、戒律を守ることは重要であった。現代の「倫理」を含むような「戒」を遵守する実践があったが、仏教では現代の倫理よりもきびしいところもあった。主に、善をなして、悪をするなという、善悪の判断をするのである。ブームになった「マインドフルネス」は、善悪の判断をしないことをすすめるので、悪事や苦しめる言葉行為を無視、傍観、奨励するおそれがある。
初期仏教を批判した大乗仏教の主な実践は「六波羅蜜」である。そこに「持戒波羅蜜」があり、やはり、善をなし、悪をなさないことが重要な実践であった。そのためには、善悪の学習、訓練が必要である。
前の記事で、第1世代マインドフルネスに対する批判をみたが、私も次のように思う。
戒律・智慧などまでセットで実践する仏教の八正道から一つだけを「選り好み」したものという批判は、そのとおりであり、マインドフルネスは現代における倫理的な配慮、つまり、いじめ、ハラスメント、悪などの抑制を無視させるような実践になっている。
ヴィクトール・フランクルがいった学問における「還元主義、画一主義、全体主義」に類似していると思われる。
「マインドフルネス」は「慢性疼痛」のストレス低減から始まったが、「身体的痛み」は、対人関係に関する感覚ではなく、症状の克服に効果があったが、この観察方法を対人関係で用いることは無理があるのだろう。「科学的な」検討が必要である。
瞑想時には、生身の人の苦しみや悪の行為が迫ってくる場面ではないのが「マインドフルネス」であり、瞑想時の部屋や風景、食べ物を見ることだけでよいようなトレーニングであり善悪が起きない状況の繰り返しであり、この無視・傍観の方法が身につくと危険である。
家庭、学校、職場など瞑想時でない時にも他者によるいじめや人道的悪、ハラスメント、法律違反、不正などの現場を見ても「善悪」「嫌だ」等の判断を回避し、傍観する傾向を助長するおそれがある。
いじめや不正を見た時、批判や告発をすれば、自分に不利になるからと、良心の呵責を封印して傍観しようと決め込む確信的な利己心を合理化する傾向を助長する。これは、悪への加担である。マインドフルネスを教えるものの中にも、実際こういうことが起きている。
次に、自分が被害を受けるおそれである。詐欺やハラスメント、虐待などの意味を持って自己に迫ってくる言葉や身体的接触行為を批判的にみないで、後に大きなトラウマ、組織からの排除など社会的な被害にもあう傾向。
家庭や組織で、親やパートナー、指導者から虐待、暴力、ハラスメントを受ける時、否認・抑圧する傾向を助長するおそれがあり、後に深刻なトラウマの問題をもたらすおそれがある。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/5287
ここに述べたように、MBCTでは、対人場面でも、「賛成も反対もせず、好き嫌いもせず、自分の番になったら何を言うかも考えないで、ただ聞く」という。
(続く)
◆2023年、
日本、世界で種々の事件、紛争が勃発した時点で「マインドフルネス再考」
https://blog.canpan.info/jitou/archive/5296
【目次】第1世代のマインドフルネスに対する批判
〜 問題を克服するために第2世代マインドフルネスへ
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Posted by
MF総研/大田
at 22:01
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さまざまなマインドフルネス
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