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(6)一元論(東洋)と二元論(西洋)〜その1 [2023年12月05日(Tue)]
うつ病を治して自殺防止
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2023年、 日本、世界で種々の事件、紛争が勃発した時点で「マインドフルネス再考」
マインドフルネス学は科学学問としてはまだ成熟していない
(6)一元論(東洋)と二元論(西洋)〜その1

 「マインドフルネス学」は、「科学」「学問」ならば、もっと検討すべきことが多いと思う。ちょうど、雑誌が「マインドフルネス再考」を特集したので、みなさんで検討してほしい。

 今度は次の論文を検討したい。

 「マインドフルネス療法は他の精神療法と何が違うか
 〜東洋と西洋の異なる世界観のCreative fusionは成立するのか」(執筆者:佐渡充洋)
(雑誌『精神科治療学』2023年1月号、星和書店、(p17-22)
 特集 マインドフルネス再考 〜様々な対象、領域での応用)

 この論文を見ても、現在の「マインドフルネス」は学問としても、方法としても、未成熟であることがわかる。マインドフルネスを用いる支援者、セラピストは、一元論の哲学に通じている必要があるという(p21)。

 佐渡氏の論文の大きなポイントをたどる。

 「マインドフルネス療法の独自性を一つ挙げることができる。それは、マインドフルネス療法が東洋思想と西洋思想の“融合”の産物だということである。」

 「マインドフルネス認知療法における思考の扱いに焦点を絞り、これを議論する。」(p18)
 「マインドフルネス療法には、様々な療法が含まれるが、議論を簡便にするためここでは特に断りのない限り、マインドフルネス認知療法を意味することとする。」(p18)

 「マインドフルネスでは、思考も、身体の感覚や視覚、聴覚など五感と同じ性質を持つものとして扱われる。」(p18)
 「瞑想と認知モデル。マインドフルネス認知療法では、東洋と西洋、それぞれ異なるアプローチで思考の性質を探索し、思考というのも一つの現象にすぎず、他の要素の影響を受けながら(逆に他の要素に影響を与えながら)、時々刻々と変化するものであることをしっかりと体感できる構造なっていることがわかる。」(p19)
 この指摘は重要である。他の心理学や哲学とは違うところがあり、マインドフルネス認知療法(MBCT)の功罪(長所と短所)が生じるだろう。瞑想でない場所、時には、これは妥当でないと思う。前の記事でも指摘したように、不正、ハラスメント、いじめなどの無視、傍観、批判的発言をしないわけにはいかない。瞑想時も他の行動時にも一貫した哲学、自己観察法ではなくて混乱が生じるおそれがあるかもしれない。心理学、哲学、倫理学などからも検討してほしい。(大田)。

「私」と「思考」の距離ができる〜「脱中心化」

 マインドフルネスは、思考を観察することを通して、「私」と「思考」とは別であるという理解を生むようになり、「ネガティブな思考が反芻を始めても、それに飲み込まれてしまう状態を回避することができる。」(p20)と考えられているという。

 「「私」と「思考」の関係におけるパラダイムシフト(脱中心化)が、患者の症状の改善に大きな役割を果たす」(p20)

 このように考えられているという。ただし、それは二元論であるという。

 「それでも「私(自己)が思考を観察している」、つまり観察している「私(自己)」が残っているという点において、このパラダイムは、二元論の中にとどまったものであると考えられる。」(p20)

 しかし、佐渡氏は、マインドフルネスの一定の効果を認める。

 「自己が完全に消滅していない二元論にとどまるパラダイムシフトであったとしても、それは自己が相対化されていくプロセスそのものであり、二元論=苦悩を深める、という図式は必ずしも成立しない。」(p21)

 そのうえで、西洋の二元論が絶対的真理であるわけでもなく、一元論は西洋の「二元論にはなかった視点を手に入れられるはずだ」(p21)とも、いう。

 「西洋の立場からは、自己を相対化するという視点、目的思考を手放す姿勢など、二元論にはなかった視点を手に入れられるはずだ。」(p21)

 現代の日本人も二元論になっており、一元論を知らないので、そこにある視点を知らない。それで、マインドフルネスが日本人にも「本質的な一元論の理解」につながる可能性を佐渡氏はみている。
 ジョン・カバットジン氏は、MBSRは深い東洋の実践への「扉」だといったが、佐渡氏も似たことをいうのだ。アクセプタンス・コミットメント・セラピー(ACT)の文脈としての自己も二元論である(=大田)。二元論のマインドフルネスでは、一元論のレベルの社会問題の解決支援はできないだろう。このレベルの深いマインドフルネスは日本では極めて少ない。
 「目的思考を手放す姿勢」も問題である。一つは、マインドフルネスは、現在ビジネスとなっているし、ストレス緩和の効果がうたわれているだろう。それ自体が「目的」を言っている。二つは、瞑想時以外の場所、時には、人間は自分のつとめ(SIMTでは「価値」という)を果たそうとして「目的」を次々に設定して行動していくものだが、この人間の現実と矛盾する。 (大田)  「東洋と言えども現代の日本人は、西洋の二元論的思考にどっぷりと浸かっている。それゆえにいきなり無我と言われても多くのものがそこにアクセスしづらい状況にある。そうした現実を考えると馴染みのある二元論の中でまず自己を相対化する、そのことが、その先にある本質的な一元論の理解へとつながる可能性を高めてくれるのではないか。筆者はそのように考える。」(p21)
 「しかし、そのためにはマインドフルネス療法を行うセラピスト自身が、一元論に通じている、少なくとも通じようとしている必要がある。そうでなければ、マインドフルネス療法に参加する多くの患者が、二元論の罠に陥ってしまうことになる。」(p21)

 「二元論の枠組みの中で、自己の相対化やその先にある無我の世界を言語的に、非言語的にいかに伝えていくことができるか、そうした能力もまたセラピストには求められる。」(p22)

 佐渡氏の指摘はもっともである。自己観察の手法の根拠をどの哲学、どの仏教に見出すか。一元論といっても、初期仏教、大乗仏教とでは違うし、西田哲学も説明している。 我々の「マインドフルネス瞑想療法士」の講座では、10回の講座の中で、こうしたことを学習する。(下の囲み記事を参照)
 佐渡氏の言うところ(一元論)まで、そして佐久間氏の「絶対」レベルまで「マインドフルネス学」の範囲なのか。佐渡氏の一元論を理解すべきというところは、「無評価で観察の瞑想」を超えているように見える。今の日本の「マインドフルネス」は、浅い二元論のマインドフルネスにとどまっている。
 無評価で観察の瞑想を超えたものがある。そのために、指導者になるためには、かなり長時間の呼吸瞑想を必要とする。佐渡氏が述べている。
 伊藤靖氏も「非二元性」をいい、「Kabat-Zinnは呼吸瞑想に関して、" 完全に呼吸と一つになり、自分がなくなる”と記している。」(p25)
これは、「自分」を残したままでの「無評価で観察の瞑想」では解決できない問題を含んでいるようである。「マインドフルネス学」はどこまで扱うのか。
 「マインドフルネス」は「宗教を排除」といいながら、宗教で長年実践してきたものの一部と同じものを利用して、全体を構成しなおして、ある分野に効果があると教えているようにも見える。大学で学者が「枠組み」を規定して、「方法」まで規定したものを教えると、学生や社会人は学問的真実であるようにみなすだろう。それが海外、日本の学者によって、違うことを言っており、「新しい宗教」ともいえないこともないのではないだろうか。大学や団体で「坐禅」を教えるところもあるが、それと、どれほどの違いがあるのか。
 次の記事(〜その2)で、問題点を指摘しておく。


 佐久間氏、伊藤氏とこの佐渡氏の論文の主旨からも、「マインドフルネス学」は、まだ成熟していないと私は思う。この混乱のゆえに、大学でもマインドフルネスを教える学者の間で混乱がみられる。マインドフルネス学で、佐渡氏、佐久間氏の指摘も学問的に検討して、学生、社会人に教育していただきたい。さもないと、「マインドフルネス」は「科学」「学問」ということを口実に深い問題の解決への研究を限定してしまう。日本では、あらゆる場所(二元論、非二元論の領域すべて)で、精神社会問題で国民が苦しんでいる。宗教問題(カルト、死、死んだ祖先の地獄)でも苦しんでいる。
 精神疾患が治らない、若者の自殺が多い、こどもの自殺、孤独孤立の問題も。治療、支援対策がすすまない。自分他者の自己中心的心理=我利我執、バイアス、偏見も関係している。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4444
★学者の良心が

(参考図)二元論から一元論のマインドフルネス

佐渡氏は二元論、一元論を述べた。「無評価の瞑想」を超えて、セラピストは一元論を理解することが必要という。(ただし、初期仏教の「無我」は実践的であり、「実在論」的(対象とならない)ではない。

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(西田は初期と晩期とでは用語が異なる。最後の論文「場所的論理と宗教的世界観」では、すべての人の根底を「絶対無の場所」「絶対者」「絶対的一者」という。絶対に対象にならない。上図では「絶対無」という語にした。)
SIMTを用いる自己洞察瞑想療法士の講座では、 次の哲学を学習する。

第7回(1月15日)に初期仏教の哲学(大乗仏教、道元、西田哲学と違う)
第8回(2月16日、金曜)に、道元の哲学(絶対無まであるのが道元)
第9回(3月18日)に相対的一元論(叡智的自己)
第10回(4月15日)に絶対無の一元論二元論の分かれる前(人格的自己)の哲学
(聴講したい人は「マインドフルネス総合研究所」にメールでご連絡を。)
メールは、 ホームページに掲載。
各回:テキスト代3000円。
会場は、埼玉県蓮田市。オンラインはありません。
開催日は、2月以外は月曜です。


薬でなくうつ病を治す方法の開発は長年の悲願
https://blog.canpan.info/jitou/archive/1847
★2009年のNHKテレビ放送とともに出版された本

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4436
★科学学問も第三者による評価が必要

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4444
★学者も自己自身をも批判する良心を

https://blog.canpan.info/jitou/archive/4413
★専門家多数派のエゴイズムを考える

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3577
★宗教、学問も自分のものを執着する
 〜メディアにしかできない

(注)
「無評価で観察の瞑想」は、7つの態度のうち第一をさらに簡略にしたものが普及している
ジョン・カバト・ツィン 1993「生命力がよみがえる瞑想健康法」春 木豊訳、実務教育出版、 pp55-56
後に、北大路書房から『マインドフルネスストレス低減法』の題で発行、同じくp55-56。


https://blog.canpan.info/jitou/archive/5281
◆「マインドフルネス再考」
マインドフルネス学は科学学問としてはまだ成熟していない
Posted by MF総研/大田 at 10:33 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL